2-3 少しだけ進んだ二人
下校中の生徒が弛緩した空気を醸し出す中、野球部のメンバーは気合十分と言ったムードで並んでいる。合図とともに全員が一斉に走りだす。俺はみんなの少し後方から追走する形を取った。
「新生野球部でーるぞ!」
「「「「新生野球部でーるぞ!」」」」」
どこかで聞いたような歌の謎の替え歌が始まった。
「絶対目指すぞこーしえん!」
「「「「絶対目指すぞこーしえん!」」」」
「のめり込める!」
「「「「のめり込める!」」」」
「父ちゃんだけには内緒だぞ!」
「「「「父ちゃんだけには内緒だぞ!」」」」
教えてやれよ、父ちゃん…………・。
私立阪南学院を冠する敷地を取り囲む外壁にそって走る。
俺をぶっちぎってやると豪語していた由比は、思ったより緩いペースだった。それは向日葵ちゃんを慮ってのことであることはすぐに理解できた。なんだかんだ言っても、この娘はキャプテンなのだ。
国道に面す表通りを曲がり、緑豊かな並木道を抜け公園に入る。その向かいに出ると、住宅街になる。左手に校舎裏を捉えながら、さらに進むと、最後の難所、心臓破りの坂道である。
「はっ、はっ、はっ……」
向日葵ちゃんが息を弾ませている。
「大丈夫?」
「……うん。まだへいき………………!」
しっかりと前を見据えながら向日葵ちゃんが言った。
他のメンバーたちも声を掛けようとしていたが、それを聞いて心を配ることは野暮と察したのだろう。黙々と坂道と格闘を続けている。
無事に坂を登り切り、その先の角を左折すると、出発点の校門はすぐそこだ。
向日葵ちゃんを除けば、まだみんな余裕がある。
このまま二周目に突入だ。
二周目の途中、最後の坂道を目前にして、向日葵ちゃんが限界を迎えた。
必死に首を振りながら、懸命に足を前に出している。顔には玉の汗が浮かび、愛らしい顔がとても苦しそうにしている。その足がついに止まった。下を向いたまま大きく肩を上下している。アスファルトに汗のしずくが落ちた。
「ひまっ! 大丈夫!?」
由比を筆頭に他の仲間も足を止め、駆け寄ってくる。
「はぁ……はぁ……由比…………」
息も絶え絶えに、小柄な少女が声を出す。小鳥のさえずりのような小さな声だった。
「ひま。あたしとまほろが肩を貸すから。まほろ」
「ああ! 向日葵。ここさえ超えたらもう校門だぞ」
「……ゆい……まほろ………………」
両脇を支えるために向日葵ちゃんの傍に近づく二人に、俺は待ったをかける。
「ちょっと待て。その必要はない」
「え」
「か、監督……?」
「莉乃とミカヤもだ。よく聞け。このまま走り続けるんだ」
俺の指示に対し、四人が反応を失った。向日葵ちゃんの荒い呼吸だけが辺りに響く。
「ちょっ、ちょっとそれ、どういう意味よっ!」
案の定、真っ先に噛み付いたのは由比だった。
「ひまを置いてけって言うの? あたし嫌よ、そんなの! 五人で仲間なの! あたしたちは」
「甘えるな!」
「…………っ!」
「今、この娘の世話を焼くのが思いやりか? 違う。そんなのはこの娘のためにならないんだ。そして君たちのためにもならないだろう。生易しい甘やかしで共倒れするのが友情か。違う。それはただの馴れ合いだ」
由比がうつむく。そんな仲間思いの彼女に向かって、俺は心を鬼にして続ける。
「由比。もっと言わせてもらう。君がやろうとしていたことは、それはおせっかいといい、余計なお世話という」
「か、監督! それは言い過ぎです! 由比は本当に向日葵のことを思って」
「それはわかってるよ、まほろ。でも本当に向日葵ちゃんのことを思うなら、この娘の頑張りを無駄にするようなことはしないであげるべきだ。運動慣れしてない向日葵ちゃんがここまで付いてきたのは、みんなに迷惑を掛けたくないからじゃないのか。はっきり言って一周半と言えど、普通の中学生にはキツイ道のりだぞ。今ここで、君たちが自分たちの練習を顧みず、手を貸したら、そんな向日葵ちゃんの努力と想いに水を指すことになる。それを察してあげるべきだ」
