第30回
「角脇さん…早く…メイリンを止めて…」
苦しそうにマトリョンが言った。状況が理解できない。俺は,ただ立ち尽くすだけだ。倒れているマトリョン。周囲の床に赤いしみが広がって行く。背後で悲鳴が上がった。それが,壁を隔てた物音のように…
「わたしはいいから…早く…」
身体が動かない。震えが全身を支配して,どうにもできない。
「ここは,僕たちに任せてください。」
上半身を起こして,中江が言った。右手で押さえた左腕から,赤い筋が伝っている。へたり込んだ瀬田は,放心状態のままだ。俺たちに向けた目も,まったく焦点が定まっていない。内川が,携帯で何か話している。ひどく滑舌が悪い。「救急車」という言葉が,かろうじて聞き取れた。
「角脇さん。お願いします。」
立ち上がった中江に背中を押された。思わずよろけて,なんとか踏みとどまる。それで,ようやく身体に力が戻った。
「あ…あとを頼む。」
上ずった声で言って,歩き出す。自分の足ではないみたいだ。ふらふらと階段を降りて,出口へ向かう。ドアを開けると,入場待ちの列が出来ていた。何か声をかけられたが,聞き取れない。構わず背を向けた。
『探す…って,どこを…』
心のなかで繰り返した。思考回路が正常に機能しない。それでも,考えなければいけない。
逃げるとすれば…どこだ。駅?もしかしたら,車が…いや。メイリンが,すぐに追いかけて行った。逃げ切れるはずがない。どこか近くで捕らえたはずだ。
ふいにフラッシュバックのように記憶が蘇る。地元の商店街の路地裏。ヒューマノイドが,男の腕を…そう,路地裏だ。
胸騒ぎに駆り立てられ,足を前に進める。とりあえず人気のないほうへ。狭い路地を見つけて,踏み込んだ。すると,暗がりに人影が…
「角脇さん。こっちです。」
甲田だ。もつれる足で駆け寄る。路地は,枝分かれして,奥に延びている。甲田は,小路の1本を塞ぐように立っていた。
「すいません。ここから先は,1人で行ってください。俺は,ここで見張ってます。」
甲田は,目を合わせずに言った。背後から鈍い音が響いてくる。闇のなかで何が起こっているのか。見なくても,想像がつく。再び全身が震えに襲われた。でも,行かなければ…
「メイリン…そこにいるんだろ?もういいから,こっちに…」
落ち着け。自分に言い聞かせようとする。無理なのは承知だ。でも,それ以外に何が…
「メイリン…」
足が止まった。もう言葉も出ない。
メイリンが,右腕を振り下ろす。拳が,男の顔面を捉える。マウントポジション。下になった男は,既にぐったりしていた。腕を戻しながら,鼻のあたりを肘で削る。今度は,左腕で…
悪い夢を見ているようだ。
そんな言葉を時々耳にする。あれから1週間経った。でも,「夢」はまだ終わってくれない。
明かりを消した部屋。聞こえるのは,時計の針の音だけだ。ソファーから起き上がる気力もない。何度繰り返されただろう。浮かぶのは,あの路地裏の情景だ。
殴られていたのは,横川だった。「異種格闘技」決勝の日。横川は,開場前に場内に潜り込んだ。アクト・ローカルズは,スタッフの数も多い。ライブハウスのセキュリティーは,割と甘かった。大きな荷物を持って,後について行ったのだろう。
『マトリョーシカが解散すれば,しゅかりんは僕のものになる。』
事件の後,甲田が見つけた書き込みだ。最後に更新された横川のSNS。時刻から見て,会場に潜んでからのものだ。
うかつだった。佐々本からも忠告があったのに,高を括っていた。狙われるのはメイリンだと決めつけて…まさか,マトリョンが…
『たくさんの血が流れる。』
五十嵐は,そう言った。俺は,無関係の出来事のように感じていた。「組織」のせいではない。だが,血が流れた。俺の目の前で。甲田に…いや,人間の力で,止められるはずもない。おそらく横川は,もう生きていない。
あの後…気づくと,五十嵐がいた。研究所のスタッフだろう。複数の男たちを引き連れていた。五十風は,俺を下がらせて,タブレットを操作した。強制終了。メイリンの動きが止まった。
俺は,ライブハウスに戻った。既に救急車が来ていて…マトリョンが搬送された。付き添ってくれたのは,浅岡だ。俺は,その場に残らなければならなかった。傷が浅いことを祈るしかできない。そんな立場を恨めしく思った。瀬田は,甲田が家まで送り届けた。それから,警察に…
