怠惰の罰として重すぎる量刑。
彼がモーニングに来るのには、 きちんとした大義名分がある。
日曜の朝に配布される求人誌。 最新のそれを見に、彼は来る。
自身の転職先を見てはいない。 「殿」の転職先を探している。
殿の下知で求人誌を渉猟する。 自身の転職に繋がると信じて。
殿というのは派遣先の指揮官。 殿はそこの社員で、彼は派遣。
正社員が安泰などというのは、 悪質なプロパガンダであろう。
ホワイトな会社のほうが稀少。 会社運がなければ悲惨である。
彼は会社運のない二十余年を、 無為無惨に送りつづけている。
入る会社入る会社ブラックで、 つくづく厭になっているのだ。
学生時代に努力を怠った結果。 それは重々、承知してはいる。
怠惰の罰として地獄は厳しい。 量刑がおかしすぎはしないか。
元不良で人を傷つけた人間が、 堅気になって持ちあげられる。
万引きもしたことのない彼が、 生き地獄にいるという理不尽。
努力は怠ったかもしれないが、 まじめに生きてきたつもりだ。
どうしてこんな目に遭うのか。 彼は心身ともに追いこまれる。
状況こそ最悪であるけれども、 現職よりもひどい職場を経た。
前職は安月給で生活が保てず、 前々職は真性のブラック会社。
それらにくらべればまだまし、 土日祝完全週休二日制である。
おおむね求人票どおりである。 順序が逆なら目もあてられぬ。
会社運がないからこそ慎重に、 慎重に転職してきたのである。
殿に見こまれてしまったのが、 彼のそもそもの失態であった。
そう望んだわけではなかった。 半端な有能さが命取りとなる。
無能なふりをできるくらいに、 彼は器用さを具えてなかった。
なぜ彼は、「殿」と呼ぶのか。 殿が別次元の傑物であるから。
戦国時代に産まれていたなら、 きっと天下人になっただろう。
現代を生きる彼のまえにいる、 形而下の歴史ヒーローである。
国のためになる職にあったら、 きっと国のためになっていた。
そのことが惜しまれてならぬ。 ちんけな倉庫では惜しまれる。
殿の能力に比肩する者はない。 殿がいないと機能していない。
悪魔的な発想力と機転と智謀。 尋常ではない仕事とプロ意識。
ふざけて殿と呼ぶわけでない。 彼は心から殿を尊敬している。
だが殿の遠くにありたいのだ。 完璧な人間は存在しないのだ。
通説で語られている織田信長、 籤引将軍足利義教めいた癇癖。
殿は気性の荒い喧嘩師である。 それに彼は辟易しているのだ。
とんでもない人に見こまれた。 それで辞めさせてもらえない。
まったく理不尽きわまりない。 殿に道理も法律も通用しない。
彼の履歴について触れておく。 殿とであうまえの、彼の話だ。
彼はもともと倉庫員ではない。 前職前々職はトラック運転手。
前々職の引越屋を一年半ほど。 前職の路線便を七年半勤めた。
前々職は深刻なブラック会社。 求人と業務内容に差異がある。
俯瞰すれば彼の資産となった。 地図読みで方向痴を克服した。
一生無縁であったはずの世界、 引越業界を知ったのは大きい。
そこから路線に転職したとき、 天国のような職場だと思えた。
隔週で土日に二連休が取れた。 もちろん祝祭日も休みだった。
週一の平日休み、連休はなし。 年間休日六十日、残業代ゼロ。
あの詐欺まがいの引越屋とは、 なにもかもが大ちがいだった。
企業をまわって荷物を集めて、 一車に積みあわせるのが路線。
状況さえ変わらなければ彼は、 そこに骨を埋めていたはずだ。
支店長と社長が変わったため、 彼は辞めざるを得なくなった。
運転手から現場事務員を経て、 落度なく運転手にもどされる。
時差出勤で手取りが大幅減少。 事故のリスクに値しない待遇。
運転手にもどりたくなかった。 現場事務員でいたかったのだ。
事務のほうは作業でしかない。 彼の処理能力は誰よりも高い。
彼ひとりが捌く伝票量は本来、 ふたりがかりでこなすものだ。
彼がやりがいをおぼえたのは、 現場での積みこみ作業である。
運転手らが集めてきた荷物を、 トレーラーに積んでゆくのだ。
「積み師」であることに彼は、 存在意義さえ見いだしていた。
形状も材質も重量も多種多様、 この荷らを立体主義に収める。
じつに職人的で芸術的な仕事。 これこそ天職だと彼は思った。
ひとりで積むのが生きがいで、 みんなで積むのはただの作業。
他人が入れば美意識に反する。 積む時間を得るための事務員。
積みの片手間に事務をこなす。 積み師の日々は充実していた。
運転手にもどされてしまって、 彼は充足した日々を喪失した。
せめて積み師でいられたなら、 安月給にも堪えつづけられた。
土日祝完全週休二日制の求人。 それが担保されればよかった。