「……みんな。ごめんなさい。。…………先に行って…………」
途切れ途切れに向日葵ちゃんが言った。
「……由比。監督のおっしゃる方が正しい。向日葵もこう言ってる。先に行こう」
まほろが、まんじりとして動かないキャプテンを促す。
「寂しいけど、僕も先に行くべきだと思うな。センパイの言ってることが正解だよ」
「莉乃に同意。キャプテン。指示を」
莉乃とミカヤも悩める由比の判断を待った。やがて由比が顔を上げた。
「ひまのこと任せてもいいのね?」
その顔にはもう迷いはなかった。
「ああ。こっちは任せろ。その代わり、そっち側は頼んだぜ。キャプテン」
「分かった! ひまっ。あたしたち先行ってる。二人きりで心配だけど、変なことされそうになったら大声出すのよ!」
おいおい。どういう意味だ。一体俺をなんだと思ってるんだ、由比さん。
そんな由比の言葉に対し、向日葵ちゃんは弱々しい笑みを返すだけだった。
「じゃ、みんな、行くわよ! このままもう一周走るわ! ファイト――」
「「「おーーっ!!」」」
掛け声とともにキャプテン率いる一団は坂道を駆け登っていく。
独特のテーマソングを歌うその背中はすぐに見えなくなった。
それを見届けた向日葵ちゃんがしゃがみ込んだ。
「はっ……はっ……はっ………………。おにいちゃん……ありがと……ごめんね」
「気にしちゃダメだ。休みながらでも良いって言ったろ?」
「……ちがうよぉ、みんなの、……こと…………ひまのせいで……みんな、練習できないの…………いやだもん」
「誰もそんなこと気にしてないと思うけどね」
「……うん。でも」
その大きな目から涙が溢れだした。
「みんなと一緒にゴールしたかったよ……」
「だったらゴールしようか」
「……え?」
向日葵ちゃんの目が丸くなった。そんな彼女に俺は背中を見せて屈みこむ。
「これって……? おにいちゃん……いいの?」
俺の意図を理解した向日葵ちゃんがおそるおそる確認を取る。
「もちろん良いよ。ひまわりちゃんさえ嫌じゃなければ」
「嬉しい! えへへ……ありがとう……」
羽のような軽さが背中に掛かる。同時に受ける柔らかな感触。大小二つの鼓動が重なる。こうして俺たちはドッキングした。誤解のないようにしてもらいたい。もちろん、要するにおんぶということだ。
「じゃあ、さっさと追いつこうか」
「うん……えへへ。おにいちゃんの背中おっきいね」
「乗り物酔いにご注意を」
「背中タクシーだあ」
向日葵ちゃんをおぶって、俺は走りだす。目的地まで途中う下車できない、ノンストップだ。坂を疾走し、校門前を駆け抜ける。緑の並木を置き去りにして、人気の無くなった公園を後にする。
「しんかんせんよりはやーい」
めまぐるしく流れる景色に対する反応だろう。
「向日葵ちゃん、しっかりつかまっててね」
「うん」
足の筋肉を閃かせ、俺は走る。やがて、目当ての集団の背中を補足する。キャプテン率いる先頭集団は、ちょうど一周回って心臓破りに挑もうとしているところだった。
「待たせたな」
「えっ!? あっ、あんた何やってんのよ、それ!?」
突如真横に出現した俺たちに対する当然の反応を由比が示した。
「安全運転がモットー、清原タクシーだ」
「えへへ」
全員が足を止め、あっけに取られた顔をした。あのミカヤですらポカンとしている。
「あ、あんた。あそこからここまで、ひま背負って走ってきたの?」
「そうだ」
「い、いや、そうだって……。それで、あたしたちに追いついたっていうの?」
「うむ」
「えへへ。おにいちゃんはやいよ?」
密着した向日葵ちゃんの吐息が耳にかかってくすぐったい。
