第34回(最終話)
「待たせたかな。」
俺は,取り出したスマホの時刻に目をやる。約束の時間からは2分遅れだ。
「問題ありません。今日はそんなに暑くないですし,ここは考え事をするにはいい場所ですから。」
そう言って,五十嵐は足元を見下ろす。跨線橋というのか。南北に渡る陸橋の下,線路が東西に走っている。西側には,駅のホームが見える。特急の発車時刻のようだ。アナウンスが風に乗って運ばれてくる。
風。東の空に,積乱雲は居座っている。それでも,風の温度も匂いも違っている。
長崎から戻って,気持ちに少し余裕ができた。それで,数日前仕事に復帰した。根本の反応は,まあ予想通り。意外なのは,事務長が驚くほど喜んでくれたことだった。
「それにしても,相変らず待ち合わせ場所がユニークだな。」
「そうですか?今日は,こんな天気だから,外のほうが気持ちいいと思っただけです。」
俺たちの背後には,石垣がある。最上部は,以前五十嵐と待ち合わせた場所だ。
「さて,どこからお話ししましょうか?」
五十嵐が,探るような視線を送ってきた。俺は,余裕を見せるように微笑む。
「どこからでも。」
「そうですか。すべてわかっているということですね。」
「多分ね。じゃあ,俺から話すから,間違いがあったら訂正してくれ。」
「はい。そうします。」
眼下を列車が走り抜けていく。通り過ぎるのを待って,俺は口を開いた。
「大学時代…いや,そうじゃない。ガキの頃,俺はどこか知らない場所に連れて行かれた。周りでは,神隠しだと言われたけど,違う。あれは,ヒューマノイドの研究所だったんだ。今思えば,一種の職場見学みたいなものなんだろうな。」
「そうです。博士から聞いたことがあります。角脇さんも,ここに来たことがある,って。」
路地裏から連れ去られた時。目を覚ますと,どこかで同じにおいをかいだ気がした。あれは,間違いではなかった。
「で,大学時代。淑華を送り込んだのは,俺の様子を見るためだ。できるだけ接点がなさそうな外国人の留学生という設定にして。」
「ええ。でも,誤算がありました。」
「ああ。もっと不細工に作っておくべきだったんだ。うっかり俺の好みの顔にしてしまうとは…」
「ですね。博士もそう話していました。やらかした,って。」
五十嵐は,楽しそうに笑う。不思議だ。懐かしい友達と話しているような錯覚に陥る。いや,錯覚じゃない。会ってからの時間が,それだけ濃かったということだ。
「それで,急遽失踪したことにした。今と違って,ネットで情報を集めたりできない。人探しも難しい時代だった。」
「ええ。でも,博士も反省してました。角脇さんの…その…落ち込み方が激しかったって…」
「恥ずかしい話だよ。全部見られていたとは。」
今思い出しても,顔が火照ってくる。我ながらひどい取り乱しようだった。
「はい。でも,安心してください。私は,その当時の動画は見てませんから。」
「見られてたまるか。っていうか,その動画を送ったのが,あのヒューマノイドってことになるのかな。」
「それも正解です。あの頃は,戦闘に特化していない…まだプロトタイプの段階でしたが。」
そう。淑華が消えてからだ。視線を感じるようになったのは。「担当」が代わった,というわけだ。
「それから…いつからかはわからない。今度は,戦闘力が強化されたタイプが配置された。」
「ええ。私も,正確な時期は知りません。おそらく…角脇さんがこちらに戻られてから数年後,というところでしょうか。」
今度は様子を見るだけじゃない。組織との抗争が本格化したのだろう。目的は,俺と父親の護衛だ。
あの路地裏の出来事。男は,俺を狙っていた。それを察知したヒューマノイドが,先回りして捕らえた。そういうことだ。あいつだけじゃない。俺たちが知らないだけだ。きっと無数の人間が,闇に葬られて…
「博士にお会いになりますか?」
唐突に切り出された。五十嵐が,俺の顔をのぞき込む。表情から答えを読み取ろうとするように。俺は,視線をそらせて考える。
俺たちを巻き込まないため。理由がわかった今,怒りも憎しみもない。だが…