派遣だろうと正社員だろうと、 健康で文化的な生活があれば。
倉庫業のイロハを殿に教わる。 ずぶの素人はプロへ成長する。
出庫まで計算された入庫格納。 一万二万の入出庫を捌く計算。
やりかたを一から五まで学ぶ。 六以降は体得できないと看取。
殿は彼ら凡人とは格がちがう。 しょせん彼も凡人にすぎない。
彼のキャパシティを超過する、 殿からのオーダーにこたえる。
そう望んだわけではないのだ。 メンタルヘルスは壊滅的状況。
毎日のように殿に怒鳴られる。 形而下のパワーハラスメント。
凡人にとってはほんの些事で、 くりかえされるアウトレイジ。
オーダーミスが命取りとなる。 殿の意識についていかれない。
「おめえの努力が足らねえ」。 そのとおりだと彼は自覚する。
殿の境地に行けるはずがない。 到達したいとも思っていない。
たかだか仕事でしかないのだ。 命を削ってまでやりたくない。
傑物の次元にあわせるために、 彼は成長せざるを得なかった。
まわりがみな、無能に見える。 綺羅星のごとく無能者ばかり。
彼の憎悪は無能者たちに向く。 「なぜ、おれなのだろうか」。
派遣にすぎない彼がどうして、 高次の仕事をやらされるのか。
彼に代わる人材がいないから、 殿にえらばれてしまったのだ。
麾下にばかりつらくあたる殿。 麾下にない無能者にはあまい。
無能者たちがのうのうとして、 麾下の彼らだけがノイローゼ。
殿の激しさについていかれず、 何人もの人間が辞めていった。
彼より有能な人間がいたころ、 いまよりもすごしやすかった。
彼だけがのこされてしまった。 殿が辞めさせてくれないのだ。
逃げられなくなる脅迫と威圧。 雁字搦めの日々を堪えている。
こんなに無能な上層部もない。 職を転々とした彼にはわかる。
大東亜戦争の敗戦理由と同じ。 占領しないのにハワイを奇襲。
あさっての方向を指した戦略。 つまり、行きあたりばったり。
現場の指揮官兵隊が有能すぎ、 戦術で戦略を引っくりかえす。
あの戦争を戦った英霊たちと、 彼の気持ちは完全に同期する。
無能な連中の無為無策ゆえに、 おれは死ななければならない。
桁ちがいな大将のオーダーを、 こなさなければ生きられない。
戦略さえしっかりしていれば、 死ぬような思いもせずに済む。
事務所がバカでさえなければ、 殿の段どりで早く帰宅できる。
事務所も現場も素人がそろう。 半端な有能さが彼を苦しめる。
せめて殿以上に優秀であれば、 殿に逆らうこともできるのだ。
もしもそうなれていたのなら、 こんな稼業に手を染めてない。
すべてにおいて中途半端な彼。 いっそ無能であれば楽だった。
見こまれてしまうこともない。 のうのうと無能にすごせれば。
承認されようと躍起になった。 それがすべての原因であった。
殿から逃れようと転職を企む。 水面下での工作を進めている。
カウンターインテリジェンス。 殿に知られたら命取りである。
「おれの転職さき探しとけ」。 ある日、殿からそう言われる。
上の無能に愛想が尽きたのだ。 朝のファミレスがよいをする。
日曜日の朝に求人誌をめくる。 彼にとってそれは苦ではない。
闇に差した一筋の、儚い光明。 祈るような気持ちの就職活動。
「おれが辞めてから辞めろ」。 自分のためでない自分のため。
よさような求人を見つけては、 切りぬいて殿に差しだす日々。
それらはしかし、ゴミと化す。 殿が山のように動きやしない。
これはという求人を出しても、 あれこれ言って行きやしない。
そのくりかえしを一年あまり。 「辞める気ないな、これは」。
ようやくそのことに気づいた。 まじめに探すだけばからしい。
求人のチェックをしなくなる。 「ぜんぜんなかったですね」。
そう言っておけばいいだけだ。 どうせ結果は同じなのだから。
彼はずっと誘いを受けている。 前職で一緒だった人の誘いだ。
殿には秘密の工作をつづける。 「辞めさせてくれないんす」。
固持しつつ繋ぎとめている糸。 「バックレるしかないです」。
事実がそうだから救われない。 出口の見えない絶望のなかに。
明確なパワーハラスメントを、 どうにかこうにかやりすごす。
派遣なのだから逃げてもいい。 けれど殿に道理は通用しない。
誘われるまえに何度も何度も、 彼は以下の暴言を浴びてきた。
「あしたから来なくていい」。 「いますぐ辞めるか決めろ」。
おそらくは本気ではない言葉。 ミスにたいしての過度な懲戒。
「すいません、すいません」。 そう謝りたおすしかなかった。
怒りが収まるのをやりすごす。 くりかえされる重いストレス。
生活があるから辞められない。 状況の変化が彼を強気にする。