「か、監督。いくら向日葵が小柄で軽いとはいえ、人ひとりを背負って一周近く、それも相当な速度で走り続けたということですか?」
「ああ。さすがに少ししんどいけどね」
「えー! しんどいって息も切れてないじゃないですかぁ。あはは。センパイってターミネーターですかっ」
驚いたようなまほろと莉乃の反応が少し面白い。まるで隠し球でアウトを取られたランナーのように目をパチクリさせている。
それにしてもターミネーターか。ここはノリに乗っかってみるとするか。
「「アイルビーバック!」」
おう! 見事に向日葵ちゃんとユニゾンした。二人で仲良くサムズアップだ。ターミネーターといえばこのセリフだろう。っていうか、向日葵ちゃん、こんな古い映画を知ってたんだね。
「ちょっと面白かった」
ミカヤがポツリと漏らした。
「さ、冗談はさておき、ラストスパートだ。行こうみんな」
「なんか余裕すぎてムカツク」
「この程度でバテてちゃ、先発は務まらないんだぜ、由比」
「みなまでいうな! そんなこと分かってる。さっ、ミカヤ、まほろ、莉乃。こんなセクハラおんぶオバケ放っておきましょう」
「ゆい、ちょっと待って。おにいちゃん降りていい?」
「ん。いいよ」
腰を低くしてやると、向日葵ちゃんは片足ずつ地面を確かめるようにゆっくりと降り立った。初めて木から降りるコアラの赤ちゃんみたいで可愛い。
「ひま。最後は自分で行く気? いける?」
「うん。もうちょっとだけ……がんばって、みます」
「よく言ったわ、ひま!」
由比が向日葵ちゃんを抱きしめる。それを合図に他のみんなも小さな身体に殺到。
「あ、ズルイぞ由比!」
「向日葵はー! 僕がー! だっこするー!」
「便乗」
メンバー全員に群がられて、小さい体はあっという間に見えなくなった。もみくちゃにされる彼女の表情は伺い知れないが、きっと天使のようなはにかみを浮かべているんだろうな。女の子同士の友情が繰り広げるまぶしい光景がそこにはあった。
「じゃあ、いくわよ! 新生野球部でーるぞ!」
「「「「新生野球部でーるぞ!」」」」」
やがてお馴染みとなった歌とともに一同は動き出した。
心臓破りを克服し、最後の直線を一列縦隊になって走る。すぐに正門が見えてきた。
「はっ、はっ……」
「ひま! もうちょっとよ! ほら! 新生野球部でーるぞ!」
「はぁっ、はぁっ……」
「ひ、向日葵。もう少しだ。はっ……は……わ、私も頑張るぞ! こーしえん!」
「はっ、はっ……そうだ、そうだー。僕もまほろんもキツイんだー。 はいっ、のめり込める!」
「はぁっ……はぁっ………………」
「ゴールまで、200メートル。この速度でおよそ一分。あと少し。がんばって。……のめり込める」
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁ――――っ」
全員が全員、向日葵ちゃんを、あるいは自分自身を鼓舞しながら、最後の瞬間を求めて走り続ける。流れる汗が夕日に光る。
「とーちゃく!」
先頭の由比が、正門に駆け込む。そして次々とゴール地点になだれ込んでいく野球部員たち。少しだけ離された向日葵ちゃんは足をもつれさせながら、仲間のもとに懸命に向かう。相当苦しそうだ。それでも足は確実に前へ前へ進む。
「よし、来たわよみんな!」
「やった! やったぞ!」
「僕たちの戦友のご帰還だぁっ」
「ミッション終了」
倒れ込みながらゴールする向日葵ちゃんを待ち構えていたみんなが支える。
くじけずに戦い抜いた仲間をそれぞれの言葉でねぎらう姿は感動的だった。
「はぁっ――……はぁっ――……はぁっ、はぁっ、はっ、みんな……ありがとう……ごめんね」
「ごめんはナシ。よく走り切ったわ! すごいわよ。ねえ莉乃?」
「うんうん。僕なんて感動して息切れしちゃってるよ」
