第29回
『それ,ワッキーの担当だから。』
ライブの後,浅岡に事情を話した。マトリョンが泣くまでの経緯だ。一緒に話してくれるのを期待したが,ダメだった。母親と折り合いが悪くて,しかも同性。共感し合える部分は大きいと思うが…
やはり,両親は来ていなかった。自分で思っていたより失望が大きかったのだろう。あの複雑な表情が,それを物語っていた。その後で,一面のオレンジのサイリウムだ。歌詞のイメージそのまま。夕陽に照らされた海がモチーフになっていた。
ステージの上から見下ろした光景。これが,予想以上にきれいに見えたのかもしれない。大きな失望の後だったから,なおさら心に響いて…
『じゃあね。』
浅岡は,軽く手を振って,去って行った。あっけにとられる俺を残して。
会場は,想像以上の盛り上がりになった。多幸感に包まれていた。そう言っても,過言ではない気がする。誰よりもマトリョン自身が,それを感じていたはずだ。だから,単純に慰めるというのも違う。
会場を出るときも,マトリョンは無言だった。地元までこの状況はきつい。そう考えて,東京に残って少し話すことにした。瀬田たちには先に帰ってもらうことにする。ワゴンの運転は,甲田が引き受けてくれた。もちろん,メイリンは,俺たちと一緒だ。
「すいません。何も言わないで,あんなことを…設定を台無しにしちゃって…」
「いや。盛り上がったんだから,結果オーライだよ。」
「でも,せっかく定着してきたのに,一時の感情で…ごめんなさい。」
「構わないよ,全然。」
確かにいきなりだった。直立不動。その場だけで,回転したり,腕を動かしたりする。絶対的な「定位置」からマトリョンは離れた。
でも,構わないと思った。ずっと抑えていたものを解放した。俺には―きっと浅岡にも―そう見えた。観客もそんな姿を見たかったのだろう。フロアの反応を見れば,それは明白だった。
今後のことは,また考えればいい。決勝では,何もなかったように「定位置」から始める。で,ここぞというタイミングで動く。それで問題ない。逆に,最初からマトリョンが駆け回る。代わりに,メイリンが直立不動というのも…
「やっぱり違いますね,東京は。」
俺が黙っていたからだろう。マトリョンが話題を変えた。気まずいと思考の渦に逃避する。そんな癖は,もう一生直らないのかもしれない。
「違うって…それはそうだよ。地方とは何もかも違うから。」
「それはそうなんですが,デパートの屋上も,違うんだなって。」
マトリョンは,俺を見ない。目の前の景色だけに視線を集中させている。
俺たちは,池袋にあるデパートの屋上に来ていた。夕陽がきれいに見える場所。それで,思いついたのがここだった。
中学まで学校が退屈で仕方なかった。浅岡や柿沼と会う前の話だ。学校が終わって,心底ほっとした。帰宅部だし,家に帰っても誰もいない。時間だけは腐るほどあった。俺は,くだらないことを考えながら,川べりを歩いた。夕焼けに照らされて,ゆっくりと…
ライブで見た光景。それもある。あの「海」を思い出して,余韻に浸りたかった。だが,それだけではない気がする。夕陽を見ると,気分が落ち着く。それは,あの頃から変わっていない。
そう言えば,マトリョンとの「出会い」も屋上だった。今の容姿になってから,という意味では。メイリンは,「傍観モード」に入ったままだ。ヘッドホンをつけて,スマホをいじっている。だから,自然と景色に溶け込んでいた。どこにでもいる学生といった雰囲気だ。
「あ。そういえば,わたしの親,来てませんでした。お気づきだとは思うんですけど。」
マトリョンが,いつもの口調で言った。どうでもいいことを思い出した,という体だ。
「ああ。うん。そうみたいだね。」
平静を装ったつもりだった。でも,声が少し上ずった。情けない。こういう状況には本当に弱い。
「わかってはいたんですよ。元々折り合いが悪いうえに,あんなことやらかしたわけだから。」
マトリョンは笑っている。ライブ中に見せた複雑な表情だ。
「あのMVか。田舎じゃ,それなりのインパクトがあったんだろうけど,今見返しても,別になんてことないけどね。」
ダメ人間のあいだでは,はじめから笑い話。ライブでも,いいMCのネタになっている。でも,頭の固い連中にとっては違う。マトリョンの両親は,筋金入りの後者だ。
「ですよね。でも,親子なのに,どうしてこんなに違うんでしょう。子どもの頃,よく考えることがありました。わたし本当はこの家の子じゃないんじゃないか,って。まあ,今でも時々思うんですけどね。全然進歩してないですね。」
「別に問題ないよ。人間,そう変わるもんじゃない。俺なんて,いい例だからね。『三つ子の魂百まで』って,ことわざがあるだろ。百までは生きないだろうから,本当かわからないけど,少なくともその半分までは当てはまる,って最近気づいたばかりだよ。」
