第2回
寝覚めの悪い朝だった。
またあの夢を見た。正確には,同じようなと言ったほうがいいだろう。マイナーチェンジを繰り返しては,不定期でやって来る夢。俺の周りから,次々と人が消えていく。祖父母,伯父,父親…今までに死別した人たち。しかし,それより目覚めた後,印象が濃いのは…実際に「消えた」2人だった。母親と,もう1人…
回想はここで遮られた。電車は,大きく揺れた後,駅のホームに滑り込む。家から徒歩数分の無人駅から1区間。1車両のみのローカル線が,人を吐き出し始める。
いつもなら別のホームに移動して乗り換え。そこから15分ほど電車に揺られる。その後,5分も歩けば職場に着く。
でも,なぜかこのまま出勤する気になれない。俺は,駅前のカフェに寄ろうと決めた。改札を出て,南口へ…人波に流されながら歩く。
人込み。俺は,ポケットからスマホを取り出す。
『まさかとは思うけど…』
俺は,時刻を確かめるような顔で,画面を見た。カメラを起動して,レンズを切り替える。いわゆる「自撮りモード」だ。と言っても,自分の顔を撮るわけじゃない。左右にずらして,背後の人波を撮影する。1枚,2枚,あとは指の動くままに…
こんなことを言うと,被害妄想だと言われるに決まってる。だから,誰にも話したことはない。ただ,俺には確信がある。いつからかはわからない。でも,ずっと長いあいだ誰かに見張られてる気がする。
気づくと,カフェの前に来ていた。俺は,立ち止まって,周囲を見回す。撮ったばかりの写真を拡大して,順に顔を見ていく。1枚目。特に気になる人物はいない。2枚目も,問題ない。3枚目。画面の端に指を伸ばして…
「あ…」
思わずスマホを落としそうになった。全身が,一瞬で不快な感覚に支配される。初夏の日差しのなか,俺は頬を伝う冷たい汗をぬぐった。
気もそぞろなまま出勤した俺は,ひたすら終業時間を待った。夕方には,また柿沼と会うことになっている。バカ話でもすれば,少しは気もまぎれるだろう。
「そういえば,角脇さん。」
仕事に身が入らないのがバレているのか。いつもより根本に話しかけられる回数が多い気がする。
「もう決まったんですか,ロコドル?」
「ああ。うん。探してはいるんだけど,なかなかね。」
「そうですか。わたしにできることがあったら,言ってくださいね。」
のぞき込むようにして根本は言った。いい笑顔だ。俺は,部屋のなかを見回す。他の職員は誰もいない。
「あのさ,根本さん,やってみない?」
冗談めかして言った。でも,思いつきじゃない。少し前から,それもいいと考え始めていた。
「冗談やめてくださいよ。わたし,どう見てもアイドルって感じじゃないし…」
大きく首を振る根本だが,表情はまんざらでもない。アイドルになれる,と言われて悪い気はしない。そういうことだ。俺は,少し粘ることにする。
「そんなことないよ。今はいろんなアイドルがいるし,決めつけることないと思うよ。」
「でも,もう若くないし。ルックスも…」
「問題ないって。アイドルの年齢も,今は幅があるし,それに…」
「あの,ひとつ訊いていいですか。」
根本が,俺の言葉を遮った。いつもとはまったく違う口調になっている。こんな雰囲気になるのは,初めてな気がする。
「ああ。うん。」
「角脇さんが考えてるのは,どんなアイドルなんですか?コンセプトっていうか…」
コンセプト?既に活動してるアイドルに,地域の名物をからめて…それで,自分のやりたいことは,軌道に乗ったらやればいい。それくらいしか考えてなかった。現時点では,ほぼノープランだ。
「生意気なこと言うようで,すみません。でも,たいへんだと思うんですよ。仕事しながら,週末も活動するとか。だから,最初から考えるよりも,もう活動してる子とコラボするっていうか,そういう感覚のほうが,負担が少ないと思います。」