「いや。やめておくよ。今さら何を話していいかわからない。」
「そうですか。無理にとは言いませんが…」
五十嵐は,寂し気に息をもらした。だが,すぐに自分を納得させるようにうなずく。
「もうすぐ組織との闘いも終わります。そうしたら,自然に会う機会もできると思います。」
ずっと気になっていた。俺は,視線を落として言う。
「そのキャリーケース…どこか遠くへ行くのか?」
「はい。しばらくお会いすることもないでしょう。」
悪い予感に限ってよく当たる。それでも,訊かずにいられない。
「もしかして,組織の残党狩りに行かされるって…」
「さすが角脇さん。まあ,そんなところですが,ただ…」
前言撤回。すぐに研究所に乗り込んで,締め上げてでも…
「ちょっと!違いますよ。誤解です。」
俺に宿った怒りに気づいたのだろう。五十嵐は,大げさに笑って見せる。
「じゃあ…」
「自分から志願したんです。旧型とはいえ,勝手にヒューマノイドを連れ出して,人目にさらすなんて…ただで済む話ではないですから。」
やはりそうだ。俺が思ったとおり,五十嵐はメイリンをアイドルにしたかった。一時期でも,少女として存在させようと…
「こんな争いは,少しでも早く終わらせたいんです。本来の目的でヒューマノイドが活躍できる時代にしたい。みんなそう思ってます。」
五十嵐の決意は固い。これ以上言っても無駄だ。
「そうだな。あっ,そうだ。忘れないうちに言っておくよ。マトリョンのこと,ありがとうな。」
柿沼が言っていた。マトリョンのケガが労災と認められた,と。
「的場さん?私は何も…」
そう答えると思っていた。だが,常識的にはありえない決定だ。
公認取り消しのアイドルが,勝手に活動を続け,サイコ野郎に襲われた。それのどこが労災かわからない。まあ,それを可能にするのが研究所の御威光ということだ。
「いいよ。とりあえず言いたかっただけだ。」
「的場さん,優しい人ですね。」
「優しい?」
マトリョンと五十嵐。2人には,あまり接点がなかった。それどころか,マトリョンのほうは,五十嵐を意識していた。もしかしたら悪い意味で。
「メイリンのプログラムを見ればわかります。とても丁寧に考えられています。」
「驚いた。素人が勝手にプログラムに手を出すから,バグが起こった。そう思ってるんじゃないかって…」
「私も,最初は危険だと思いました。角脇さんにも言いましたよね。研究所の人間以外が関わることは勧められない,って。でも,今は違います。それに…」
言葉を切って,五十嵐は笑みを見せた。とっておきの秘密を打ち明ける。そんな時の子どものような表情だ。
「あれはバグじゃありません。感情です。」
「感情…」
間違いない。五十嵐は,メイリンに感情が芽生えるのを予測していた。だから…
それに,マトリョンと五十嵐は繋がっていた。プログラムの計算式。それが,2人の会話の手段だった。
俺には理解不能な理系女子同士の絆。悪意ではなかった。マトリョンは,ほんの少しライバル意識を抱いただけだ。五十嵐のほうが大人で,それを受け止めていた。
「そろそろ時間ですね。行かないと…」
五十嵐の口調が元に戻った。照れ隠しもあるのかもしれない。出会った頃と同じ事務的な響きだ。
「ああ。気をつけてな。」
「ありがとうございます。でも,それなら大丈夫です。私には,この子がいます。」
いつの間に近づいたのか。俺の背後に,ロリータ服の少女が立っている。その顔を見て,一瞬身体が強張った。あの戦闘用ヒューマノイドだ。
「何度見ても,ちょっと怖いな。でも,わかったよ。自分を囮に敵を誘い出して,こいつに仕留めさせる。そういうことか。」
「ええ。昨日のプログラム更新で,この子の戦闘能力は,さらに2割増しです。」
五十嵐は誇らしげだ。子どもの自慢をする母親のように見える。
「それにしても,すごい信頼関係だな。ヒューマノイドに自分の命を預けるなんて…」
「信頼関係?それなら,角脇さんとメイリンも同じでしょう。」
こともない。そんな表情で即答した。そうかもしれない。きっと俺が知らないだけだ。これまでも,メイリンは俺を守ってくれていた。メイリン…
