第17回
舞台を照らすのは,ほぼ地明かりだけ。それに,スポットライトの円が2つ。1つは固定されて,開始以来まったく動かない。対照的に,もう1つは,絶えず移動し続けている。
俺は,どこか無関係の出来事のように感じていた。微動だにしないマトリョン。高速舞踊モードのメイリン。見慣れた光景のはずなのに…
思えば,エントリーしたときは,ずっと先のことに思えた。そのせいだろうか。会場の下見もした。リハーサルも入念だった。それなのに,現実味がない。目の前では,まぎれもなく「アイドル異種格闘技」1回戦が行われているというのに。
いつもと違うのは,俺のいる場所だ。これまでは,フロア後方で2人を見ていた。今は,舞台上手の袖にいる。スタッフに指示を出して,操作盤のボタンを押すためだ。それから,もう1つ…
俺の正面,つまり,下手の袖だ。硬い表情で,瀬田が立っている。今回は,「演出」が多い。俺1人では正直心もとない。それで,スタッフに回ってもらった。
歌うマトリョンを見る。無表情なのは,パフォーマンスの一部だ。それでも,緊張が伝わってきた。それで,俺も左の手のひらを見る。細かい文字が,油性ペンで書いてあった。機械を操作するタイミングだ。平静を装って送り出した俺に失敗は許されない。
1曲目が終わった。メイリンが,胸の前で両方の袖を合わせる。そのまま身体を傾け,お辞儀した。すぐに,俺のほうに小走りでやって来る。
「ありがとうございます。『マトリョーシカのテーマ』を聴いていただきました。」
マトリョンが,深々と頭を下げた。衣装は,正装と言うべきチャイナドレスだ。安物だが,金の糸が意外なほどライトに映える。
それにしても,予想以上に客が多い。当たり前だが,地元のライブとは勝手が違う。今までにない拍手の数に戸惑った。でも,それは,俺よりマトリョンのほうが感じているはずだ。
「それでは,準備ができるまで,少しおつきあいください。」
マトリョンと目が合った。とりあえずここまでは予定通りの進行だ。俺は,一歩踏み出して,うなずいて見せる。
「見ていただきたいものがあるんですが…」
スケッチブックを拾い上げて,マトリョンが言った。表紙をめくると,ペン書きの太い文字。地元のカフェでも使ったものだ。
「面白かったですね,病院坂さん。あ。これですか?みなさんもご存知のように,病院坂さんは,今日が初ライブだったじゃないですか。まったくデータがなかったんですよ。それで,前のライブでクイズ大会をしたんです。病院坂さんがどんなパフォーマンスをするか,って。例えば,これ。『1番 さえない探偵風』。それから…」
マトリョンが,また厚紙をめくる。今度は,ゴムマスクのイラスト入りだ。
「2番は,『沼に沈められる男』でした。それと…」
「そう。そう。定番!」
正解アピールなのだろう。甲田が,手を叩いて,大声を上げた。
「3番は『早合点な警察官』。そして,最後に『4番 テンションの高い女中』です。」
言い終わるのを待たず,両手が上る。甲田だ。マトリョンが,そのあたりを指さす。
「というわけで,正解者がいます。『おまいつ』の甲田さんです!」
「よっしゃ!」
まばらに拍手が起こる。絵に描いたような茶番だ。俺がうなずくと,ステージの照明が落ちる。それに合わせて,操作パネルのボタンを押した。マトリョンの背後に,大きなスクリーンがある。そこに,ゴムマスク姿のメイリンが映った。
「正解の賞品は,ライブで使用したマスクです。では,簡単ですが,贈呈式をしますので,ステージにお願いします。甲田さん,どうぞ。」
誇らしげに甲田が,舞台に上がる。握手を交わす2人。マトリョンが,甲田にマスクをかぶせる。
「実は,今回もう1人正解者がいるんです。が…」
