第8回
「すみません。お時間いただいて。」
ドアが開いて,制服の女子高生が入ってきた。一瞬だけ俺を見ると,深々と頭を下げる。
「3年2組の瀬田光瑠といいます。」
「こんにちは。どうぞ。」
「失礼します。」
俺は,目の前の席を勧めた。瀬田は,緊張した面持ちで腰を下ろす。
放課後の進路相談室。この類の部屋には悪い記憶以外ない。高校時代,担任に模試の成績のことで呼び出されたとか…
『ちょっとお願いがありまして…』
前日のこと。瀬田の担任教諭が事務室に来た。まだ二十代の男性教師は,クラスの生徒の相談に乗ってほしいという。
『事務の仕事に興味があると言っています。お仕事のことを聞きたいということですが…』
俺で役に立つなら。そう答えたが,少し違和感があった。普通なら,根本あたりに頼むはずだ。歳も近いし,話しやすいだろう。
「それで相談というのは?」
「はい。あの…それが,相談といいますか,お願いがあって…」
俺の予感の的中率は高いほうだ。特によくないことに関しては。それなら,時間をかけても仕方ない。俺のほうから切り出すことにする。
「市のサイトを見たんですか?」
「は,はいっ!」
数日前,マトリョンとメイリンが,ブログで紹介された。
公認アイドルとして活動する。詳細は追ってアップする。というシンプルなものだった。ただ,2人の写真は目を引くものがあった。元々ビジュアルがいいうえに,2割増しに写っていた。
「あの…」
瀬田が,前のめりになった。予想どおりか。でも,追加メンバーはもういらない。
「何かお手伝いしたいと思って…スタッフというか…ボランティアでもいいんです。」
「…なんだ。そんなこと…」
俺は,ちょっと可笑しくなる。それでも,高校生にとっては,一大決心なのかもしれない。
「え?そんなことって…」
「ごめんなさい。この間,メンバーになりたいって強引に自分を売り込んできたお嬢さんがいたから。てっきり…」
瀬田の頬が赤みを帯びた。首を振りながら言う。
「わたしには,アイドルなんて無理です。だけど,何かやってみたくて。」
「そうですか。でも,それなら,担任の先生に嘘を言わなくても,話を聞きましたよ。」
瀬田の顔は,ますます赤くなる。視線を逸らして,両手でスカートを握りしめた。
「あの…全部うそというわけじゃないんです。わたし,将来やりたいことが何も見つからなくて。親は,公務員になれって言うんですけど,全然イメージわかなくて。でも,的場さんのことを知って…それで…あの…」
言葉が途切れた。瀬田は,必死に続きを探している。俺は,微笑ましく思って,答えを用意する。
「少しだけ公務員に興味が持てた?」
「は,はい。」
ほっとしたように,瀬田の表情が崩れた。いい笑顔だと思う。もちろん,俺たちは,模範的な公務員じゃない。それでも,何かのきっかけになれるなら,それでいい。それにしても…
元スクールカースト最下層の地方公務員。それが女子高生の希望になる。浅岡に話せば,ドヤ顔で言うに決まっている。
『ほら。やっぱりアイドルってすごいでしょ。』
「じゃあ,とりあえず,次のライブを最前で観てもらえますか。女の子のファンがいたほうが,他の人たちも足を止めやすいと思いますので。」
これは間違いない。現段階でサクラは2人だ。美宙祈と比べると,数も少なく,パワーも足りない。若い女性がいれば,別の層を取り込める可能性がある。
「それだけでいいんですか?」
瀬田には,もう緊張感は見えない。俺もほっとする。お互い望んだ展開になったようだ。
「十分です。これからお願いすることが増えると思いますが,よろしくお願いします。」
「わかりました。こちらこそ,お願いします。できることは何でもやります。」
そう言って,ファン1号は目を輝かせた。もちろん,瀬田はマトリョンのダークサイドを知らない。でも,俺にだってこの活動がどう転がるかわかっていない。
まあ,いずれにしても,憧れられるっていうのは悪くない。
「じゃ。何かあったら,また連絡ください。」
「ああ。またな。」
「ういっす。」
やさぐれた雰囲気の若者が近づいてくる。二十歳くらいだろうか。長めの茶髪を揺らして,サンダルをペタペタ鳴らしている。
「どうも。」
すれ違いざま男が言った。俺は振り向いて,出て行くのを見送る。
「誰?今の。」
「なんだ。もう来たのか。相変わらず暇そうだな。」
木崎がカウンター越しに俺を見る。片手にマグカップ。見慣れた光景だ。