無意識に視線が動いた。止まったのは,駅北口の広場だ。思えば,数年ぶりに浅岡と会った場所だった。
メイリン。マトリョン。浅岡。今度は,五十嵐。それに,もうすぐ根本も去って行く。
「あ。来ましたね。それでは,また。」
軽く頭を下げて,五十嵐はキャリーケースを引き寄せた。来た?誰が?背を向ける瞬間,五十嵐は俺の肩越しに遠くを見た。
振り返って見えたもの。それは,見覚えのあるシルエットだ。黒いパーカーを着て,フードを目深に…
「おい!ちょっと。」
五十嵐は振り向かない。見慣れた黒いスーツが遠ざかって行く。近づいてくる人影と去りゆく背中。どちらとも決められない。傍から見れば,挙動不審だろう。せわしなく交互に視線を送ること。俺にできるのは,ただそれだけだ。
人を励ますのは苦手だ。他人の感情なんて理解できるはずがない。俺は,ずっとそう思ってきた。だから,何を言っても思い知らされる。自分の言葉の軽さを。
見舞いとなると,なおさらだ。精神面だけではない。相手は,身体的にも弱っている。その分ハードルが高い。苦手中の苦手だ。
昨夜,マトリョンからメールが届いた。
『明日5時お話できませんか?』
ただそれだけだった。もちろん行く,と迷わず返信した。その後,それ以上連絡はなかった。
左手に花束。右手に果物。何度この姿でここを訪れただろう。毎回,肩を落として出て来ただけだが。帰り道は,いつも同じだ。果物が詰まったカゴが,やけに重く感じられた。
それが,今日は違う。そう。違うのだが…
言うまでもない。会えるのはうれしい。でも,どんな言葉をかければいいいのか。何度もメールの文字を見返した。もちろん,そこからは何も伝わらない。今の気持ちも,置かれている状況も。それだけではない。これが最後になるかもしれない。もしかしたら,マトリョンは,ひとつの区切りと考えて…
悩んでいたら,病室の前まで来ていた。マトリョンは,数日前に個室に移った。研究所は,病院にも手を回したらしい。いつか会ったら,礼のひとつくらい言ってやってもいい。
俺は,大きく深呼吸した。十分に間を取って,ドアをノックする。
「どうぞ。」
久しぶりに聞く声だ。もうこれだけで胸が熱くなる。俺は,もう一度大きく息を吐いて,ドアを開けた。
「失礼します。」
広い病室に,夕陽が差し込んでいる。会った時と同じだ。オレンジ色の視界のなか,マトリョンが微笑んでいる。だが,状況はまったく違う。マトリョンは,ベッドで上半身だけ起こしていた。相変わらずきれいだ。それでも,やつれた雰囲気は隠し切れない。当然だ。あの日から,どれだけの痛みと苦悩が…
しまった。俺の表情から考えを読み取ったのだろう。マトリョンが,先に口を開く。
「連絡が遅くなって,ごめんなさい。」
「いや。当たり前だよ。それより,大丈夫なのか?」
半ば反射的に言って,自己嫌悪に襲われる。大丈夫なわけがない。
「まだはっきりしたことはわからないみたいです。というか,両親が聞いていても教えてくれない,っていう可能性もあります。」
「そうか…」
やはり,ダメだ。適切な言葉が見つからない。もちろん,ゆうべからずっと考えてきた。でも,何を言っても,同じことになりそうだ。
とりあえず花と果物をテーブルに置こう。時間をかせぐようにゆっくりと…
「ありがとうございます。今までも何度も来てくれたんですよね。両親が失礼な態度で…ほんとにすみません。」
「いや。いいんだ。ご両親からしたら当然だよ。俺の考えが甘かったばかりに…」
まずい。フリーズ状態に陥った。見舞い。それに謝罪。俺のキャパを完全に超えている。こんな時…
「浅岡さんのこと…」
「ああ。俺たちも驚いたよ。あんな突然…」
「お葬式にも出れないなんて…」
マトリョンは涙声になる。うつむいて,指先をじっと見ている。
「仕方ないよ。きっと気持ちは伝わってる。そのうち,また墓参りにでも…」
どうしようもない。自分の愚かさに頭を抱えたくなる。治る見込みのない相手に…
「あの…訊いてもいいですか。」
「あ,ああ…」