学生時代,何度か見下ろした街並み。高いビルが若干増えている。だが,それほど変わっていない気がする。ライブ前の時間つぶしに来たこともあった。なぜか浅岡がはしゃいで,子ども用の遊具に乗ろうとして…
あの頃は,何も考えずに眺めていた。そう。若い頃は思っていた。年をとれば,いろいろなことが気にならなくなる。感覚が麻痺すると言うのだろうか。周りの「大人」を見て,そう感じていた。だが,気づくといい年だが,少しも楽にならない。それどころか余計に…
聞こえてくるのは,のんきなBGM。昼下がりなら,このまったり感もいい。だが,夕暮れ時にはミスマッチだ。
「そうなんですね。わたしも…そう思う時が来るのかもしれません。でも,本当に何もわかってないですね,わたし。冷静に考えれば,どう考えたって,もう修復不可能なのに。それを,まだどこかで期待したりして…」
どんな心境の変化があったのだろう。それはわからない。でも,マトリョンは後悔しているのかもしれない。
これまでずっと両親と向き合おうとしなかった。それだけじゃない。仕事にしても,そうだろう。本当にやりたいことを隠してきた。でも,今は違う。だから,アイドルとして真剣に活動している姿を…
「仕方ないよ。時間が経っても,割り切れないこともある。ご両親とのことは,詳しく知らないけど,なんとなく…わるいけど,根本さんから少し聞いたことがあって…」
「あの…訊いてもいいですか?」
マトリョンが,やっと俺のほうを見た。俺は,黙ってうなずく。
「角脇さんとお父さんは関係が修復できないままだった,って言ってましたよね?それで,どうやって…気持ちを整理できたのか…差し支えなかったら,話してくれたら,って…」
関係の修復?気持ちの整理?そんなことは考えたこともなかった。
「申し訳ないけど,気持ちの整理っていう問題じゃなかったんだよ。そういうレベルじゃなくて,ただもう絶望的にわかり合えない。ずっとそう思ってたからね。」
本当に考えたこともなかった。母親がいなくなった。それで,父親が変わった。俺にとっては,ただそれだけ。女に捨てられて,他人に対する態度を変える。それは,ただ軽蔑の対象でしかない。
「そうですか。でも…さみしいと思うことはないですか?」
声のトーンが低い。マトリョンに少しためらいが見える。立ち入ったことを訊いているという自覚からだろう。だが,目はまっすぐ俺を見ている。今話さなければ,もう機会はないかもしれない。そういう気持ちの表れだと思える。
「こう言うと,冷たいと思われるかもしれないけど,不思議とないんだ。死ぬ前にもっと話しておけばよかったとか,そういう後悔もない。まあ,亡くなったすぐ後は,実感がまだないだけで,時間が経てばいろいろ考えることもあるかも,なんて思ったけどね。でも,今までずっとこのままだよ。」
マトリョンは,夕景に視線を戻した。言葉を探しているのだろう。ゆっくりでいい。時間はまだ…思わず息を飲んだ。マトリョンの目がうるんでいる。大きく息を吐いて,もう一度俺を見た。
「どうしたら…強くなれますか?」
強い?そんなことじゃない。あえて言うなら…人間関係について,無関心になっていた。言ってみれば,それだけのことだろう。
進歩していない。マトリョンは,そう言った。進歩という表現が適切か,わからない。でも,マトリョンは日々変わっている。それは,誰にも否定できない。
それだけではない。俺の生活も大きく変わった。もちろん,このプロジェクトを始めてからだ。でも,今のメンバー,スタッフでなかったら…
小細工は要らない。瀬田とのやり取りを通して実感したことだ。今,心のなかにあるもの。真剣に意見を求められたら,それだけを伝えればいい。
「何度も言ったことだけど,俺は,自分をずっと少数派だと思ってきた。だから,いつからか,基本的に人とはわかり合えなくて当たり前。そう思うようになってたんだ。大学の頃,同期のやつにコミケに連れて行かれたことがある。そのとき,初めてヲタクと呼ばれる人たちと話をしたんだけど。俺としては,特に先入観はなかったし,変に構えてたつもりもない。でも,やっぱり話していて壁を感じてさ。まあ,当時は…今も同じようなものだけど,まったくと言っていいほど知識がなかったから仕方ないんだけど。ほら,よく『こっち側と向こう側』って言うだろ?話の端々に,それを感じて,そのときは,ちょっと居心地が悪かったんだよね。でも,よく考えたら,気づいたんだ。俺だって,似たようなことやってきたんだって。」
「似たようなこと?」