「仕事熱心って言えよ。終わる前に見に来たんだよ。あの子ら知ったら,きっと嫌がるから。」
そう言って俺は,壁のモニターに目をやる。モノクロの画面の中にマトリョンとメイリンがいた。予約のない時間に,ステージを借りて練習しているところだ。
「ああ。さっきのな。あれは,聡子の同級生だ。駅前の専門学校に通ってる。」
「聡ちゃんの…で,お前に何の用が…」
「うん。バイト探してるとか言ってたが。どうやら,コンビニとかじゃ,おもしろくないらしい。あいつ,高校時代軽音部で,この店にも何度か出たことがあってな。まあ,そう言われても,うちじゃバイトを雇う余裕なんてないけどな。」
「へえ。」
俺は,他に誰もいないロビーを見回した。相変わらずの殺風景だが,それが木崎らしい。とはいうものの…
「それにしても,ムダに広いな。カフェでもやったらどうだ?スペースの有効利用を考えるのも経営者の仕事だろ。」
「うーん。カフェか。」
意外にも,木崎は真剣に受け止めた。言葉を待つあいだ,俺はモニターに見入る。メイリンが,軽やかに踊っている。一方,マトリョンはタブレットを見つめるだけ。傍から見れば,優等生と問題児。やる気に満ちた後輩とさぼりがちな先輩。そんなところだろう。でも,実際仕事をしているのは,マトリョンのほうだ。もちろん,木崎は,タブレットがリモコン代わりだとは知らない。
「悪くないんだがな,でも,どう考えても,俺がやったら,カフェというよりサテンだ。」
「そりゃそうだ。不良のたまり場になるのがオチだな。」
「うるせえ。入り浸るのは,どうせお前や浅岡みたいなダメ中年だけだって言ってんだよ。」
木崎は,いつもの調子に戻った。ただ,経営面で余裕がないのは確かだ。こういう時だけ雇われていて気楽だと感じる。ほんと俺は小物だ。
「そう言えば,本格的にまずそうだな,柿沼。」
「え。柿沼が何か?」
「奥さんとうまくいってないらしい。」
奥さん。会ったのは一度だけだ。酔った柿沼を送って行った時だった。一瞬迷惑そうな顔をされたのを覚えている。俺が付き合わせたように思われたようだ。
「あの夫婦,前からそんな感じだろ?あいつ,いつもグチってるからな。」
「それが,この間ヤツが来た時聞いた話じゃ,最近特にやばいらしい。」
「まあな。聡ちゃんがアイドル続けるのを公然と応援し始めたのが大きいんだろう。ネットじゃ,あいつ,美宙祈の古参のファンってことに…」
スタジオのドアが開いた。細い腕で,マトリョンが重い扉を支えている。気づいたメイリンが代わった。表情を変えずに,指一本で押さえている。
「あ。お疲れ。」
俺は,メイリンの肩を抱いて,移動させる。盲点だった。こういう場合,両手を使う。学習してもらわなければ。
「調整しておきます。」
言いたいことがわかったのだろう。マトリョンが,メイリンの髪をなでて言った。俺は笑顔でうなずく。
「ああ。頼むよ。それで,どう,ダンスのほうは?」
「問題ないと思います。あとはお客さんというか…」
仕込みの問題だ。現時点で3人。あとは…ふと思いついた。俺は振り向いて,木崎を見る。
「なあ。さっきの茶髪の連絡先教えてくれよ。」
「初めまして。わたしたち…」
マトリョンがそう言って,右手を胸に当てた。左手は,マイクを握っている。
「駆け出し公務員マトリョンと…」
今度は,右腕を大きく広げた。伸ばした指の先にメイリンがいる。
「無口な留学生しゅかりんで,2人合わせて…」
一瞬アイコンタクトがあった。すぐに2人は正面に向き直る。
「市公認アイドル・マトリョーシカです。よろしくお願いしまーす。」
2人は深々と頭を下げる。パラパラとまばらに拍手が起こった。
以前浅岡と会った駅北側の広場。朝から天気がいい。屋台は,「B級グルメなんとか」でそれなりの賑わいだ。ところが,ステージ前には,多く見積もって20人ほど。花より団子。やはり,食べ物は強い。
でも,関心している場合じゃない。俺は,ステージ袖から最前に視線を送る。
「リョン様!!」
気づいた瀬田が声を上げた。隣にいた男たちも,それに続く。
「しゅかりーん!!」
男性のサクラは3人。最古参のヲタが2人。それに,柿沼聡子の同級生・甲田凌平が加わっている。
「ありがとうございます。」
もう一度2人は最敬礼する。応えたのは,変わらずすき間だらけの拍手だ。ところが,2人は,すぐには頭を上げようとしない。
『マトリョーシカ』
2人のユニット名はそう決まった。