会場を見回すマトリョン。少し残念そうな顔になって続ける。
「やっぱり,いらしてないようですね。賞品は郵送させていただきます。で…」
マトリョンは,笑いをこらえながら言う。甲田は,調子に乗って逆立ちを始めていた。
「厳選な抽選の結果,しゅかりんのマスクは,もうお1人の方に決まりました。甲田さんのマスクをかぶっていたのは…」
別のボタンを押すと,スクリーンが切り替わった。と同時に,笑いが起こる。オーバーなリアクションは,「チェリー・フォー」のヲタだ。写っているのは,浅岡の写真だった。悪意を感じるほど写りの悪いものを選んでいる。しかも,テロップ付きだ。「浅岡律子(50歳)ミュージシャン」。
「オバハンかい!!」
甲田が叫んだ。これは,素の反応だ。本人には,知らされていなかった。甲田は,不愉快そうにマスクを脱いで,ステージを降りる。
「ご存知の方もいらっしゃると思いますが,浅岡さんは,元々美宙祈さんのアレンジャーだったんです。それから,あの『パンチラMV』の監督でもあります。それで…」
マトリョンが,こっちに視線を送ってきた。俺の隣には,メイリンがいる。衣装は,同じチャイナドレスだ。違うのは,身体にベルトが巻き付いていることだった。ガンマンが使うような革製のものだ。もちろん,銃などはない。代わりに,ペンライトが数本収められていた。マトリョンは,軽くうなずくと,フロアに向き直る。
アピールタイムは終わったようだ。マトリョンは,ドSキャラ全開でやり遂げた。
『あなたたちの攻撃は,完全に見切っています。』
少し気の毒になった。「病院坂」の若者たちは,どんな顔で観ているのだろう。とりあえず近くには,姿が見えない。俺は,また操作盤のボタンを押す。するするとスクリーンが巻き上げられていく。俺は,リハで確認した高さで止める。そこには,大きな銅鑼が置かれていた。
マトリョンが,スタンドにマイクを戻す。そのままいつもの直立姿勢になった。それを合図に,音が流れ出す。二胡の音をサンプリングした電子音だ。奏でるのは,どこか懐かしいような中華風のフレーズ。悠久の大地を思わせるゆったりとした響きだ。
イントロ最後の音がフェードアウトを始めた。メイリンが,俺の脇をすり抜ける。片手で側転しながら,跳び出して行った。もう片手には,棒状のものが握られている。先が太く,布が巻きつけてあった。
メイリンは,ステージ中央でぴたりと止まる。すぐ後ろには銅鑼があった。フロアに一礼すると,メイリンは,手にしたバチを構えた。そのまま,力いっぱい―に見える演技で―銅鑼を叩いた。金属的な音が空気を震わせる。「チェリー・フォー」が上げた歓声をかき消すように。
『角脇さん,これ東南アジアのものです。』
前の晩,マトリョンが言った。レンタルの銅鑼とスマホの画面を見比べながら。メイリンが,加勢するように補足した。
『中国ノ銅鑼ニハ,中央ノ突起ガアリマセン。』
スマホに表示された説明を読んだ。確かにその通りらしい。が,特に問題ない。見た目も,音も,だいたいイメージした通りだった。気づくと,銅鑼の音が消えかかっている。マトリョンが,マイクに口を寄せた。
「聴いてください。新曲です。『おいで東風』。」
俺は,スタッフに合図を出した。スピーカーから大音量で,音が溢れ出す。イントロと同じ中国を想起させるフレーズだ。だが,今度は,軽快なリズムに乗っている。
中学の頃,洋楽を聴くようになった。それから,イギリスのバンドを中心に聴き漁った。当時,好きなバンドのアルバムに,一風変わった曲があった。中国の地名をタイトルにしたインスト曲だ。説明を求められたら,100人中100人が,中国という言葉を使う。そんなフレーズで構成されていた。