「うん。わかり合えそうな人か,わかり合えない人か。知り合ったばかりの人に対して,そういう目で見ながら接してる。だから,最初はあえて自分で壁を作ったりする。たとえば,仕事上のつき合いだと,全部敬語で話すことにしてるんだよ。上司だろうと,1年目の新人だろうと。」
「あ…」
思い当たることがあったようだ。マトリョンとも,会った当時は敬語で話していた。最近では,五十嵐に対しても,ついタメ口になることもあるが。
「まあ,数えてみるまでもないけど,わかり合えない人のほうが圧倒的に多いからね。同じ感覚を持った人に会えるほうが珍しいわけで。だから,親だって同じなんじゃないかな。親が,たまたまわかり合えない人間の側にいただけ。確率的に考えれば,ある意味当然だし。ガキの頃のことだから,はっきり覚えてないけど,きっとそう思うことにしたんだと思う。」
俺が話しているあいだ,マトリョンは何度かうなずいた。だが,まだ十分ではないようだ。
「わかります。でも,家族だから…やっぱり少しは期待してしまうものじゃないですか?」
「それも,人それぞれじゃないかな。だって,最近『毒親』とかいうのかな,子どもの幸せにとって邪魔になる親もいる。で,元々は他人だった結婚相手との暮らしを守るために,親と縁を切る子どもも少なくないらしいから。それに,都会だったら,人口も多いし,状況も全然違うだろうけど…地方に暮らしていて,今一緒に活動してるメンバーに会えた。それだけで,もう十分だと思ってるよ。いろいろ期待するから,失望も大きくなるわけだから。実際,期待してもしなくても,結果は同じなんだし。まあ,そんなところかな。」
「もう!」
マトリョンが吹き出した。おかしなことを言ったつもりはないが。あまりに笑い声が大きく,周囲から視線を感じる。俺は,慌てて訊く。
「何か変なこと言った?」
「いいえ。やっぱり,クールだな,って。」
思ってもみない反応だ。クール?それどころじゃない。だから,思いもしない言葉が口からもれる。
「クールな大人は,アイドルのライブで泣かない。」
タイミング良く,と言えばいいのか。BGMが突然大きくなった。マトリョンが,俺に一歩近づいてきた。
「えっ!?今なんて言いました?」
「何でもないよ。」
「いいじゃないですか。もう一度言ってくださいよ。」
どこまでも連なるビル群。その上空で,オレンジと群青がせめぎ合っている。風が吹き抜けて,マトリョンの髪を揺らし始めた。
「で,どっちが馬で,どっちが牛でしたっけ?」
視線の先には,チェリー・フォーがいる。だが,誰も答えない。周囲の客も,答えを知らない様子だ。マトリョンは,カウンターの木崎に助けを求めた。
「マスター。お願いします。」
「キュウリが馬だろうが。」
木崎は,さも面倒くさそうに答えた。マトリョンが,うなずいて笑みを見せた。
「さすが年の功。こっちがお馬さんです。」
マトリョンが指さしたのは,メイリンの左手だ。かなり大ぶりなキュウリが握られている。右手には,これも太めのナスだ。
『第3回アイドル・ナイト 異種格闘技グランプリ決勝壮行会』
2人は,そう書かれた横断幕を背にしている。「異種格闘技」準決勝から数日が過ぎた。俺たちは,木崎のライブハウスにいる。メイリンは,少し前に楽屋から戻って来たところだ。
『日本の文化を体験しよう 第2弾』
メイリンが持ってきたのは,お盆の供え物。野菜で作った牛馬だ。年に1度のことだから,記憶が曖昧なのも無理はない。
だが,そんなことはどうでもよかった。2つの野菜は,どう見ても牛でも馬でもない。短く折られた爪楊枝が全身に刺さっている。なぜかハリネズミ状態だった。
『怖い。怖い。』
登場した時の客の反応だ。不吉な姿だが,マトリョンはホラー要素を意図していた。頭の固い連中が見たら,「不謹慎」と言うだろう。もちろん,これまでと同じほぼ「身内」のイベントだ。そんな心配もない。俺は,いつものように壁にもたれて,カメラを回している。20人ほどの客の背中。その向こうにマトリョーシカがいる。
「えっ!!」
「何!?」
「怖い。怖い。」
フロアから声が上がった。メイリンが,「2頭」をテーブルに置いた。すると,それがすぐに歩き始めた。
種明かしをすると,野菜の中に仕込んだのはゼンマイだ。懐かしのブリキ製の玩具。あれと同じ仕組みだが,印象はまったく違う。郷愁。そんな言葉とは無縁の不気味さに満ちている。
マトリョンが,客席を見回す。今日は,横川の姿は見えない。さすがにもう諦めたと見える。
「この2匹は,後でプレゼントしますね。興味のある方は,この後の物販でお願いします。」
「俺は,いらない!」
甲田が叫んだ。マトリョンが,意味ありげな視線を送ったからだろう。笑いが起こって,場の空気が和んだ。
「それでは,最後のライブのコーナーに移る前に,少しお話しさせてください。」
