第33回
『I JUST FEEL THE SEASONS GO AROUND … ROUND AND ROUND』
直立不動で瀬田が歌っている。「おいで東風」はバージョン2。ポエトリーリーディングではなく,英詞ラップのほうだ。
『 SUNSHINE AND SMELL OF FLOWERS BRING ME OUT HERE ONCE AGAIN』
背後では,「メイリン」が何度もターンを繰り返す。京劇を見ているようだ。壁にはスクリーン。春の台北の風景が映っている。
最後になるかもしれない。だが,俺は,目の前のライブに集中しきれない。
『角脇サン。淑華デス。オ久シブリデス。』
楽屋での光景が頭から離れない。五十風が連れて来た人物。メイリンにそっくりな少女は,そう言った。
淑華。メイリンのステージネームだ。名前の元になったのは,あの留学生だった。大学時代,突然俺の前から消えた…
『淑華…さんの娘さん?』
思わずそう訊いていた。五十風は,楽屋に鍵をかけ,もどかしそうに言った。
『問題ありません。すべて私に任せてください。』
有無を言わせない強い響きがあった。俺は,一歩下がって見守る以外ない。五十嵐と少女が,メイリンに歩み寄った。少女が,メイリンの上から手をかざす。
『同期ヲ開始シマス。』
そう聞こえた。五十風の指が,タブレットの上をせわしなく動き回る。
どのくらい経っただろう。途中誰かがドアをノックした。「着替え中です。」それには五十嵐が応えてくれた。
『同期ヲ完了シマシタ。』
少女がそう言った。すると,すぐにまたノックの音がした。五十風が迎え入れたのは,若い男だった。一見すると,ローディーといった雰囲気だ。
『ちょっと待ってくれ!』
俺は,慌てて言った。男は,大きな袋を持っていた。それに,メイリンを入れようとしたからだ。
『回収します。』
男は,事務的な口調で答えた。助けを求めるように五十嵐を見る。だが,彼女は首を振っただけだった。ぐったりしたままのメイリンが袋に収まる。
『どうなってんだよ。』
そうつぶやいた。だが,混乱した頭でも,分かり始めていた。すべては,あの頃から…いや,それよりずっと前から始まっていたと。
『コレカラヤルベキコトハ分カリマシタ。』
そう言って,「淑華」が振り向いた。五十風は,うなずくと,タブレットをバッグにしまった。
その後。男は,袋を担ぎ上げ,楽屋を出て行った。五十風も,それに続いた。残ったのは,俺と「淑華」だけに…
意識をステージに戻す。曲は,最後のサビに入っていた。
『2人を乗せた小舟はそっと夜に紛れる/揺れる角燈背にして』
ボーカルパートが終わった。瀬田は,マイクから顔を離し,大きく息を吐く。あとは,1曲を残すだけだ。
「ありがとうございました。」
アウトロの余韻のなか,瀬田は深々と頭を下げた。静寂が場を支配する。瀬田は,ゆっくりと顔を上げる。カメラを見つめる表情。そこからは,彼女なりの決意が読み取れる。
「次は,最後の曲です。『ノスタルジアNo.5 β』といいます。さっき歌った『ノスタルジアNo.5』のバージョン違いになります。」
ここで瀬田は,言葉を切った。少し視線を上げ,呼吸を整える。撮影している甲田の口が動いた。
『ゆっくり。ゆっくり。』
瀬田は,軽くうなずいた。だが,まだ緊張は解けない。
この収録は,浅岡が亡くなる前という設定だ。それでも,「遺作」の紹介には気を遣うのだろう。瀬田は言っていた。
『本当だったら,最初に歌うのは,マトリョンさんなのに。きっと浅岡さんも,それを望んでると思います。』
それでも,覚悟の強さが優った。あの時と同じだ。ライブハウスで見せた固い意志。瀬田の目には,強い光が宿っている。
