第32回
「では,本番もよろしくお願いします。」
瀬田が,深々と頭を下げた。ひどく緊張しているのだろう。動作がぎこちない。顔を上げると,じっとりと汗がにじんでいる。
「ああ。よろしくね。気楽にやっていいからね。だって,設定では,未公開のデモ映像ってことになってるわけだし。」
「ありがとうございます。頭ではわかってるんです。でも,実際やってみると…ステージの上と下って,全然違いますから。」
そう言って瀬田は,パーカーの袖で汗をぬぐう。気づくと,メイリンが近くに来ていた。俺たちの会話を,「観察モード」で見守っている。
「ラストライブ」は,リハーサルが終わったばかり。軽くうなずいて,木崎がロビーに戻って行く。ここまでは,まあ順調と言える。予想以上に瀬田がプレッシャーを感じていることを除けば。
「大丈夫だって。最初のライブなんて,みんなそんなもんだよ。それに,無観客だから,撮り直しもできるし,たいていのことはなんとかできるから。」
「そうですね。なんとか頑張ってみます。」
「うん。きっとうまくいくよ。」
「はい!」
瀬田は,大きな声で答えた。もちろん空元気だろう。それでも,とりあえずほっとする。
「じゃあ,また後で。」
「はい。では。」
笑みを残して,瀬田は背を向けた。楽屋に向かう後姿を,メイリンが見送っている。
『順調,か…』
そう思ったことに,後ろめたさを覚えた。もちろん,ライブは成功させたい。だが,マトリョンのいない…
『これは別ものだ。』
心のなかで何度も繰り返す。そう。頭ではわかっている。それは,みんな同じだろう。瀬田も,きっとそうだ。緊張だけではない。もちろん,今回限りのユニットではある。それでも,メイリンの「相棒」というのは…
「角脇さん。ちょっといいですか。」
ハマりかけた思考の迷路から引き戻された。振り向くと,根本がマグカップを差し出す。
「タダだから安心しろ,ってマスターが言ってました。」
「仕方ないから飲んでやる,って伝えてよ。食品ロスは良くないからね。」
俺は,受け取って,コーヒーを一口すする。ちょっとくやしくなった。木崎のコーヒーは確実に美味くなっている。確かに,これなら商品としても…
「ちょっとお話ししてもいいですか?」
「いいよ。まだ時間あるし。」
気軽に言って,気づいた。いつもと様子が違う。ふと思い出す。フェスで会ったときも,どこか…
「そうだ。フェスで話したとき,最後かもしれないとか,そんなこと言ってたよね。それって…」
「は,はい。お話というのは,そのことなんです。」
正解だった。何度か訊こうとして,訊けなかった。タイミングのせいだけじゃない。気が進まなかったこともある。良くない話だろうと予想できたから。
「実は,私…」
根本は,気まずそうに言葉を切った。だが,すぐに自分を奮い立たせた。俺の目をまっすぐ見て,口を開く。
「今度結婚することになりました。」
「えっ!?」
結婚?そういえば,根本と恋愛の話はしたことがなかった。セクハラと思われるのを心配していたわけでもない。いつも根本から感じるのは,達観した雰囲気だった。彼氏とか作らないタイプ。根拠はないが,そんな風に思っていた。
「そうなんだ。でも,いきなりで驚いたよ。彼氏がいるなんて,聞いてなかったし。」
「彼氏っていうか…実は見合いなんです。」
これまた意外だ。新たな一面が次々と見えてくる。
『そんな古臭い慣習,意味がわかりませんよ。』
日頃の言動からすれば,そう言い放ってもおかしくない。それはそれとして…
「そうか。とにかくおめでとう。」
コメントに困る状況だ。だから,とりあえず祝福することにする。申し訳ないが,他に思いつかない。
「意外です。ひょっとしたら,がっかりされるかと思っていたんです。あっ…」
何かに気づき,根本は顔を紅潮させた。全力で否定するように,両手を振る。
「違うんです。角脇さんが私に気があって,結婚するって知って,がっかりした,とかじゃないんです。その…つまらないって思うんじゃないかって。だって,角脇さん,見合いとか1ミリも考えそうもないタイプだから。」
「それは,そうなんだけど。でも,別にがっかりとかしないし,ちょっと意外に思っただけで…」
「意外…ですか?」
「うん。ヲタ活を止めるってことは,将来に備えてマンション購入の資金を貯めるためとか,管理職を目指して自分磨きに金をかけるとか,そんなことを想像してたから。」