どこまで俺の考えに気づいているのか。わからない。でも,本音を話しても,害はなさそうだ。俺は,正直に言葉を返すことにする。
「そうなんだよ。俺も,そう考えたんだけど,スカウト活動がうまくいかなくてね。やっぱり難しいね。なめてたわけじゃないけど。ごめん。変なこと言い出して。ちょっと弱気になってたのかな。」
俺は,表情を緩めて,話を打ち切ろうとする。根本が,いつもの口調に戻って訊く。
「でも,やろうって思うだけですごいですよ。だって,仕事だけでも疲れるじゃないですか。やっぱり,あれですか?」
「あれ,って?」
根本は,窓を指さす。野球部だろう。外から,野太い声と金属音が絶え間なく聞こえてくる。
「ああ。部活か。」
「はい。わたし,部活に入ってなかったから,見てて楽しそうだなって。だから,角脇さんも,何かそれらしい活動がしたくなったのかな,って。」
大枠では外れてない。あとは,分類の問題といえばいいか…
「うん。ちょっと違うけど,似たようなものだよ。地元にJ1のチームあるよね?」
「J1?って,サッカーの?」
「そう。去年,スタッフの人の講演を聞く機会があったけど,そこでこんな話があったんだ。シーズン中は,2週間に1回ホームで試合がある。だから,サポーターは,2週に1度は非日常を楽しめるんだって。確かに楽しそうだよね。試合を見て,応援して,その後一緒に飲みに行ったり…」
「そうか。わかりました。」
根本は,得意気に俺を見る。難しいクイズの答えがわかったみたいに。
「角脇さんは,なんていうか…その文化版をやりたいんじゃないですか?考えてみれば,この街って,ほとんどないですからね。ポップカルチャー系のイベントとか。」
模範解答。そう言ってよかった。浅岡並みの鋭さだ。2人とも話し方からは想像もつかないけど。
「まあ。そんな感じだよ。だから,アイドルっていう,今わかりやすい手段で…」
俺は,反射的に言葉を切る。別の事務員が戻って来たからだ。原口という30代の女性だ。俺を見る目つきからわかる。俺がしようとしている活動に好意的でないのは明らかだった。
「根本さん。その話は,また。」
「はい。」
もう少し話したかったが,俺たちはそれぞれの仕事に戻る。窓の外の声が,いっそう熱を帯びて響いてきた。
「タイムトラベル?…って,あの…?」
「そう。SF映画とか小説に出てくるヤツな。お前,どう思う?」
「どう思う,って言われてもなあ。何かあったか?」
数日前と同じカフェ。俺は,柿沼に簡単に進捗状況を伝えた。と言っても,まだ見つからない,というだけだ。その後は,同じようにバカ話になった。そのまま帰るまでダラダラ続くだけ。そう思っていたら,唐突に話題が変わった。時間旅行。現実主義者の柿沼には似つかわしくない言葉だ。
「うん。たいしたことじゃないんだが,週末東京に行って,聡子のアパートに寄ったんだ。ふと本棚を見たら,タイムトラベルだか,タイムマシーンだか,そんな本ばっかりで。何考えてるのかまったくわからなくてな。他に訊ける人もいないし…」
「まあ,若いうちはいろいろ興味を持つもんだろ。それに,これだけ技術が進歩した世の中だ。何が起こってもおかしくない。というか,ただの路線変更かもしれないだろ。『タイムトラベルアイドル』とかさ。えっ…」
柿沼が意外そうに見ている。俺もリアリストだと思われてる部類だ。でも,実際に身の周りでおかしなことがあれば,人間は変わる。
「ちょうどよかった。話そうか迷ってたことがあるんだ。」
俺はスマホを取り出し,写真を探す。朝駅で撮ったものだ。見つかると,テーブルに置いたスマホを軽くすべらせる。
「ん?人込み…これは…駅だな。誰か知り合いがいるのか?でも,うん。違うか…」
のぞき込んだ柿沼が,注意深く目を走らせる。何もあるはずがない。普通に見れば,ただの通勤ピーク時の風景だ。俺は,画面の端を指さす。
