第二章ー嵐の夜ー
『その日』は雨が降っていた。
雨期でもないのに雨が降るのはこの国では珍しいことだった。
その雨に紛れるように忍び込んできた足音があった。彼らは城を踏み荒す闖入者だ。花を踏むことも厭わず蹂躙していった彼らは女王の命を散らし――国の至宝たる銀の薔薇の姫を奪った。
ルスティカは母親と半身が奪われた日のことは覚えていない。
けれどこんな感じだったのではないだろうかと想像した。怒涛の如く押し寄せて――気付いた時にはもう何もかも終わっている。
どうしようもなく。抗い様のない暴力的なソレは――運命と呼ぶのではないだろうか。
銀の薔薇姫の帰還を祝して行われたルスティカ主催のパーティはそれは盛大なものだった。
上質で粒も大きい貴石が産出することで有名な黄国。その王宮ともなれば一つ売れば一生苦労しないで暮らせるだろうというほど高品質な宝石が天井や壁に散りばめられており燭台の灯りを受けて煌めく星のように瞬いていた。それはさながら宝石の天の川のようだった。
王家の威光をこれでもかと見せつけるに足る豪奢な設えは圧巻と言っていい。
そこに国の至宝たる二人の薔薇姫の登場に誰もが歓声を上げた。双璧をなす美しい姉妹が揃うことは二度とあるまいという諦観を誰もが抱いていたためだ。
二人の王女の美貌に誰もが我知らぬうちに嘆息し、絶賛した。口に登るのは王家への祝福の言葉たちだった。寿ぎの言葉にルスティカは浮かれていた。心が躍り雲を踏んでいるような心地になっていた。
程よい酒が入ったからだは熱を伴いじんわりと身体の内が熱く頬が火照っているのが解る。
夢を見ているように気分が良かった。
この日行われた晩餐会はマレーナ帰還の祝いと披露目の意味も兼ねていたので政治の中枢を担う要人たちが出席していた。当然、二人の王女の親族である王族たちも出席していた。
「ルスティカ」
「お兄さま――いらして下さったのですね」
浮き足立って人々の間を縫うように歩いていた婚約者をみつけてたまらず声を掛けたのだが振り向いたルスティカはアシュガルがこれまでに見たこともないような柔らかい笑みを浮かべていた。
思わずそれに見惚れてしまった。
「……?お兄さま?」
「……っ、あぁ、もちろん――」
気取られる前に勢い込んで口を開いたアシュガルを不審がることもなくルスティカは目を細めて人々を見た。
「みな、マレーナの帰りを喜んでくれています。……良かったです」
頬を上気させてルスティカは言う。
「あぁ、そうだな。本当に喜ばしいことだ」
「えぇ。みなと喜びを分かち合えて嬉しい――」
夢見る少女のように無邪気な口調で語るルスティカは今まで見たことはなかった。この美しい婚約者がこんなににこやかにしているのは珍しいことだった。
彼女は美しいが、美しいだけの姫君だった。自らの感情を発露することも発言することもほぼない、「活きて」いない娘だった。それゆえその美しさも相まって人形のように見えていた。
もっともアシュガルはルスティカのそういう態度に苛立ちを覚えていた。自分より身分の高い彼女と結婚することは彼の自尊心を満足させることであり同時に劣等感をどうしようもなく刺激していた。
些細なことでも気になったのはルスティカの人形然とした様子が王族らしい傲慢だと彼は捉えていたからだ。――見下されているから感情を見せないのだと。
だから思わず言っていた。
「……その、なんだ。……珍しいな……」
「え?」
「ルスティカが嬉しそうにしているところははじめて見た」
どんな貢物をしても彼女は満足せずニコリともしなかった。
「ありがとう、お兄さま」ただそう言ってルスティカは受け取るだけだった。
ルスティカが物心つく前から決まっていた婚姻だった。だから彼女が幼い頃から知っているがこの許嫁が心から笑ったところは見た記憶がない。
言ってしまってから後悔した。どうして自分は本音を漏らしてしまったのだろうと。これでは彼女に侮られてしまう。失態だと自分に舌打ちをしたくなった。が――
「……そうかもしれません」
小さな同意の声。それは思ってもいなかったルスティカの言葉だった。
「こんなに嬉しいと思ったことはこれまで一度もなかったかもしれません……。――どうしてでしょう?」
素直に素朴な疑問を口にするルスティカは幼い子供のように見えた。
その答えを示すことはアシュガルにはできなかった。
答えは期待していなかった。ルスティカ自身、独白だった。もうルスティカにアシュガルは見えていない。
婚約者同士だと言うのに二人の間に流れる空気はとても甘いものではなかった。
「――やあ、楽しんでるかい?二人とも」
そこに不似合いなほど明るい声が入ってきた。ルスティカの父――ダール王だ。
「はい叔父上。このような場にお招きいただき、恐悦至極に存じます」
内心の気まずさを押し隠してアシュガルは芝居がかった仕草で礼を取った。
「はは、ならば良かった。どうだ?若い二人の会話は弾んでいるか?」
ルスティカは眉を顰めた。――最近、父は従兄との仲を気にしている発言を多くするようになった。
「何の問題もないわ。普通よ、お父さま」
それがなんだか鬱陶しくて素っ気ない声で言い切る。
「普通か。……それはどうなんだろうな?」
王は意味ありげな視線をアシュガルに送った。
「ルスティカも言っていたではありませんか、叔父上。何の問題もないと。順調ですよ、私達は」
アシュガルがソツなく答える。
「ならば良いが」
満足そうに頷く王にアシュガルが内心胸を撫で下ろしたところで何かに気付いたルスティカは周囲を見た。
「あら?お父さま、マレーナは?一緒ではありませんの?」
「ん?……あぁ、マレーナか。あの子ならシャクール大臣と話しているから心配ないだろう」
「シャクールと?」
その人物なら知っている。以前は頻繁にルスティカに面会を求めていた大臣の名前だった。有職故実に通じた人格者と言われるシャクールはルスティカが王位を継ぐ立場にあるのに勉学に勤しんでいないのを憂い、たびたび政治について教授しようとしていたのだ。――その熱意はルスティカには届いていなかったが。
(そう言えばマレーナを連れてきたのはシャクールだったわね。丁度いいわ。何か聞けるかもしれない。マレーナのこと)
ルスティカの興味は民草には向かない。半身である妹にしか向いていないのだ。
「どんな話をしているのかしら。ちょっと行ってきますね」
「ルスティカ」
二人に背中を向けたルスティカを父王は呼び止めた。
「ここで待っていたらどうだね?難しい政治の話に興味はないだろう?」
「それってマレーナは政治に興味があるということ?」
意外だった。自分はまるで政治に関心がないのに妹は興味があるということが。
「不思議ね。マレーナが政治を行うわけではないのに」
自分もそうだ。女王にはなっても政務を執り行うのは父と伯父と、夫となるアシュガルなのだから。
「マレーナは変わっているんだよ、ルスティカ」
ゆっくりとダールは言った。
「大丈夫だよ、ルスティカはそのままでいいんだ。――難しいことは全部お父さまたちがするから。ルスティカはそのまま、楽しいことだけをやっていればいいんだよ」
幼い頃からダールはそう言ってルスティカを甘やかしてきた。それにルスティカは疑問も持たず頷いてきた。その方が楽だった。
けど、今は――
「マレーナと一緒だったらいいわ。一人だと難しいけど、二人なら大丈夫だと思うもの」
朗らかにルスティカは笑って父たちに背中を向けて歩き出した。