横川が,マトリョンを刺した。逃げる横川をメイリンが追いかける。それは,横川の罠だった。人目につかない場所におびき出されたメイリン。そのままどこかへ連れ去られたに違いない。俺は,そう話した。五十風が考えた筋書きだった。
マトリョンは一命を取り留めた。病院には,何度も行っている。だが,マトリョンには会えないままだ。予想はできていた。両親に怒鳴られ,追い返される。その繰り返しだ。こんな活動をしていたから,事件に巻き込まれた。そう思うのも無理はない。俺は,生まれて初めて土下座した。
わかっていなかった。1人の人間の人生に責任を持つということが。すべては,俺の甘さが招いたことだ。
その後,マトリョンの様子は,根本が教えてくれた。はっきりしたことはわからない。だが,最悪の場合,もう起き上がることも…
俺は,頭を抱え,身体を丸めた。叫び出しそうになるのをこらえながら。
何時間過ぎただろう。時間が進むのが,ひどく遅い。
気づくと,LINEが届いている。こんな夜明け前に誰から?気になって,スマホを手に取る。五十風からだ。
『今からメイリンが帰ります。』
「…!!」
メイリンは,五十嵐が預かってくれていた。世間的には行方不明になっている。だから,人目を避けてこんな時間に…
ドアのベルが鳴った。俺は,慌てて駆け出す。あの日から脚に力が入らない。よろけて,テーブルに足をぶつけた。激痛に襲われる。だが,構っていられない。壁に手をつきながら,玄関まで進む。震える手で鍵をひねり,ドアを…
「メイリン!!」
見慣れたシルエットが,闇に溶け込んでいた。メイリンは,黒いフードで顔を隠している。手を取って中に招き入れた。身体から力が抜けていく。俺は,膝立ちになって,メイリンを抱きしめた。
「おかえり…メイリン。」
『―正式に両者優勝というアナウンスがありました。プロデューサー相田さんをはじめ,スタッフのみなさん,ありがとうございました。―』
準決勝の日,楽屋に来たツインテールの少女。アクト・ローカルズ小峯エミリのSNSだ。俺は,久しぶりにネットを見ている。
『決勝は無効試合になる。』
ネットでは,そんな噂が流れたらしい。「異種格闘技」は,B級アイドルが集まるマイナーなイベントだ。だが,今回の事件で一気に注目が集まった。だから,主催者側も対応に苦慮したことだろう。
戻ってからメイリンは口を利かない。それは,ある意味好都合に思える。五十風とは詳しい話はしていない。だが,おそらくあの時の「記憶」は消去されたはずだ。
五十嵐は言っていた。ヒューマノイドは,いつ「組織」の構成員に狙われるかわからない。だから,戦闘能力が極めて高い。人間1人消すことくらい簡単だろう。ただ,やり方は,慎重を期している。地元の路地裏で見た光景がそうだ。腕を折って,戦闘不能に追い込んだ。その場で血が流れるようなことは…
これは,バグだ。バグ?研究所の人間は,そう言うだろう。だが,俺には,「感情」としか思えない。あれは,どう見ても,怒りに支配された人間の姿だった。
横目でメイリンを見た。俺たちは,並んでソファーに座っている。メイリンの左腕が,俺の右肘あたりに…
『近いよ,メイリン。』
そう言おうとして,言葉を呑み込む。いつかの自分の言葉を思い出したからだ。もし,「異種格闘技」で負けることになったら…
『何も言わなくていい。ただそばにいてやってくれないか。』
メイリンの思考回路は,確実に進化している。勝負に負ける。それだけではない。悲しいことがあれば,そうすべきだ。きっとそう考えて…
「メイリン。マトリョンがいなくて,寂しい?」
気づくと,口にしていた。メイリンは,「感情」の芽生えを自覚していない。訊いても,否定するだけに…
「寂シイ,トイウ感情ハ,ワタシニハアリマセン。デスガ,違和感ハアリマス。」
心なしか声のトーンが低い。自分の変化に気づき始めているのだろうか。
「メイリン。…いや,なんでもない。」
俺は,言葉を呑み込んだ。こんなことを言えば,ただ混乱を招くだけだ。
『それを,寂しいっていうんだよ。』
床に落ちていた携帯が鳴った。気が進まないまま手に取る。柿沼からの着信だ。時刻は,昼近くになっていた。通話ボタンを押す。
