第一章ー失われた王女の帰還ー
今日もまた平和な一日が過ぎると思っていた。
ルスティカは爽やかなオレンジの香りがするフレーバーティーを楽しんでいた時だった。
穏やかではない足音が徐々に大きくなってルスティカは眉を顰めた。せっかくお茶を楽しんでいたのに、無粋な闖入者もあったものだと思った。
「ルスティカ!」
侍女を伴ってタペストリーをくぐってやってきたのはルスティカの父方の従兄で――婚約者である青年だった。
人目を引く整った容貌で優雅な物腰の紳士で身嗜みに気を使っている彼にしては珍しくうろたえている様子だったのでルスティカは訝しんだ。
「いったいどうなさったのですか、アシュガル兄さま。そんなに慌てて――」
「大変なことになったんだ!――君の妹が見つかったんだよ」
「え――?」
何を言われているのかすぐに判らなかった。
それは側にいた侍女たちも同じだったらしい。かなりの人数がいたのにその瞬間、音が止んだ。
(わたしの、妹――……?)
あまりにも長い間意識したことがなかったのでその存在をルスティカは忘れていた。
物心つく前に別れた、双子の妹。母が亡くなったあの忌まわしい日に攫われてしまった妹――マレーナ。
「マレーナが、見つかったの……?本当に……?」
片割れとの再会の喜びよりも驚きと戸惑いの方が勝っていた。
「ああ。いま、叔父上――……陛下に拝謁なさっているよ」
落ち着きなく視線をあちらこちらに漂わせながらアシュガルは言った。
「そう――……なの」
頷くのがやっとだった。突然のことで何の感慨もなかった。
妹についての思い出はない。当たり前だ。物心つく前に別れたのだから。それはつまり思い入れがないということでもあった。
というのも、ルスティカはずっと妹を亡い者だと思っていた。母が襲撃された折り、運よく難を逃れ助かった自分とは違って妹はその襲撃に巻き込まれたのだ。あの時母は亡くなったが赤子の妹はずっと行方不明だった。――遺体がないだけで、死んだものだと思っていた。
誘拐したというならその後、何の要求もなかったからだ。人質に取っていたのなら追跡調査で犯人と目された蛮族を締め付けた際に交換条件として提示されたはずだ。それさえ、なかったのだ。
妹は死んでしまったんだ――。幼くして奪われた命に憐れみを感じることはあったが、日々の中に消えてしまうほど微々たる感情だった。共有する思い出がなくて、妹の喪失を悲しむという感情が育たなかったのだ。
「……ねえ、お兄さま。それ、本当にマレーナなの?」
だからルスティカは非情なほど冷静に事態を見きわめようとした。
「ルスティカ……?」
「だって。あの事件のあと、マレーナを名乗る偽物は何人も現れたじゃない。今回は本物だっていう証拠はあるの?」
ルスティカが妹の帰還に対して消極的な理由はそれもある。これまで、失われた王女を詐称する輩がいた。その度に落胆してきたのだ。
「それが、今回は本物らしい」
「どうやって分かったの?マレーナは白金色の髪だけど髪の毛は染めてしまえば誤魔化せるじゃない」
ルスティカの金髪も妹の白金色髪も王族以外には滅多にない珍しい色だ。それは神の子孫である証であり、神の奇跡を引き継ぐ者の印だ。
「それが……マレーナ姫を名乗る娘の目の色は、青だったそうだ。聖眼なんだよ」
ルスティカは眉をひそめた。
「それなら――可能性はありそうね」
偽物と本物を区別する有力な手段は王家の特徴でもある青い目を持っているか否か、だ。
青い目は聖眼と呼ばれ神聖視されるほど稀有なもので、それだけで王家に連なる者という証明たりえるものだった。
信憑性が増してルスティカは考えてみた。
(妹……ね。今回は本物なら――どうなのかしら?)