マトリョンが,背筋を伸ばして言った。野菜を手に持って,メイリンが並んで立つ。「2頭」は,まだ脚を動かし続けている。
「もう予想できているかもしれませんが,『異種格闘技』決勝のパフォーマンスのテーマは,ホラーです。」
アクト・ローカルズ相手に駆け引きは必要ない。対戦形式のライブでも,彼女たちは特別なことはしないからだ。それだけ自信があるということだろう。だから,事前に情報を流し,期待を煽ることにした。マトリョンと話し合って決めたことだ。
壁のスイッチを押して,カフェスペースの照明を消した。続けて,手元のプロジェクタを操作する。
「おーっ!!」
会場がどよめいた。2人の背後。白い壁に,モノクロの写真が映った。着物姿のマトリョンだ。髪が濡れて,襟元が乱れている。口は半開きで,虚ろな目がレンズに…
『和風の幽霊』
カメラマン浅岡への注文は,それだけだった。客の反応を見ればわかる。浅岡は,今回も期待に応えてくれた。イメージ通りの「美人幽霊」の肖像がここにある。
「ありがとうございます。決勝,期待していてください。」
拍手が起こった。2人は,顔を見合わせて,深々と頭を下げる。
「今回は,急な開催でしたが,来てくださって感謝しています。改めて,お礼を言います。」
さらに深く礼。比例して,拍手も大きくなる。
「どうしても,決勝前にもう一度イベントがしたかったんです…地元で。」
地元で。そう言う前に少し間があった。何らかの覚悟を持って,このMCをしている。それが伝わる口調だ。
「わたしたちは,ロコドルです。『元』と言ったほうがいいかもしれませんが。」
小さく笑い声が聞こえた。だが,それもすぐに消える。マトリョンの表情が,そうさせたのだろう。
「みなさんもご存じのように,わたしは,この町が好きではありません。正直,活性化なんて無理だと思っています。東京に対してコンプレックスがあるのも事実です。ここにいるみなさんのなかにも,同じような気持ちの方がいると思います。」
甲田が右手を挙げた。すると,従うように次々と手が挙がる。
「ありがとうございます。でも…だから,ですかね,この活動を始めてから,少し変わったんです。実は…」
マトリョンは,言葉を切って,大きく息を吐いた。そして,俺を見て,小さくうなずく。
「申し訳ないんですが,わたしがアイドルになろうと思った動機はかなり不純でした。見ての通りですが,もう本当に陰キャで…わたしを見下したり,理解しようとしなかった人たちを,見返してやりたいとか…嫌な気持ちにさせてやりたいとか…とにかく,自分のことしか考えていませんでした。」
牛と馬のゼンマイは止まっていた。静寂が,場を支配する。
「この町を好きな人を批判するつもりはありません。まあ,最初は,少しからかっていた部分もあるんですが。それは,『嫌なら出てけ!』みたいなことを言われたことがあって,それが原因だったりします。でも,好き嫌いって,どうにもなりませんよね。好きじゃないのに,いろいろあって,地元を離れられない人も多いと思うんです。」
今度は,手は上らない。でも,何人か,頭が縦に動くのが見える。
「この活動を始めて,自宅と職場の往復だった生活が,大きく変わりました。アイドルにならなかったら関わることがなかったと思える人とも出会うことができました。そのなかには,こうして限られた時間と設備でも,できるだけ面白いことをしようとしている人がいます。いつからか,わたしは,そういう人が少しでも楽しく過ごせるような活動をしたいと思うようになりました。」
それは気づいていた。でも,MCで話すことになるとは思ってもいなかった。そうさせたのは,ある種の信頼感−感覚を共有しているという実感だろう。マトリョンは,笑みを浮かべて話し続ける。
「決勝の相手は,アクト・ローカルズです。地方出身同士の対決になりました。でも,都会のグループに勝ったとか,地方在住の意地を見せるとか,そんなことは関係なくて…今は…すごくフラットな気持ちです。」
マトリョンは,もう一度客席に視線を送った。そして,1人一人と順に目を合わせていく。
「子どものころから人と競い合うのは苦手でした。だから,勝負することはずっと避けてきたんです…でも,ここまで勝ち進んで…決勝は,その集大成でもあるし…本気で勝ちたいと思っています。だから,ぜひ決勝,見に来てください。都合が悪くて会場に来れない方には,動画生配信があります。どうか10分間だけ時間をください。よろしくお願いします。」
誰もが,マトリョンの言葉に聞き入っていた。反応するのを忘れるほどに。その静寂を破ったのは,乾いた拍手の響きだ。音のほうを見ると,満面の笑みをたたえた木崎がいた。




