第一章ー失われた王女の帰還・5ーお茶会
気晴らしに――とルスティカはマレーナを誘って庭園でお茶会を開いていた。厳選された香り高い紅茶に、目にも鮮やかな新鮮なフルーツが乗った細工のようなケーキ。
薔薇の精のように美しい姉妹が談笑している様子はそれは和やかで誰もが笑みを浮かべる和やかな雰囲気に包まれていた。
そんな中で。
「――るし下さい、お許し下さい!どうか、お願いします」
平和で穏やかな楽園である王宮に切羽詰った悲痛な声が響く。楽園に似つかわしくない不協和音にルスティカは眉を顰めた。
「何かしら?騒がしい」
「尋常な声じゃありませんね」
マレーナも硬い声で同意する。このできごとに対して抱いた両者の感情の違いは決定的なものだった。
悲痛な声で啜り泣く若い女と「早くなさい」と告げる冷然とした声は泣いている女より年かさのものだ。
「お許し下さい、お城に置いて下さい。ここを追い出されたらどうやって生きていったらいいか……!」
「静かになさい、聞き苦しい」
ピシャリと叱りつける女の声には聞き覚えがある。あれは侍女長・バシラのものだ。
「バシラさま、どうか……!」
バシラに泣き縋る若い侍女――あの顔には見覚えがある。
「バシラ」
ルスティカは立ち上がると二人の傍へ行った。
「王女殿下、お見苦しいところをお見せいたしました」
焦らず即座に礼を取ったバシラはさすがだ。一方の若い侍女はへたりこんで呆然とルスティカを見ていた。
――あの侍女だ。
記憶と照らし合わせて胸中で呟く。大臣が面会を求めていると告げに来た、察しの悪い侍女。
気が乗らないルスティカに食い下がり大臣と面会すると嘘をついて――虚偽の報告をしたと責任を取ることになったのだろう。ルスティカの機嫌を損ねた彼女に誰も手を貸そうとはしなかったのだ。誰だって主には睨まれたくない。
「姫さま――」
「おまえ。まだこの城で働きたいの?」
年の頃は同じな侍女と王女。けれど二人には決定的な差があった。身分という絶対的な壁。権力という庇護を持っているかいないか。
「……はい」
「それはなぜ?」
傲岸にルスティカは尋ねた。この王女はそんなことも解らないのかと侍女は唇を噛んだ。民草の生活を顧みたことがないのだ。そんな傲慢な相手に自分は媚びなければならない。それが悔しくてならなかった。
「――家のためです。家にいる、幼い弟や妹たちを育てるにはお金が必要なんです。わたしが働かなければ、家族は食べていけません」
黄国は実りが少ない。植えれば実る肥沃の大地を持つ他国とは程遠い。沿岸部なら漁をするという手があるがそれ以外の地域にいる民は宝石の採掘をするために鉱山に入るしかない。
自然の恵みがない大地であったがそれを補うように鉱山が幾つもあった。けれど場所は限られているため炭鉱夫は出稼ぎになる。そうなると大黒柱のいない家で生計を立てていかなくてはならない。いくら仕送りがあると言ってもそれで事足りるかといえば決してそうではないからだ。
「そう、家族のために働いているの」
労働を知らない王女は鷹揚に頷いた。――働く必要がない王女はなぜ民が働くかという基本的なことさえ知らない。それが悔しくて侍女は奥歯を噛み締めた。
「なら、働けばいいわ」
あっさりと王女は言った。
「え……?」
侍女は拍子抜けして口から言葉がそのまま飛び出した。――この王女は今何と言った?