「前にも見たことあるんだ,この女の子。」
「この子?ああ。ちょっとかわいい子だな。で,この子をいつ?」
長い髪の色白の少女。カメラ目線と言えなくもないが,特に変わったところはない。それなのに,俺の身体は過剰に反応する。だから,ゆっくりと口を開いた。動揺に気づかれないように,一音一音はっきりと…
「何度か見てる。最初は,高校の頃。それから,大学。で,こっちに戻って,すぐの頃。それから何度か。で,今朝。最近,プロジェクトのことがあるから,スマホに変えただろ。それで,試しに撮ってみたら…」
「大学って,東京まで来た,ってことか?いや。待て。それって,おい!」
柿沼が気づいた。あきれた顔で,俺をじっと見てる。
「30年以上前にこの子に会ってる,って?」
「わからん。だから,気味悪いんだ。考えれば考えるほど,自分がおかしくなったんじゃないかって。」
「ということは…状況から考えると…お前の記憶が正しいという前提だけど,可能性は2つだな。美魔女のストーカー。または,親子2代のサイコパス,ってことになる。で,お前,身に覚えは?」
心当たり?そんなものはない。でも,俺の人生には,いくつかおかしな出来事がある。
幼稚園の年少の頃,母親がいなくなった。突然のことだった。大学に勤めていたと聞いている。忙しかったという印象はあった。母親のことを思い出そうとすると,さみしく感じるのは,きっと家にいる時間が少なかったせいだ。
原因は,誰も知らない。周囲の人からは,仕事人間と思われていた。不倫で蒸発という可能性は,誰もが否定したらしい。
それから,40年以上が過ぎた。何もわかっていないからだろう。時間は経っても,俺にとっては,父親の死以上に大きな事件になってる。
そして,もうひとつ…
「いいか。無茶するなよ。」
我に返ると,柿沼は真顔になっていた。どうやら回想に浸りすぎたようだ。でも,このことになると,いつも俺は…
「無茶?しないって,別に。」
「とにかくこの女がストーカーだっていう確証があるまで,絶対に動くなよ。そうじゃないと,逆にお前がストーカーってことになりかねない。」
わかってる。でも,もうここまで話した。だから,すべて打ち明けることにする。
「まあ,追いかけたところで,俺には捕まえられないだろうけど。」
「お前。まさかもう…」
「ああ。実は。何年か前のことだ。この女を街で見つけた。今朝と同じ。まさかと思って,振り向いたら,この女がいた。それで,反射的に追いかけた。でも,路地に追いつめたと思って,角を曲がったら…消えてた。」
「消えた,って,そんな。どこかに見えにくい扉があったとか…」
柿沼は,探るように俺を見ている。半信半疑というところか。無理もない。逆の立場なら,俺もどうしていいかわからない。話題を替えようとしているのだろう。表情を緩めると,柿沼は少し口を歪めて言う。
「消えた,って言えば,最近はどうなんだ?まだ台湾に行ったりしてるのか?」
「い,いや。もう…ずいぶん行ってないけど。」
俺は,思い切り噛んだ。そう。もうひとつの「事件」。できれば触れてほしくないが,柿沼は,多少軽いと判断したに違いない。女ストーカーと比較すれば,普通はそうなる。実際,経過年数を考えれば,もう「時効」だ。
大学に入って,間もない頃。1人の少女と知り合った。雰囲気から日本人ではないと思ったら,台湾からの留学生だと言った。あどけない顔立ちと華奢で小柄な体つき。たどたどしい日本語も,微笑ましく感じられた。
俺は,すぐに彼女に夢中になった。日本語を教えるという口実で,次に会う約束をした。それから毎日のように一緒に過ごした。場所は,決まってキャンパスの木陰にあるベンチだった。他愛もない話をするだけで楽しかった。