あの日以来ネーミングについては,何度も話した。だが,その前に,メイリンには芸名が必要だと思った。そこで思いついたのが,「淑華」。そう。消えた留学生の名前だった。
『もしかしたら彼女が見てくれるかもしれない。』
もちろん,そんな女々しい期待も否定できない。でも,そう名付けると,偶然だが,うまくハマった。
マトリョンとシュクカ。で,「マトリョーシカ」。
もちろん,ロシアとは何の関係もない。2人だから,立ち位置が背の順,というわけでもない。
『そういえば,わたし,嫌いじゃないです。ボルシチ。』
マトリョンがどうでもいいことを言った。柿沼は,興味なさそうにコメントした。
『なめてていいんじゃないか。中国なのに,ロシアとか。』
やさぐれている。離婚の危機。というのは,まんざらガセじゃないのかもしれない。
「はぁ〜。」
ようやく顔を上げると,マトリョンは,軽くため息をついた。メイリンは,無表情のままだ。
「市公認っていうから,少し期待してたんですよ。もうちょっとバックアップがあるかも,なんて。でも,予算の書類見たら,びっくりしました。もう『公認』じゃなくて,『黙認』って感じですよ。」
飄々と毒づくマトリョン。笑っているのは,最前の4人だけだ。他の客は,ただポカンと見ている。
『毒舌キャラでいこうと思うんです。』
数日前,マトリョンが申し出た。俺も,考えていたところだった。ライブ前にキャラ設定が必要だと。
『公務員って,無難だと思われてるじゃないですか。真面目な人が就くお堅い仕事だって。なんかムカつくんですよね,そう言われると。』
それは否定できない。ここ数年ないが,若い頃はよく見合いを勧められた。もちろん,即答で断った。「公務員は無難だし。」そんな考えで近づく女なんて願い下げだ。そう言えば,柿沼の奥さんは,そういうタイプらしい。
『わたし,アイドルとしては若くないし,もともと王道とか無理です。それに普通じゃ勝てないんです。』
そう言って,マトリョンは,スマホの画面を見せた。
『出場者募集中!第2回アイドル異種格闘技グランプリ』
思わず声を上げた。俺が,このプロジェクトに立候補した理由。その1つがこのイベントだった。昨年,美宙祈が優勝したトーナメントだ。
俺は,マトリョンの提案を受け入れた。毒舌新人公務員と無口な留学生。おそらくアイドル史上初めての組み合わせだろう。
「あ!もしかして,みなさん思ってます?公務員がこんな毒を吐いていいのか,とか。でもね…」
マトリョンが意味ありげに言葉を切った。視線の先にいるのは…瀬田だ。
「これくらいじゃクビにならないのが,公務員なんです。『公務員あるある その1』でした。」
「さっすが,リョン様!男前!」
瀬田が大きく手を叩いた。甲田たちも声を上げて笑う。
それにしても,たいした振り切れ方だ。
『いろいろムカついたこと思い出してるんです。』
ライブ直前,マトリョンが言った。見るからに,ため込んでしまうタイプだ。小さい頃から忘れずに積み重ねてきたに違いない。ムカつくネタには事欠かないだろう。きっとそこには,両親との…
もう少しで思考の海に溺れるところだった。マトリョンが,のぞき込んで笑みを見せた。
『大丈夫です。今は,有効利用できてます。』
明らかに無理している。でも,彼女が決めたことだ。そこにどれだけの闇があるかわからない。それでも,俺にも,覚悟のようなものが芽生えていた。
「じゃあ。次は,公務員に縁がない歌詞の曲をカバーします。お金の話なんですけど…」
「おおーっ!!」
4人が歓喜の叫びで応えた。甲田は,パーカーのポケットに右手を入れる。
「最後の曲です。『気分は上場』!!」
マトリョンが直立不動の姿勢を取る。最前で,ヲタ2人も負けじと背を反らせた。俺は,iPodの再生ボタンを押す。
「ドル!イェン!ポンド!」
流れ出た音にMIXが重なった。美宙祈の初代マネージャー考案の「銭ゲバ仕様」だ。
「ギルダーァッ!!」
瀬田と甲田が視線を合わせた。次の瞬間,手にした物を真上に放り投げる。おもちゃの札束だ。それは,上昇中ばらけて,四方に散る。微妙に小さい万札が,青空をバックに舞い降りてくる。
マトリョンは,お決まりの直立不動だ。でも,視線だけは上を向いていた。降り注ぐ紙切れを,目を細めて見ている。
夏が始まった。
思ったより時間がかかった。それでも,確かに俺たちは,大嫌いだけど大好きな,あの季節を感じ始めていた。