「これから『ノスタルジアNo.5』は,『α』と呼ばれることになります。『α』が光なら,『β』は陰と言えます。この曲は,2つのバージョンが対になって初めて完成する。アレンジャーの浅岡さんは,きっとそう言いたかったんだと思います。」
瀬田の表情が変わった。過去形を使ったことが気になっているようだ。甲田も,慌てた様子で俺を見る。カメラを止めるべきか指示が欲しいのだろう。俺は,首を振り,笑みを作った。設定よりも大事なものがある。
撮影続行。瀬田が,スタンドからマイクを抜き取る。
「では,聴いてください。『ノスタルジアNo.5 β』。」
アコースティックギターのカッティング。サンプラーの音源ではない。イントロは,浅岡の演奏で始まる。どこか喪失感を感じさせる憂いを帯びた響き。煌びやかな『α』とは,まったく印象が違う。
『君があの日くれた/蒼い硝子の欠片を/宙に翳し/光集め/影を映して』
瀬田は,目を閉じて歌っている。予想以上にいい。息を混ぜた唱法が,演奏にはまっている。
『退屈な君の心に火を点ける/淡い憬れひとつ/いとしさがこの胸の奥に溢れるまで/抱きしめていたい/ノスタルジアNo.5』
淑華が踊っている。ゆるやかな動きで,舞台上を滑るように移動する。背景には,咲き乱れる桜。俺が中正紀念堂で撮った写真だ。
不思議な感覚に襲われる。三十数年を経た再開。そして,ようやく解けた謎。
普通なら,気が動転しているはずだ。だが,目の前の光景は,妙にしっくり感じられる。無意識のうちに,俺は答えを見つけていたというのか。
「おい!もう限界だ。船を停めさせろ!」
木崎が怒鳴った。右手で口を覆い,小刻みに身体を震わせている。柿沼が,困り果てた様子で,あたりを見回す。
「頼む。ここでは,やめてくれ。迷惑になる。」
強い雨が窓を叩いている。ガラスを伝う水滴の向こう。彼方に,鈍色をした島影が見えていた。
俺たちは,「軍艦島クルーズ」の船の中にいる。出港の時点では小雨だった。だが,天気予報は大外れ。雨は急に勢いを増した。それで,船は上陸できず,島の周りをまわっている。
このまま引き返す可能性が高い。そんな声が近くから聞こえた。船室に,暗い空気が漂い始めている。
「おい。角脇。どうする?こいつ,もうもたないぞ。」
柿沼は,コンビニのレジ袋を構えたままだ。木崎が船に弱いとは知らなかった。どんな奴にも弱点はあるものだ。俺は,精一杯冷静を装って言う。
「こらえろ。せっかくのチャンスなんだ。」
軍艦島。かつては,それほど注目を浴びることはなかった。「廃墟の王」と呼ぶマニアはいたらしいが。それが,今では大きく状況が違っている。言うまでもないだろう。世界遺産に登録されたからだ。
「クルーズ」には事前予約が必要だ。しかも,かなり人気があるらしい。だから,思いつきで参加するのは難しい。俺は,コネに物を言わせた。
『今度は一体何を考えてるんですか?』
電話の向こうで五十嵐が言った。だが,怒りや苛立ちは感じられない。予想はできていた。観光船の便に3人ねじ込むだけだ。研究所の「力」を持ってすれば容易いはずだ。俺が趣旨を話すと,あっさりと引き受けてくれた。
『これが最後にしてくださいよ。コンサートのチケットを取ってくれとか言われても,無理ですからね。』
軽い皮肉で通話は終わった。いつからだろうか。電話の声から感情が読めるようになったのは。五十風の笑顔が見えた気がした。
趣旨。そう。これは,俺たちなりの浅岡への手向けだ。亡くなる数日前。浅岡は,最後になるブログ更新をしていた。そこには,軍艦島への想いが綴られている。
『ただの廃墟だった頃は,違法な手段を使ってでも上陸したいと思うことがありました。でも,ツアーが用意されると,いつでも行けると思うようになってしまいました。それで先延ばしにしてきましたが,そろそろ行ってみようと思います。』