「そ、それは走ったからだろう」
「あっはっは。それも一理あるね。そういうまほろは?」
「正直……こたえた。後一周はまずかった……」
まほろが天を仰ぐ。涼やかな顔にも汗が滲んでいる。さすがに肩で息をするほどではないが、相当消耗しているようだった。おどけている莉乃は、それよりも余裕があるらしい。
「ふん。副キャプテンのくせに弱気ね」
由比が弱ってるまほろを挑発した。
「一般的な女子中学生の体力を考えた場合、まほろは優秀と思われる」
ミカヤが正論でかばう。この二人は全く普段と変わらない。異様にタフである。というかミカヤに至っては息を切らせるどころか、汗一つかいていないんだが。
……本当に人間か、この娘。この娘こそ、ターミネーターじゃないのか。あるいはアンドロイドと言われても、今なら信じられそうだ。
ごめんミカヤ。脳内とはいえ、君をディスるようなことを考えてしまった。
それにしても、このランニングコースは過酷なはずだった。アスファルト、土道、でこぼこ、坂道、まんべんなく負荷をかけて足腰を鍛えるために選んだのだ。これを続けていけば、体力は確実に付く。そんなメニューだった。
正直、三周はキツイだろうなと思っていただけに、四人が完走したことは嬉しい誤算だった。そして、向日葵ちゃんに至っては一周すら厳しいだろうなと考えていた。
彼女は実質、二周している。これは立派だと言っていい。
「向日葵ちゃん。よく付いてきたね。本当に頑張った」
お世辞でも、おだてているわけでも決してない。本音としての賛辞が自然と出た。
向日葵ちゃんが振り向く。ゆるいウェーブのツインテールがふわりと流れた。
「はっ……はっ……おにいちゃんの、おかげ」
呼吸は整えながら、向日葵ちゃんが微笑んで見せた。走った後だから、頬が赤い。
「おにいちゃんが、みんなのところに連れて行ってくれた時、うれしかった。もうちょっとだけがんばろうって思えた。だから……おにいちゃんのおかげだよぉ」
いや、そう言われると照れるな。しかも、そんな真っ直ぐな目で。
「ねえ、おにいちゃん」
「ん?」
ふわふわと天使が近づいてくる。
「ひま。また、おにいちゃんに乗りたいな」
「もちろんいいよ」
それくらいお安い御用だ。俺の背中で良ければ、いつでも歓迎である。
「だ、駄目よそんなの! ひまっ! 騙されちゃ駄目だからね!」
由比が目を吊り上げて、向日葵ちゃんを俺から引き剥がした。
「親切ごかして、こんなこと言ってるけど、どうせひまのやわらかくてすべすべした肌が目的なのよ!」
「ひま、べつにかまわないよ?」
「構いなさい! 耳に当たる吐息とか、太ももの感触とかを楽しんでるに違いないわ。乗車料金とか言ってなに要求されるかわかったもんじゃないわよ!」
ひどい言われようである。だが向日葵ちゃんは俺の味方だ。
「おにいちゃんの背中おっきくてあったかいよ? ゆいも乗せてもらえばいいのに」
「ふぇっ!?」
みんなの視線が由比に集まる。本人は顔を真赤にして固まった。
「な、なんであたしがコイツの背中に乗っからないといけないのよ!」
「ゆいだって、走ってるとちゅうでケガするかもしれないもん。そしたら、おにいちゃんの出番」
よくわかってるじゃないか、向日葵ちゃん。緊急時には誰でも搬送するぞ。
「向日葵ちゃんの言うとおりだ。俺は必要とあらば、誰でも乗せるぞ。誰かが途中で体調を崩した時、ケガした時、担架を待ってられない状況もあるからな」
「だ、だからって何で背中なのよっ!」
「いや、別に背中が嫌なら手で抱きかかえてもいいんだが」
「ふぇっ! 手で? ど、どうやってよ?」
由比の手が緩んだ隙に、再び向日葵ちゃんが寄ってきた。可愛い。
「おにいちゃん、ひまで見本みせて?」
「いいよ。おいで」