「どうした?」
「角脇か?よかった。出てくれて。」
「ああ。久しぶりだな。」
俺は,気のない返事をする。あれから仕事は休んでいる。きっと,知り合いから様子を聞くように頼まれて…
「あのな。角脇。落ち着いて聞いてくれよ。」
違う。電話の向こうから伝わるのは,ただならぬ気配だ。嫌な予感が脳内を駆け巡る。まさか,マトリョンの容体が…
「ああ。何かあったか?」
「浅岡が…亡くなった。」
「まだ信じられねえよ。」
「ああ。」
木崎の言葉に,かろうじて反応した。焼香を済ませた俺たちは,セレモニーホールの駐車場に戻ってきた。車にもたれると,木崎は煙草に火をつけた。このまま帰りたくない。その気持ちはよくわかる。
「まったく。月並みな言葉しか思いつかないのが,情けないな。」
「そうだな。」
何か喋っていないと,おかしくなりそうだ。木崎からは,そんな空気が感じられる。だが,今の俺では,相手として…
「木崎。角脇。」
声がしたほうを振り向く。これから焼香に行くのだろう。香典袋を手にした柿沼がいる。その後ろには…
「久しぶりだな。それに,聡子も。」
柿沼聡子だ。アイドル美宙祈,ではない。ただ知人の死を悲しむ若者。今は,完全に場の空気に同化している。聡子は,目を伏せたまま,静かに頭を下げた。
「突然すぎて,全然実感がないんだ。自分でお前らに伝えておいて,おかしいんだけどな。」
「いや。俺たちだって同じだ。遺影を見たくらいじゃ,まったくリアリティーがない。」
煙草の灰を落としながら,木崎が答えた。遺影。写真の浅岡は,まだ若かった。20代の頃のものか。それだけ実家とは疎遠だったということだろう。
「ああ。でも,考えてみると,ちょっと前に,小学校の同級生が亡くなってるんだよな。同じようにさ。残念ながら,俺たちも,もうそういう歳になった,ってことなのかもな。」
柿沼は,寂しそうな笑みを浮べた。木崎が,地面に落とした煙草を踏み消す。
「そうだな。もう生きてるのが当たり前,なんて時期は過ぎた,ってことだ。」
「そうかもな。ほんと年は取りたくないもんだ。それじゃ,またそのうちな。」
「ああ。またな。」
柿沼は,軽く手を振って,背を向けた。慌てるように礼をして,聡子がついていく。一瞬,俺と目が合った。2人の背中を見送りながら,木崎がつぶやく。
「きっと知らないだけで,もう何人も死んでるんだろうな,昔の知り合いとか。」
「多分な。」
俺たちも,気づけば50代だ。人間五十年。大昔なら,もう死ぬのが当たり前の年になっている。
浅岡の死因は,心筋梗塞らしい。仕事を依頼した人が,発見者ということだった。締め切りになっても,データが届かない。浅岡は,期限に遅れたことがなかった。それで,不審に思って,マンションを訪れて…
「角脇さん。木崎さん。」
また声をかけられた。俺たちと,同年代の男だ。見覚えが…思い出した。いつか会った,浅岡の学生時代の後輩…
「ずいぶん久しぶり…だよな?」
「はい。お久しぶりです。お元気そうで。」
木崎も思い出したようだ。数十年ぶりの再会。懐かしさはない。いじめた側といじめられた側。本来なら,お互い気まずさしかないだろう。だが,大きな出来事の前で,そんな感情は起きない。
「角脇さんには,この前お会いしましたね。」
「ああ。そうだった。」
男は,鞄に手を入れると,何かを取り出す。ケースに入ったCD−Rだ。
「仕事でお願いした音源が届かなかったから,親御さんに連絡して,事情を話してマンションの部屋を開けてもらったんです。」
なるほど。こいつが発見者だったわけだ。そう言えば,あの時も仕事関係で…
「それで,それらしいディスクを探して,何枚か持ち帰ったんです。そしたら,その中に,未発表音源と思われる曲がありました。」
男は,押し付けるようにCD−Rを差し出した。思わず受け取ってしまう。
「なぜ俺に?」
「さあ。僕が持っていても仕方ないと思っただけです。では。」
軽く会釈して,男は歩き出した。最後まで事務的な態度だった。気づけば,名前さえ名乗っていない。木崎が,俺の手元をのぞき込む。
「何だ,ベータって?」
CD−Rの盤面に目を落とした。黒いペンで1文字だけ書かれている。
『β』