何の感慨も浮かばない。歓びすら湧かない。
小さい頃ならともかく――これほど時間が経っていなければ双子の妹の帰還を喜べただろう。だが、時間が経ち過ぎていた。ルスティカは妹に対して何の関心も興味も持てなかった。
「何か……ないのか?ルスティカ」
ルスティカの素っ気ない反応にアシュガルは戸惑った顔になった。
「そうね。何にせよ、すぐに判るんじゃないかしら?本物にしろ、偽物にしろ――ね」
唖然とするアシュガルにルスティカは悠然と微笑んでフレーバーティーに手を付けた。
(そうよ。わたくしには関係ないわ。本物か偽物かはお父様が判断なさることだもの。わたくしはただ、それに従えばいいだけだわ)
「ルスティカ……」
「お兄さまもお飲みになります?」
呆然と立ち尽くす婚約者にルスティカは席を勧めた。それに我に返ったアシュガルはいつものように余裕ぶった笑みを湛えた。
「いや。――遠慮しておくよ」
「そうですか。残念です」
紅茶を啜りながらルスティカは言った。さして残念そうではない――取り澄ましたその様子に苦虫を噛み潰したような心地になるアシュガルに気付きもせずルスティカは自分の時間に没頭した。――用件が済んだ者には興味がない、ということだ。さっさと自分の世界から締め出して眼中に入れない。この王女は昔からそうだった。
溜息をつくほど美しい、容姿が完璧な王女。これほど美しい王女を妻にできることはプライドの高い男の自尊心を満たしていたが、彼女の性格は受け入れがたいものがあった。
アシュガル自身も決して性格が良いとは言えなかったので周りから見れば「似た者同士」なのだが自分の性格の悪さは棚上げしてアシュガルは心中で王女への不満をぶちまけた。表だって言うことはできない。何せ相手は王女で――次期女王なのだ。従兄とはいえ自分の方が身分が低い。彼の不満は出口を求めて腹の中で暴れ回った。が――ルスティカのいる前では終始にこやかな顔を貼り付けていた。
美しい婚約者の部屋を辞し、自分の執務室に戻って来たアシュガルは割り振られた仕事に取り組むもののどうにも進みが遅い。気が立っているせいだ。
周りの者は彼の機嫌が悪いことに気付くと怯える者、コソコソと逃げ出す者に分かれた。それを視界の端に収めたアシュガルは更に機嫌を悪くして小さなことで従者を叱りつけた。
「こんなこともできないのかっ!?」
「申し訳ありません、すぐに訂正を――」
「当たり前だ!さっさと行け!!」
「はいっ」
戦々恐々。顔面蒼白で従者は走り出した。他のアシュガル付の文官は八つ当たりされないように主と目を合わせないように書類に目を落とした。
「……ふん」
その様子を頬杖をついて不満げに睥睨した。ちっとも気は晴れなかった。自分に媚びへつらう下々の者を見ることで自尊心を満たすことができたのだが、最近相手に知恵がついてきた。嵐が過ぎるまで待つという作戦に出られるとなかなかうまいこといかない。
(こんな窮屈な思いはもうたくさんだ。早いことルスティカと結婚してルスティカが即位すれば――誰も俺に逆らうことができなくなるのに)
ルスティカだって――。美貌の婚約者の顔を思い起こしてアシュガルは頬を強張らせた。
ルスティカが女王になれば。実権は自分と父、それに叔父が握ることになる。ルスティカは政務に興味がないのだから親族の言うことに耳を傾け、頷くだけだ。そうなれば名実共に王の配偶者となった自分は絶大な権力と地位を約束されるのだ。
今は自分に見向きもしないあの従妹も気付くはずだ。自分がどれほど優れた夫を手にしたかを。
(ルスティカだって俺に関心を持つ。俺を見るようになるだろう)
ルスティカが婚約者になった時からずっと焦がれていた、甘い夢。それがもうすぐ手に入ると言い聞かせては悦に入った。
機嫌が直ったアシュガルは早速仕事に精を出す――などということはなかった。
「仕事ができるまで休憩する」
そう宣言してさっさと執務室をでると隣の休憩室に転がり込み、休憩と聞いて飲み物を持ってきた侍女にちょっかいをかけた。
そうやって伊達男ぶることが強い男の演出になると信じてやまなかったのだ。王の配偶者となった叔父はともかく父をはじめ親族の男達は多くの妾を持っていた。それが男の甲斐性だと幼い頃から教えられていた彼は婚約者一人にしか興味のない自分が狭量だと思い込んでいた。それでは困るとさまざまな女性にちょっかいをかけては浮名を流していた。
真摯にルスティカに向き合うことなく、自分の思う、自分が信じる理想像を追い求め、それに縋っていたことには気付かなかった――。