マトリョンは,わかっている。こんな時,俺がマイナス思考の渦に落ちることを。だから,余計に情けなくなる。
「あの…横川さんは…」
そうだ。この話題は避けて通れない。だが,今度こそ表現に気をつけないと…
「うん。心配ないよ。研究所が…対応してくれたから。」
「そうですか…」
安堵と悲しみ。もらした息には,それが入り混じっていた。
もう犯人が襲ってくることはない。それだけは伝えてほしい。マトリョンの両親には,そう懇願しておいた。だから,ある程度わかっていたと思う。それが,俺の言葉ではっきりした。メイリンが手を血に染めたということが。
五十嵐の想い。マトリョンも,きっとそれをわかっている。だから,余計に辛いのだろう。とにかく,できるだけさりげなく…
「そうだ。昨日,メイリンが帰ってきたよ。まあ,世間的には,姿を消したことになったままなんだけど。」
「やっぱり。あの瀬田ちゃんの動画を見て,わかりました。でも,ほんとに帰ってきたんだ。よかった…」
マトリョンの目が輝いた。きっとこれは,事件以来初めてのいい知らせだ。
「心配してたんですよ。もしかしたら,研究所に廃棄されるんじゃないか,って。バグを起こして人を…襲ったって理由で。」
俺も,それは心配した。袋に入れられて運ばれる場面。それを見ているから,なおさらだった。
「五十嵐が,全部うまくやってくれたよ。」
「五十嵐さんかぁ…やっぱりかなわないな。」
嬉しさと悔しさ。マトリョンのなかで,それがせめぎ合っている。ライバル意識は続いているようだ。
「あの…五十嵐さん,どうしてます?」
マトリョンが真顔に戻って訊いた。予想はできているようだ。だが,これ以上ショックを与えるわけにはいかない。
「ああ。左遷されたよ。ほとぼりが冷めるまで,地方を回って,データ収集をさせられるとか言ってたな。まあ,勝手にヒューマノイドを持ち出して,見せ物にするのを黙認したわけだしね。お咎めなし,ってわけにはいかないよ。」
真実をすべて話す必要はない。いつか伝える時が来るかもしれない。組織のこと,それから博士のこと…
「そうですか…よかった…と言っていいのかわからないけど…ほっとしました,クビにならなくて。それから,甲田君は?」
「ああ。相変わらずと言えば,そうなんだけどね。いろいろと資格を取る,って張りきってるよ。バカなことやって暮らしていくにも資金が必要だって。いいのか悪いのかわからないけど,ダメ人間として生きる覚悟が,より強くなったっていうか。ますます飄々とした感じになってるよ。それに,瀬田ちゃんだけど,今は受験モードに入ってる。でも,目標がないと頑張れないって言って,大学に入ったらアイドル活動を始める,って宣言してるよ。」
「そう。それ,SNSで見ました。莉世姉の物販で,『弟子にしてください。』って言って,追い返された,って。」
マトリョンは,楽しそうにスマホの画面を向けた。だが,その顔は,すぐに寂し気な影を帯びる。
「みんな頑張ってるんですよね。もちろん,そういうの見ると,すごくうれしいんだけど,なんていうか…」
言わなくてもわかる。自分だけ取り残された気になる。きっとそれが一番きつい。
「でも,おっさん4人は代わり映えしないよ。木崎も柿沼も。それに,中江君と内川君も,アニメヲタクに戻っただけだし。しいて言えば,独身貴族に戻った柿沼が,ちょっとうざいくらいだよ。何か妙にポジティブで。」
「柿沼さんのツイッター,見ました。長崎に行った時の。死にそうなマスターの写真も笑えましたけど,それより空港の…柿沼さんのドヤ顔!」
キャラ変にもほどがある。柿沼は,親指を立てて,大げさに胸を張っていた。そこには「ウイル・ビー・バック!」の文字が…
「楽しんでもらえたならよかったよ。あんな奴らだけど,たまには役に立つ。」
実際,俺自身どれだけ救われたかわからない。これまでも,そして今回のことでも。
ふと我に返る。自分のことはどうでもいい。俺は,時計を見た。マトリョンの両親が来る前に,「本題」に入らないと…
「マトリョン。あのさ…俺に,何かできることはないかな。」