東京の夏は暑い。距離を縮めようとする俺にとって,それは好都合だった。近くのカフェに移動し,次は買い物に出かけて…すべてが順調に思えた。
それが…忘れもしないその年いちばん暑かった日。彼女は待ち合わせ場所に来なかった。携帯などない時代の話だ。すぐに連絡は取れない。数時間待って,彼女のアパートを訪ねることにした。部屋に電話はないと聞いてたからだ。金のない学生にとっては,それも珍しいことじゃなかった。駆けつけてみると,並んだ郵便受けに彼女の名前はなかった。
今ほど個人情報に敏感な時代じゃない。翌日,俺は大学の教務課に行った。中年男性の職員が,気の毒そうに「台湾からの留学生はいない」と答えた。
ネットがあるわけでもない。俺は,東京で他の大学に通ってる知り合いに情報提供を頼んだ。台湾からの留学生がいたら,知り合いが日本に来ていないか訊いてもらった。柿沼,浅岡,それに木崎も協力してくれた。だが,手掛かりは何もなかった。
藁をもつかむ思い。まさにそれだった。俺は,台湾に飛んだ。今思えば,無茶な話だ。頼りになるのは,彼女が見せてくれた何枚かの写真だけだった。当然,何もわからない。その後も何度か旅行に出かけた。何回か行くと,少しずつ目的も薄れて,ただの気晴らしになっていた。気づけば,最後の旅行から,もう10年以上経ってる。
「おい。ほんとに大丈夫か?休みが減って疲れてるうえに,ストーカー騒ぎじゃ無理もないけど。とにかく,思いつめるなよ。気楽に考えていいから。」
柿沼が心配そうに見ている。その表情が,またあの頃を思い出させる。彼女が消えた後,新宿の喫茶店で会ったとき。あれからもう30年が過ぎた。彼女を探して動き回ることはなくなった。それでも,まだ抜け出せない自分がいる。俺は,精一杯笑顔を作ろうとする。あの日と同じように…
柿沼と別れた後。俺は徒歩で自宅に向かうことにした。早足なら20分程度で着く。本数の少ないローカル線を待つより早かった。学生時代は,駅から遠いアパートに住んでいた。だから,歩くのには慣れてる。
繁華街。と言っても,たいした規模じゃないが,突っ切って国道に出る。お決まりのコースだ。歩きながら,金曜日なのを思い出す。県庁所在地にしては活気のない街だが,いつもより人出が多い。
人込み… 俺は,足を止めず振り向く。数メートル後ろに焦点を合わせて…目を走らせる。視界の端に…いた!あの女だ。
ためらいはなかった。振り向くと,俺は駆け出す。だが,いきなり足がもつれる。カバンも邪魔だ。全力で走っている,つもりが空回り。身体に力を入れるほど,イメージする動きから遠ざかる。ひどくもどかしい。少女は…速い!距離は開くばかりで,わずかに背中が見えてる。やっぱり無理か…いや…
『ついてる!』
俺は,速度を緩める。少女が角を曲がった。地理には疎いのか。彼女が向かっているのは袋小路だった。古い飲み屋が密集した裏通り。時々,同僚と来るから,よく知ってる。まだ開店してない店も多い時刻だ。逃げ込める場所はそれほど…。
ちょっと身構えて,狭い路地に踏み込む。まさかケンカになることはないだろう。でも,もしもということもある。角を曲がれば,そこには…
『!!…』
まただ。誰もいない。俺は,注意深く観察した。正面に高い塀。足場になる物はない。乗り越えるのは,まず不可能だ。横道も…ない。知ってはいたが,一応確認してみた。
辺りは,ひっそりと静まり返っている。空腹を刺激するにおいが漂ってるだけだ。灯りがもれている準備中の店。可能性は,そのどこかしかない。踏み込んでみるか?いや,もし別の店にいたら,その隙に…
「まあ,どうせ逃げられやしないんだ。」
そうつぶやいて,俺は引き返そうとする。しばらく待つことに決めた。不審者と思われないよう,広い通りにいて見張っていればいい。あとは…
「えっ!!」
思わず自分の目を疑う。賑やかな通りに戻る直前。視界を,あの少女が横切った。