少し前に浅岡と話したとき,なぜかその曲の話になった。浅岡は,いつもの軽い調子で言い出した。
『ずっとああいう曲をやってみたかったんだよね。メイリンちゃん,中国人だし,ちょうどいいんじゃない?』
確かに悪いアイディアじゃない。きっちりハマっている。定番の高速コサックダンスを始めたメイリンを見て,そう思った。
俺は,また操作盤に指を走らせる。スクリーンが降りて,銅鑼が姿を消す。それを見て,スタッフが照明を落とした。スクリーンに,台湾の街並みが映し出される。九份のものだ。
必ずというほど旅行のパンフレットに写真が載っている。だから,誰でも見覚えのある風景だろう。
メイリンが,立ち上がって,ペンライトを手に取る。スイッチが入った。オレンジの光が,高速で移動し始める。ヲタ芸というヤツだ。最近では,サイリウムダンスとも呼ばれるらしい。俺は,壁のモニターに視線を移した。ステージを正面から撮っている画像だ。メイリンは,左右に移動しながら踊っていた。2本のライトが,複雑な模様を描き続ける。闇のなかで,残像と新しい線が重なる。ダンスは,徐々に難易度を上げていく。時折フロアで,ざわめきが起こっている。
突然,うごめく光が,赤くなった。同時に,スクリーンで,九份が夜の姿に変わる。ライトの色は,名物の赤ちょうちんに合わせた演出だった。使っている写真は,俺が撮ったものだ。もう20年以上前になるだろう。昼過ぎに現地に着いた俺は,ずいぶん歩き回った。暗くなるのを待つためだ。夕暮れ時に,知らない土地を散策するのは好きだ。心細いような,それでいて心躍るような不思議な感覚。それを味わうために,細い路地を見つけては,入り込んでみる。
台湾は何度も旅行している。PCのフォルダを開くと,写真もずいぶんな数になっていた。だから,予想以上に選ぶのに苦労した。それにしても…
中国人の留学生。チャイニーズテクノとでもいうべき曲調。そこに,ウクライナのコサックダンス。それに,東南アジアの打楽器と台湾の写真。設定の甘さについては,病院坂のことは言えない。なんだか笑えてきた。チープさがそれなりに味になる。きっと同じ発想だ。
曲は,中間部に差しかかっている。音は,基本的に同じフレーズの繰り返し。音色やテンポを変えるだけで進む。
『まさかのインスト?』
そう思い始めている客もいるだろう。最近では,アイドルのアルバムにインスト曲が入ることもある。だが,たいていは,オーバーチュア。出囃子のようなものだ。
せわしなく位置を変えていたペンライトが止まった。ほぼ同時に明かりが点く。メイリンも,ダンスを止め,直立不動になっていた。
『何度目の春だろう/風のなか私はひとり/急ぎ始めた季節に/また取り残される』
マトリョンの唇が動いた。メロディーでも,ラップでもない。ポエトリーリーディングというのか。自作の詩を暗唱し始めた。
スクリーンは,別の街を映している。複雑な多角形の屋根。それをバックに桜が咲いている。旅をしたのは,まだ1月だったと思う。台湾の春は早い。聞いてはいたが,日本とのギャップに驚いたのを覚えている。
『舞い散る花びら見送った/かける言葉もなく/手を伸ばすこともない』
俺は,下手の袖に視線を送った。瀬田がうなずいて,指を動かす。巨大な扇風機が勢いよく風を吐き出した。同時に,色とりどりの光が,舞台に降り注ぐ。地明かりのみ,から一転。サスライトがフル稼働し始めた。メイリンが,コサックダンスを再開する。団子に結っていた髪がほどけて,風になびいている。
モニターを見た。粗い画像では,マトリョンの表情はわからない。息を混ぜた発声で,言葉を紡ぎ続けている。リハーサルを思い出す。マトリョンは,左右に目線を動かしただけだ。それでも,風に流される花びらが見えた気がした。