あれから何度も考えた。俺にできることは何か。たとえば,家を売る。で,それをマトリョンの治療費にする。それから,辞職して,時間が自由に使える仕事に就く。それで,リハビリを手伝う。他にも…
「それなら,特にありませんよ。」
「あ…そうか。そうだよな。やっぱり…」
わかっていた。俺は無力だ。研究所抜きでは何もしてやれない。ふがいなさに笑えてくる。
「あっ。違います。新しくしてほしいことは特にない,っていう意味です。」
マトリョンは,大げさに両手を振る。そして,できるだけ身体を起こそうと,背を伸ばした。
「これまで通りでいいんです。」
「これまで通り,って…」
意味がわからない。これまで通り?これまで通り,って…俺は,混乱した脳内で何度も繰り返す。
「あの景色が夢に出てくるんです。やっぱり諦められないみたいです。」
あの景色。それはわかる。光と音が飛び交うステージ。そこから見えるサイリウムの海。そして,会場全体を包む熱気。
「それって…」
「これからもマネージャーでいてくださいってことですけど,ダメですよね。もう…」
やはりずるい。会ったときと変わっていない。でも,今は何よりそれが嬉しい。
「ダメなわけないけど,でも…」
「コンセプトを変えればいい,っていうか…車椅子でライブしたアイドルはいますけど,ベッドごとステージに運ばれるアイドルっていないと思うんですよ。」
ダメだ。いや,その「ダメ」じゃない。もう言葉が出ない。
「角脇さん。いつかブログに,今回のアイドル活動は,自分にとって祭りだ,って書いてましたよね。最後の祭りだって。」
うなずいてみせた。今,少しでも声を出したら…
「最後なんですよね。ここで終わらせるのって,あの…もったいない,っていうか…だって,もう毎週学園祭みたいで楽しかったじゃないですか。だから…」
それは飽きるくらい考えた。でも,俺が決めることじゃない。これ以上巻き込むのは…
「角脇さん。覚えてます?学園祭の後って,後夜祭がありましたよね。わたしが後夜祭を始めます。だから,手伝ってくれませんか?それなら…」
もう抑えられない。俺は声をあげて泣いた。嗚咽のなか,精一杯に声を押し出す。
「ああ。思い切り派手な後夜祭にしよう。」
泣き顔を見られたくない。俺は,顔をそむけて窓の外を見る。
思い出す。池袋のデパートから見た空。あの時と同じ色をしている。刻々と変わる色彩。オレンジからミディアムブルーに…。
ぼやけた視界のせいなのか。ずっと好きになれなかった街。その景色が,やけにきれいに見える。
「もう…角脇さん…」
マトリョンの声も掠れている。俺は,それを背中で聞く。
「また泣いてる…」
変わらない朝。同じ時刻に起き,同じ時刻に家を出る。そして,同じ駅から同じ電車に乗る。それから,同じ駅で降りて…
だが,感じ方はまったく違う。すべてが輝いて見える。もちろん,そんなわけはない。それでも,目に映る光景は,なんというか…フラットだ。
職場に向かう人波。その中にいても,重苦しさがない。仕事を止める。一度そう決めたら,不思議なほど気楽になれた。選択権は自分にある。そう思えるからかもしれない。
日常は,相変らず退屈だ。
退屈。思い出した。90年代。それは,時代の空気を表す言葉のひとつだった。いつからだろう。耳にする機会は,ほどんどなくなった。だが,退屈は日常に居座り続けている。少なくとも,俺にとっては。
それでも,俺には「非日常」がある。「祭り」は続いていく。細々と,そして,ゆるやかに。
立ち止まって,振り返る。駅前のロータリー。せわしなくスーツの群れが行き交う。そのなかに異質なシルエットが紛れている。
目深にかぶった黒いフード。顔は見えない。でも,俺には,その表情がわかる。
俺は,ゆっくりと体の向き戻した。そして,小さく微笑んで,また一歩踏み出す。
~ 完 ~
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
物語は主人公を変えてもう少し続きます。『アイドル異種格闘技』第3弾でお会いしましょう。