甲田が近づいて来る。だが,いつもと違う空気を感じたのか。楽屋に向かって引き返していく。
「管理職?そんな高尚な理由じゃないですよ。ただ不安になっただけです。周りの30代以上の独身女性を見ていると…」
「そうか…」
無理もないと思う。同僚の原口の顔が浮かぶ。彼女は,そろそろ40歳になるはずだ。数年前までは婚活に励んでいたらしい。だが,最近はすっかり諦めたのだろう。開き直って「お局モード」全開だ。こんな身近に「将来像」があれば…
それだけじゃない。50歳になってからは,状況が変わった。だが,俺も,40代の頃は時々見合いを勧められた。もちろん,即答でお断りしてきた。
根本の言う通りだ。俺には,見合いのコンセプト自体が理解不能だ。
『これからお互いのことを知ろうとしてるのに,なぜ着物だとかスーツだとか,性格や好みがわかりにくい格好をするんだよ?』
そんなことを言ったこともある。いずれにしろ,どう見ても俺は結婚には不向きだ。その女性たちに同情する。だって,俺に話が来るまで,たらい回しに…
「まあ,確かに見合い結婚って,俺にはない発想だけど…自分で納得してるんなら,何の問題もないんじゃないかな。親に無理強いされたとかいうなら,別だけど。」
「親には何も言われてません。親戚から勧められた人に会っただけだから。だから…結局,私が弱いってことです。」
「弱い,って?」
根本は自嘲的な笑みを見せた。こんな表情を見るのも初めてだ。
「そうです。本当は,私も好きなことをやって生きていけたら,って思ってます。でも,この先もずっと1人だって考えると,不安ばかりで…」
それもわからなくはない。以前ネットでこんな記事を読んだ。
『男性が考える結婚相手の年齢。上限は33歳。』
具体的なデータを書かれるときつい。そこには,条件の対応表もあった。年齢と年収の「つり合い」を示したものだ。これは,さらに厳しい内容だった。40歳を超える女性は,相手が年収ゼロでも仕方ないらしい。
「別に強いから独身なわけじゃないよ。こういう風にしかできない,ってだけだし。それに,いつまでも『こっち側』に居続けるのが,いいことなわけじゃない。っていうか,むしろ逆だよ。まあ,言ってみれば,これは『負け残りゲーム』みたいなもんだよ。成功して,有名になって大金を稼ぐ才能はない。かといって,早く見切りをつけて,もっと『賢明』な生き方を選ぶだけの器用さもない。そんなヤツらが,しがみついてるのが,この場所ってだけだからさ。」
「そんな…負け残りなんて…」
根本は,戸惑いを隠せない。言葉を探すように目を泳がせている。楽屋から甲田が顔を覗かせた。最終的な打ち合わせだろうか。とにかく悪くない空気で話を終わらせよう。
「さっき『がっかりさせたかも』って言ってたけど,むしろ逆だよ。ここのところ良くないことばかり続いてたよね。だから,良かったって思ったんだ。だって,離れていくにしても,いい意味なんだから。」
「角脇サン。ヒトツ訊イテモヨロシイデスカ?」
楽屋に2人きりになると,メイリンが言った。甲田との話は簡単に済んだ。ステージで使うスライドの写真のことだった。すべて任せる。そう即答した。俺たちには,もうそれだけの信頼関係がある。甲田だけじゃない。あとは,各自の持ち場で頑張ってもらうだけだ。
「いいよ。でも,本番までに答えられる質問にしてくれると助かる。」
できれば,今質問は避けたいところだ。もちろん,メイリンは人間とは違う。会話の内容がパフォーマンスに影響することはない。すべて俺の側の問題だ。
最後のライブになるかもしれない。そう思うと,やはり感慨がある。まだ納得し切れてはいない。でも,いや,だからか。できるだけすっきりした気持ちで本番を迎えたい。
「コレガ最後ノライブダトイウノハ本当デスカ?」
少しほっとする。もっと答えにくい質問を予想していた。俺は,畳が敷かれた床に腰を下ろす。
「正直なところ,最後かどうかはまだわからない。瀬田ちゃんや甲田君の意思次第,って部分もある。それから,内川君や中江君の気持ちも尊重したい。ここまで巻き込んでしまったわけだからね。でも,いちばんは,マトリョンがどう思うかだよ。それは,今は,確かめられないけど。」
俺は,素直に考えを話した。メイリンの瞳が微動し始める。どうやら「解析モード」に入ったようだ。
マトリョンの気持ち。それなら言うまでもない。