俺の手には,銀の指輪が握られている。額にブランドロゴが刻まれたスカルリング。指半分が隠れるほどの大きさだ。
数日前,浅岡の形見分けが行われた。ある意味,あの部屋は宝の山だった。だが,母親には価値がわからない。残しておいても,どうせ処分されるだけだ。それで,俺たちは,軽トラをレンタルすることにした。ありったけの機材とアクセサリーを持ち出すためだった。
俺たちのミッション。それは,この指輪を軍艦島に埋めることだ。いい歳したおっさんがする発想ではない。そんなことはよくわかっている。それでも,浅岡の供養には…
「おい!角脇!いい加減,妄想に逃げ込むのはやめてくれ。もう限界だ,こいつ…」
柿沼が叫んだ。我に返った俺が見たもの。それは,木崎の苦悶の表情だった。
「ここじゃダメだ。トイレに運ぶぞ。」
俺は,腰を浮かそうとした。が,遅かった。背後から,不快な音が響いてくる。ほぼ同時に,鼻をつく臭いが…
「うおーっ!!ノーミュージック,ノーリバースだ。バカヤロー!!」
木崎がわめいた。柿沼が,反射的に袋を押し付ける。
「やばい!こいつおかしくなった!」
悪いことは重なるものだ。突然,船が大きく揺れた。それが止めになった。
「すっかり上がったな。皮肉なもんだ。」
柿沼が,見上げた空を睨む。恨めしい思いは,俺も同じだ。結局,軍艦島には上陸できなかった。ネットの情報では,稀にこういうケースもあるようだ。
「まったくな。どうせなら,1日じゅう雨だったら,諦めもつくのに。」
雲のすき間から,アイボリーの帯が降りている。街は,やわらかな光に包まれ始めた。
「それにしても,すっかり暇になったな。これからどうする?」
柿沼が,時計を見ながら言った。昼食にしてもいい時刻だ。だが,そういう雰囲気でもない。木崎は,憔悴しきっていた。半乾きなのも気にせず,ベンチにうずくまっている。
「しばらくどこかで時間をつぶすしかないな。それも,こいつの回復待ちだ。」
木崎は,間に合わせで買った服に着替えていた。日頃縁のないファストファッションだ。だから,気の毒なほど似合っていない。
俺たちは,完全にノープランだった。一旦ホテルに荷物を置いて,外に出た。中華街を歩いたが,意外に規模が小さい。すぐに通り抜けてしまった。
それで,見つけたのが,石畳の公園だった。公園には珍しく,重厚な門がある。そこには,見たことのない書体で「湊公園」と書かれていた。
「仕方ない。しばらくここで様子を見るか。」
柿沼と俺も座ることにする。ベンチを軽くふいて,木崎のそばに腰かけた。
「これからどうするんだ?」
「それ,話したばかりだろ。しばらく時間つぶすって…」
「違うよ。今じゃなくて…今後の話だ。」
柿沼は,真剣な表情になっている。今後のこと。そう言えば,メイリンにしか話していなかった。
「どうだろう。瀬田ちゃんや甲田君次第だけど,すべてはマトリョンと話してからになるからな。」
「まだ会えないのか?」
「ああ。いつになるかわからない。というか,このままもう会えないかもしれない。」
もちろん病院には足を運んでいる。看護師とも顔見知りになっていた。結果は,これまでと変わらないが。
「それはつらいな。まあ,焦らずにやれよ。」 「ああ。お嬢さんの期待に添いたいって気持ちはあるよ。」
そう言って笑った。柿沼も噴き出した。だが,すぐに真顔に戻る。
「そうだよな。バカなことでもやってないと,やりきれないよな。なあ。角脇。俺も仕事人間じゃないからさ,なんとか平日をしのいでるって感じだ。まあ,今さらこんなこと言わなくても,わかってるだろうが。」
「ああ。俺も同じだよ。」
「で,金曜の夕方が待ち遠しい,なんて生活をもう30年近く送ってきたわけだけど。そりゃ若いうちはよかったよ。まだ余裕があったっていうか。でもな,最近思うんだ。こうやって日々をやり過ごしてるうちに,確実に死に近づいてるんだ,って。そう思うと,虚しくなるよ。」