「働いたらいい、と言ったのよ」
聞こえなかったの?という風にルスティカは言った。そこに嘲りも蔑みもない。
「ですが……」
「?嬉しくないの?仕事を続けたかったのでしょう?」
「――」
「姫さま。それでは示しがつきませんわ。この者は過ちを犯したのです、罰を与えなければいけません」
厳格なバシラがルスティカに進言した。王女の機嫌を損ねた自分を仲間たちが虐めるのを見て見ぬふりをした癖に、だ。
バシラは厄介ごとを抱え込みたくないのだ。周囲との軋轢ができてしまった自分が王女の一声で侍女を続けることになったらどうなるか。それで生じる面倒事の処理をしたくないのだ。
汚い――と彼女は思った。こいつらは汚い。こんな奴らの下で働かなくてはならないなんて、と歯噛みする。
「罰……。この者はどんな過ちを犯したの?城を追い出されるほどの過ちだったの?」
「それは……」
バシラが口ごもる。当たり前だ。自分が犯した過ちと言えばそこで不思議そうに首を傾げている王女の機嫌を損ねたことだけだ。
そのせいで仲間たちに雑用を押し付けられ、他の侍女の失敗を被せられたのを侍女頭は把握しているのだから。
腹立たしくても悔しくても彼女は言葉を発さない。食いしばって耐えなければ、故郷の弟妹たちは飢えてしまうのだから。
「あなた、年が近そうだからわたしに仕えてくれないかしら?」
屈辱に耐えている中で聞こえたその涼やかな声は心に染み入るようだった。
それを言ったのは今まで一言も発さなかった銀の薔薇の姫だった。向けられた視線に応えるように彼女は目を細めた。
黄金の薔薇の姫に比べれば華やかさに欠けるが銀の薔薇の姫の方が気品高く慈悲深い印象を持った。
この方に仕えたい。自尊心がボロボロになっている彼女の眼に銀の薔薇の姫は神々しく映った。
「……マレーナ殿下」
「いいでしょう?姉さま、バシラも」
妹のお願いにルスティカはあっさり頷いた。
「マレーナが望むならいいわ。――あなた、良かったわね。働けて」
憮然とした面持ちを見せまいと頭を下げた。ルスティカには声を掛けられた侍女が礼を取っているようにしか見えなかった。その下の表情を慮ることはなく。
「バシラもいいわよね?」
二言などあるハズがない。バシラは黙然と頷いた。ルスティカ付きではなくマレーナ付きならば微妙な関係になった侍女仲間たちと顔を合わせる機会も少なくて済む。ならばこれでいいかとバシラは思ったのだろう。ここで食い下がってルスティカの機嫌を損ねた方がバシラにとって問題なのだ。
ルスティカだけがこの場を取り巻く感情に気付いていなかった。一件落着というように紅茶の芳香を楽しんで麗らかな春の日差しの中にあるように晴れやかに笑う。
バシラと若い侍女は控えるように立っていることしかできなかった。そこにマレーナが声をかけた。
「あなた、仕事を続けるのだから荷物を置いていらっしゃい」
城を追い出される寸前だった侍女の足元には私物を詰め込まれた鞄があるのをマレーナが見つけたのだ。
「はい、ただいま」
「バシラも一緒に行ってあげて。――その後はあなたの仕事に戻ってね」
「畏まりました」
マレーナの言葉に顎を引いて答え、二人の王女の前から二人の侍女は辞していった。
その背中を美しい姉妹は黙って見送った。
「……家のために働く――あの侍女はそう言っていたわね」
コップを回しながらルスティカは呟いた。表面が波打つ茶を見ながら。
幼い弟妹のためだと言っていた年の変わらない侍女。
「それって――幸せなのかしら?」
侍女もその弟や妹も。
「……姉さま?」
そっとマレーナが密やかに声を掛けて来る。
「わたしには、考えられないわ。今すぐ働くなんて。――兄弟と離れて暮らすなんて、考えたくない」
ようやく再会した妹に笑い掛けながらルスティカは言った。もうこの愛しい半身から離れたくないと思いながら。
「そうですね。……きっとあの侍女も、その弟妹達も寂しいと思いますが――仕方のないことなんです。働かなければ彼女の弟妹は食べることができないでしょうから」
「そう……故郷で働き口があればいいのにね。そうすれば、家族が離れずに済むのに」
それは難しい夢物語だとルスティカは知らなかった。民の暮らしを考えることがなかったからだ。
ただ今は先程の侍女に同情して、彼女を憐れんで心の底からそうなればいいのにと祈った。
その力が自分にあるということにルスティカは気付かなかった。
侍女に同情するルスティカを見つめていたマレーナはその光景を閉じ込めるように目を閉じた。
「本当に。そうなれば良いのですけど――」
美しい姉妹が今できるのは希望を述べることだけだった。
「あぁ……お茶が冷めてしまったわね。侍女に変えさせましょう」
一口お茶を口に含んだルスティカは渋い顔をした後で侍女を呼びつけるべく鈴を鳴らした。