このまま終わるのは嫌だ。瀬田がそう言う可能性はある。その場合,マトリョンは,きっと瀬田の気持ちを優先する。だが,自分の立ち位置に他人がいる。それを見たら,誰だってつらい。とはいえ,これは感情の問題だ。メイリンに説明するのは…
「それに,メイリンの問題もある。どうやって,誘拐犯から逃げてきたのか。かなり詳しく追及されることになる。そうなったら…」
言うまでもない。これは言い訳だ。これまでの経緯を見ればわかる。五十風の研究所。その影響力は予想以上に大きかった。間違いなく捜査はうやむやに終わる。答えが見つかったのだろう。メイリンが,俺を見上げ,口を開く。
「ソレデシタラ,コノヨウナ筋書キハドウデショウ。ワタシハ,隙ヲ見ツケテ監禁サレテイタ場所カラ逃ゲ出シマス。発見者ハ,五十嵐サンノ仲間デイイデショウ。無事ニ保護サレマス。デモ,精神的ナショックデ,失語症ガ悪化シテ,マッタク話セナクナッタ。サラニ,トラウマデ,事件ノコトヲ思イ出ソウトスルト,パニックニナル。コレナラ,警察モ諦メテ,ソノウチ何モ訊カナクナルト思イマス。」
妥当な考えだ。もしバレたら,それしかない。俺もそう思っていた。実は,五十嵐からも,同じ提案をされた。メイリンの思考回路は,着実に進化している。それで,気になったことを訊きたくなる。
「メイリン。これが最後のライブになるのかって訊いたけど,それは…もしかして,まだ続けたい,っていうことなのかな。」
わかっている。ヒューマノイドに意思はない。それでも,少し期待してしまう。最近は,自我の芽生えの兆候も…
「続ケタイ,トイウノハ希望トイウコトデスネ。」
メイリンが珍しく確認してきた。俺は,黙ってうなずく。
「ソレナラ,ワタシニ続ケタイトイウ希望ハアリマセン。タダ…」
「ただ?」
やはり,これまでと違う。メイリンから言葉がすぐに出ない。
「違和感ハアリマス。コレマデ何度モ人前デ踊ッテキマシタ。ソレガ急二ナクナリマシタ。ツマリ,運動二規則性ガ失ワレタコトガ原因ダト思ワレマス。」
「なるほど…」
ふと思う。ずっと考え続けてきたこと。その答えが見つかった気がする。
五十嵐がメイリンを託した理由。託した。いつからだろう。俺は,そう考えるようになっていた。もちろん,最初は,監視目的だと疑わなかった。それが,今「監視モード」は解かれている。
『完全に信用したわけじゃないです。そのほうがトラブルを回避しやすいというだけですから。』
五十嵐は,そう説明した。だが,果たしてそうだろうか。
長期にわたる「組織」との抗争。ヒューマノイドは,暗殺マシーンとして機能してきたという。改めてメイリンを観察する。やはり,どう見ても普通の少女だ。上目づかいに見上げて,言葉の続きを待っている。
手を血で染めるだけの日々。もちろん,ヒューマノイドに感情はない。それは,研究者のほうがよくわかっている。だが,それでも…少しでいい。女の子らしいことをさせてやりたい。そんな感傷的な一面が,五十嵐にあるとしたら…
「メイリン。マトリョンがいなくなって寂しい?」
思わず訊いていた。わかっている。以前もした質問だ。でも,もしかしたら,今度は,もっとはっきり…
「ソノ点デモ違和感ハアリマス。」
メイリンは即答した。気づくと,瞳の揺れが大きくなっている。まだ何か言いたいのだろう。だが,なかなか口が開かない。適切な表現が見つからないのか。どこかもどかし気にも見える。俺は,立ち上がり,背を向けた。このくらいにしておこう。これ以上言葉を引き出すのは酷な気がする。
『それを寂しいって言うんだよ。』
そう言いたい気持ちを,また押し殺す。話す機会は,これからまだ…
「メイリン!!」
俺は,慌てて振り返る。鈍い音がしたからだ。
「おい!メイリン!!」
メイリンは,畳の上に倒れていた。うつ伏せでぐったりしている。駆け寄って,肩を揺さぶってみる。が,反応はない。
「しっかりしろ!おい!マトリョン!メイリンが…」
そう叫んで気づく。マトリョンはいない。全身から力が抜けていく。俺は,畳の上にへたり込んだ。
「!!」
ドアノブを回す音が響いた。こんなタイミングで誰が…視線を移すと,意外な顔があった。
「五十嵐!!」
「角脇さん。ここは任せてください。」
五十嵐は,落ち着いた声で言った。その背後に,もう1人いる。黒いパーカーを着た小柄な女性だ。ちいさな手が,フードを持ち上げて…
「メイリン!!」
メイリン?俺は,手元に視線を落とす。間違いじゃない。メイリンは倒れたままだ。ということは…メイリンが2人…