ほんと同じだ。俺も時々考えることがある。気づくと,人生も後半に入っていた。
「そうだな。だから,俺は,たぶん死ぬまでもうバカを止めることはないって思う。それが,アイドルの運営かどうかはわからないけどな。」
「ああ。でも,アイドルに関わるのは続けたほうがいいぞ。」
「ほんとお前らよく似た親子だな。前向きに考える,って言ってるだろ。」
娘と仲がいい。世の父親からは羨望の的だろう。だが,それが離婚の原因になったりもする。柿沼は,少しじれったそうに言う。
「違うよ。数十年後の話だ。聡子から聞いたんだ。お前も知ってるかもしれないが,アイドルのなかには,将来老人ホームを経営したい子もいるらしいって。」
「ああ。知ってる。ヲタクを住ませて,共同生活するってやつな。」
あるアイドルが雑誌のインタビューで語っていた。それも悪くないと思ったのを覚えている。
「俺たちには,入居する資格があるんだ。アイドルの父親とプロデューサーだからな。」
「そうだな。あ。そっちのおっさんは別だけど。」
振り返って,木崎を見る。驚いた。さっきまで木崎はやつれ切っていた。それが,今は不敵な笑みさえ浮かべている。
「なんだよ,そのドヤ顔は。もう具合はいいのか?それとも,悪化して,余計に頭がおかしくなったか。」
「バカ言うな。その程度の資格なら俺だってある。だいたい柿沼。お前がダメだ。娘と全然コミュニケーションが取れてない。」
すっかりいつもの木崎に戻っている。殺しても死にそうにないヤツ。昔からそうだった。柿沼が,さも大儀そうに応える。
「だから,何だよ。お前と聡子がどうしたって?」
「ほんとに聞いてないんだな。来月から俺は,美宙祈の2代目アレンジャー兼バックバンドのバンマスだ。よろしく頼むな,お父上。」
「ああ…」
言われてみれば,そうだ。美宙祈の音楽面でのブレイン。浅岡亡き後,こいつ以外適任者はいない。俺は,あえて苦笑いで言う。
「そうか,腐れ縁は老後まで続くってことか。なんだかな。」
「まあそう言うな。それもいいかもしれない。少なくとも,孤独死は防げるだろ。」
柿沼は,笑みを押し殺せない。離婚のことも,ある程度吹っ切れた。そんな様子だ。
「なんか前向きだな。別に悪くないけどさ。」
「俺は,いつだって前向きだよ。実は,今日の雨も悪くなかった,って思い始めてるんだ。」
「雨?」
「ああ。今日は,ミッションを遂行できなかった。でも,言いかえれば,また3人でここに来る機会ができたってことだろ?少なくとも,角脇の引きこもり防止に役立つ。」
「うるせえよ。」
顔をそむけながら吐き捨てた。笑顔を見られないようにするためだ。視線の先には,走り去る路面電車。それにしても,速度が遅い。歩いたほうが速いと思えるほどだ。
急いでも仕方ない。路面電車がそう言ってるみたいだ。そんな歌詞がある。この街に来て初めて,その意味がわかった。
「どうした?またいつもの妄想モードか?」
柿沼が,俺の顔を覗き込む。俺は答えない。それ以上柿沼も訊かない。木崎も,何も言わない。ふと懐かしい感覚が蘇ってくる。学生時代。俺たちは,いつもこんな感じだった。会話に飽きると,黙ってただ時間を見送った。
空を見上げる。ターコイズブルーというのか。青味が薄まり,澄んだ空を雲が流れていく。季節は変わり始めている。思えば,しばらく景色を気にする余裕などなかった。
気づくと,木崎と柿沼も空を見ていた。考えていることは,きっと同じだ。そう。またこんな時間が戻って来た。
ポケットの中で指輪を握りしめる。浮かんできたのは,浅岡の誇らしげな表情だ。
『ね。やっぱり,アイドルってすごいでしょ?』
次回が最終回になります。あともう少しおつき合いください。