低い姿勢で腕を広げる俺に、向日葵ちゃんは迷うことなく身を任せた。右手で向日葵ちゃんの細い肩を抱くように、左手はひざ裏に通して抱き上げて完成だ。
「って、それってお姫様抱っこじゃないっ!」
由比が叫んだ。
その残響が収まらない内に他のみんなが口々に由比をはやし立て始める。
「なるほど。背中に乗れないなら、こうして運んでもらうしかなさそうだな、由比」
「ま、まほろ!」
「うんうん。確かに他の誰かが動けなくなったら、頼りになるのはセンパイだけだもんねー。由比も抱っこしてもらって僕たちの安全性を確認してくれたまえ!」
「ちょっ、り、莉乃まで」
「莉乃に同意。由比はキャプテンとして、清原タクシーが有事の際に本当に機能するかチェックするべき」
「ミ、ミカヤ! う、裏切り者――」
「むしろ味方」
「うぅ……」
頼みのバッテリーにまで煽られて、抵抗するすべを失ったエース由比に対し、俺の腕から降りた向日葵ちゃんが、
「はい。交代。ゆいの番だよ?」
それがチェックメイトだった。
「わ、分かったわよ! 抱かれればいいんでしょ! 抱かれれば!」
「抱かれるとは、なんだか卑わいだぞ? 由比」
ちょっと意地悪な笑みを浮かべたまほろに、由比が
「変な想像すんな!」
「ふふ。いつぞやのお返しだ」
一本取ったと言わんばかりで満足そうである。
まるで歴史的大敗しているゲームの敗戦処理を命じられた中継ぎのように全てを諦めた顔で由比がやってくる。その様子はおっかなびっくりともじもじの中間のようで、よほど恥ずかしいと見える。表情も、花の唇を軽く噛みながら目をうるませている。
中一女子に対して、男子の背中に乗ったり、抱きかかえられたりするというのはハードルが高かったかもしれない。でも、これも指導者としてみんなの健康と安全を考えてのことだ。ミカヤの言うとおり、激しい練習において万一の有事が起こらないとは限らない。そうした時に、迅速に対応し、必要とあらば保健室へ急行せねばならないのだ。そうしなければ、最悪取り返しの付かない後遺症に発展する可能性があることを、俺は数多のケースから聞き、あるいは見知っていた。
だからこそ、いざという時に怪我人を運べる人間が必要なのだ。清原タクシーは言ってしまえば、その予行演習である。
「……変なとこ触ったら……許さないから」
上目遣いに牽制しながらも、由比が腕の中に収まる。そんな由比を、そのまま優しく抱き上げる。想像よりも軽い。肩や腰も、あんな豪速球を投げていた人物とは思えないほど、華奢に感じた。俺の顔のすぐ近くには、少女の顔があった。幼くも大人びた面持ちの由比が、視線を寄せては、目があった瞬間にそらすということを繰り返しているので、二人の視線は交わらない。
その微妙な距離感こそ、彼女の張る心の壁なのかもしれない。
これから少しずつ、その壁を除いていって、いつか信頼してもらえる監督になれたらいいなと思った。
そんな風に感じたのも、たぶんミカヤに聞かされた、あの話のせいだ。
苦しい現実に直面しても夢を諦めない、由比の真っ直ぐな姿勢に、かつての自分を重ねたのかもしれない。由比が本気でプロを目指すというのなら、俺はそのための力添えを惜しむつもりはないだろう。
「由比。聞いてくれ」
「な、なに……?」
「俺はまだ、君と同じ学生だ」
「う、うん」
「それでも、こと野球に関しては君より一日の長がある。頼りないかもしれないが、監督として今は信じてくれないか?」
由比の瞳が俺を映す。二人の視線がついに重なった。
「……そうね」
それは出会って初めて聞く穏やかな声だった。
「このままあたしをグラウンドまで運べたら、監督代理くらいは認定してあげるわ」
いたずらな笑みを浮かべて由比が言う。それは素直じゃない彼女なりの意思表示だと感じた。いずれにせよ。
二人の関係が進んだ瞬間だった。