むしろいまはその暴言を待つ。 言質を取れれば堂々と辞める。
そう言ってもらえると助かる。 「辞めます」とひらきなおる。
殿は彼の魂胆を見ぬいている。 「辞めろ」と言ってくれない。
薄々となにかを看取している。 それを重々承知して彼は動く。
かすかな光明にすがりながら、 半ばの絶望をかかえて生きる。
ちがう派遣会社の戦友がいる。 ちがう会社で同じセクション。
荷主の撤退に伴う会社の撤収。 ほんとうは彼が辞めたかった。
職業選択の自由を行使できず、 誘いに応じることができない。
年若い戦友を身代わりにする。 斡旋して心証をよくしておく。
「お友達内閣をつくりたい」。 戦友を先行させて状況を探る。
戦友は彼の申し出を承諾する。 派遣会社を辞めてくれたのだ。
定年までいれば退職金二千万。 福利厚生がしっかりしている。
彼がそこへ行くための布石だ。 いざというときに繋がるため。
この工作は殿には秘密である。 「誰にも言うな」と念を押す。
ばれればすべてが水泡に帰す。 戦友とは裏で連絡を取りあう。
利他で利己、利害は一致する。 戦友を見送って彼はのこった。
「撤退したら辞めてもいい」。 殿からそう言われていたのに。
「余計なことは考えるなよ」。 殿の言は、あっさりと翻った。
それから地獄の日々がつづく。 のこるメリットなどないのだ。
ただ毎日を怒鳴られつづけて、 ただただ追いこまれるだけだ。
彼は状況の変化を望んでいる。 雌伏は一年以上に及んでいた。
彼が望んだ状況は訪れたのだ。 彼の会社が倒産してしまった。
「うちが駄目になったら」と、 転籍の意志がないことを表明。
殿には最初から宣言していた。 転籍の誘いを固辞しつづけた。
給料が振込まれていないのだ。 けれど彼はそれをよろこんだ。
辞めるための大義名分となる。 これこそ夢にみた状況だった。
「おいでよ」と誘われている。 「会社潰れたんで行けます」。
一年ごしの誘いに応じられる。 また一緒に働くことができる。
お友達内閣が現実となるのだ。 ようやく辞めさせてもらえる。
ぎりぎりのところで結実する。 工作をつづけた甲斐があった。
その状況すら一筋縄ではない。 「のこれ」と殿から言われる。
「繋ぎでいいからのこれ」と。 そんな甘言に乗る彼ではない。
ここで辞めなければずるずる、 繋ぎとめられて逃げられない。
このタイミングしかなかった。 辞める意志を明確にしたのだ。
「話がちげえじゃねえか」と、 胸倉を掴まれて屈しなかった。
「話がちがう」とは彼の台詞。 筋を曲げているのは殿のほう。
絞めあげられる気管から搾る。 「最初から言ってましたよ」。
「そうだな、しょうがねえ」。 緩む拘束とやさしいあきらめ。
こうして彼の未来はひらけた。 びくびくする日々からの解放。
崩壊しつつあった精神の恢復。 数年ぶりに味わう生きた心地。
終わりが見えて、始められる。 晴ればれしい、せいせいする。
「おれも辞める」と殿が言う。 初め彼はそれを信じなかった。
これまで何度も転職を勧めた。 それらをすべて黙殺してきた。
実りのなかった表向きの工作。 動かざること山の如しだった。
それが転職サイトに登録する。 その疾きこと風の如しだった。
すぐに見あった求人を見つけ、 さっさと内定を得たのである。
彼が辞めることで殿も辞める。 彼にはそれが残念でならない。
のこる者たちは地獄を知らず、 のうのうとすごしてゆくのだ。
彼の地獄を味あわせたかった。 それだけが心のこりではある。
あっさりと決めてしまうなら、 もっと早くそうしてくれたら。
なぜ彼の事情にあわせるのか。 ありがたくもないただの迷惑。
筋をとおすことのばからしさ。 あとくされはのこってしまう。
給料二ヶ月がまるまる未払い。 なんのために働いていたのか。
あの地獄はなんであったのか。 悔しさに涙が止まらなくなる。
「逃げも隠れもしません」と、 たわけ抜かした社長は雲隠れ。
労働基準監督署から沙汰なし。 やる気がまるで感じられない。
立派な労働詐欺であるわけだ。 刑事事件にならない不可思議。
肉体と時間を不当に奪われた。 冤罪捏造犯も罪に問われない。
世のなかはまったくおかしい。 腐っている、腐りきっている。
殿が辞めさせてくれたのなら、 こういうことにはなってない。
バックレてしまえばよかった。 会社のほうがバックレたのだ。
「週一で連絡よこせ」と云々。 殿に言われていたが無視した。
殿からも着信はないのだから。 きっと、負い目に感じている。
感じていてほしいと彼は思う。 そうしてそのまま縁が切れる。
縁切りされないのだけは勘弁。 ヤクザとの手切れ金と捉える。
ずっと負い目に感じてほしい。 その軛が彼の安寧となるのだ。