もう一度,瀬田に合図を送る。今度は,レーザーが照射された。それをかい潜るように,メイリンが連続でバック転を決めた。「チェリー・フォー」がすべきことは,もうなかった。フロアは,勝手に盛り上がっている。
『必要なら,使っていいよ。置いてあるだけだから。』
部屋に行ったとき,浅岡が言った。扇風機とレーザーのことだ。録音機材やスピーカーに交じって,ほこりをかぶっていた。美宙祈の初代マネージャーものらしい。ということは,去年の「アイドル異種格闘技」で使われたものだ。失踪した後,突然段ボールで届いたという。
『かざした手のひらすり抜けた/間違いも正しさも/すべては風のなかに』
朗読が終わった。音は,まだ止まない。同じフレーズが,形を変えながら,リピートされている。ここ数日聞き続けたせいだろう。鳴り続けるのが自然にさえ感じる。
メイリンが,すくっと立ち上る。ホルダーに収めていたペンライトを手に取った。2本。続けて空中に放る。それから、1本追加。ジャグリングが始まると,会場が拍手で包まれた。そして,また1本。ここまで見届けると,俺はスタッフに囁く。
照明が落ちた。赤い光が4つ。同じ距離を保って上下している。その1本が色を変えた。後を追うように,残りも青くなる。と思うと,今度は白。で,オレンジ…
フロアがどよめく。それも無理はない。アイドルヲタクなら,どういう意味かわかる。このタイプのライトは,取手の底のボタンで色を変える。押し間違えると,前の色に戻る。メイリンは,ライトをキャッチする位置まで完璧にコントロールしている。そういうことになる。しかも,暗闇を移動しながら。
光が赤に戻る。セットされた色が一周した。青い光は,最高点の位置がやや低い。俺は,またスタッフに声をかけた。
明かりが点く。メイリンの姿が,会場の反応を二分した。声を上げる者。声を失ったように黙る者。メイリンは,コサックダンスしている。ジャグリングを続けながら。当然だが,涼しい顔で,動きも軽快そのものだ。自然発生的に手拍子が起こった。それが,徐々に広まっていく。俺は,勝利を確信した。だが…
メイリンの脚が,必要以上に跳ね上がった。まただ。目の前の光景が,スローモーションに切り替わる。そのまま,バランスを崩して,後方に…
ほんの一瞬のことだった。すぐに,メイリンの顔が見えた。ライトを床ギリギリでキャッチした。色も変わっている。ネックスプリング?の要領で体勢を立て直した。そうわかると同時に,爆発的な歓声が上がった。
『修正プログラムだって完璧です。』
五十嵐のドヤ顔が見えた気がする。いや。盛り上げるために,わざとバグを仕込んだ。そんな気さえする。マトリョンを見た。正面に視線を戻すところだった。安心したような笑みがもれている。「演出」ではないようだ。
スクリーンには,また別の街。それも,すぐ違う写真に変わる。切り替えの間隔が短くなっている。メイリンのダンスの速度にシンクロさせてあった。
九份と桜の中正紀念堂。それ以外は,すべて撮影順に並べた。フォルダから古い順に引っ張り出しただけだ。そのせいだろう。次々と様々な感情が蘇ってくる。淑華を探すのに必死だった初期。諦めてかけて,虚しさを抱えていた時期。それから,旅行として楽しめるようになってから。
いくつもの記憶の断片。それをバックに,メイリンが踊っている。不思議。それ以外の言葉が思いつかない。写真を撮るとき,俺はファインダーのなかに淑華を見ていた。いつでも景色と淑華を重ねていた。だが,今は「脳内変換」の必要はない。こんな日が来るとは,想像もできなかった。
あと数十秒。曲が終わるまでもうすべきことはない。この奇妙な感覚に身を任せよう。俺は,そう決めた。




