2-2 もうこの世界にいない人。
「準備体操とストレッチをしたらランニングだ」
絶賛、柔軟中の少女たちに向けて告げると、地面に座っていた五人は不平一つ言わずに立ち上がってくれた。
ランニングなんて嫌がるだろうなと予想していただけに意外だった。
「ねーセンパイ! グラウンド走るんですかー? 何周ー?」
「いや、校門の外に出ようと思ってる。もちろん俺も一緒に走るぞ」
莉乃の質問に答えると、副キャプテンのまほろが尋ねてきた。
「監督。学校周りを走るとなると、かなりの距離になります。何周しますか?」
「そうだな。みんなの持久力に合わせたいから、走りながら様子を見る。いいか?」
確認を求めると、おしりの砂を払っていた由比が言った。
「へえ。すごい自信じゃない。言っとくけどあたしら結構、長距離は得意なのよ? あたしたちのペースに合わせて、あんたが先にバテたりして」
桑田と会って依頼、少しピリピリしているようだ。
「その意気だ、由比。期待してるぜ」
「ふん。絶対にぶっちぎってやる」
「そうはさせない。一応保護者だからな。俺の目の届く範囲にいてもらう」
そこで急に俺の袖口が引っ張られた。このか細い力加減は向日葵ちゃんである。
少し大きめのユニフォームに着られている様子が愛くるしい。
「おにいちゃん。ひま、マラソンあんまり走れないよぉ」
「ん。大丈夫。いけるところまで一緒に行こう。俺がついてるから安心していいよ」
上目遣いの目を潤ませる向日葵ちゃんを励ましてから、一同は校門へ向かった。
その途中、またしても袖が引かれた。
だが、今度は向日葵ちゃんではなくミカヤだった。ミカヤは歩調をゆるめ、集団の最後尾に誘導してくる。何やら他の人に――特にメンバーを引き連れて先頭をズンズン進むキャプテンには聞かれたくない類の話らしい。
「由比に何があったか知ってる?」
淡々とした口調で聞いてきた。その口ぶりから由比が少し苛ついているのを確信してることが窺えた。だが、ミカヤにはこうした人の心の機微を見通しているような雰囲気があったので、質問に質問で返すような手間は要らなかった。
「たぶん、原因は桑田ってやつだ」
「桑田? 桑田圭祐?」
「そうだ。知ってるか?」
「知ってる。同じクラス。桑田圭祐、十二歳。身長一七五センチ。体重六三キロ。私立阪南学院中等部一年三組、出席番号七番。野球部所属。この春、入部から一ヶ月でレギュラーを獲得した上、三年生が抜けたこの秋からは、エースナンバーと四番の打順を任された人物。右投げ左打ち。キザで線が細いのが難点だが、清原二世として注目を浴びている。校内にファンクラブ有」
「ファンクラブ……そんなものまであるのか」
「ある。でもあなたのものよりは規模は小さい」
「ははは……いろいろ知ってるんだね」
「選手データの保守は捕手の役目。情報は重要」
頭脳派の正捕手は淡々と言った。
「なるほど。その様子じゃ俺のこともよく知ってそうだ」
「知ってる。清原秀喜、十五歳、身長一八五センチ。体重七五キロ。私立阪南学院高等部一年十二組、特別進学コース在籍、出席番号六番。野球部所属。この夏、高等部野球部を甲子園へ導き、全国制覇を成し遂げた英雄。MAX一五五キロの速球と、キレのある変化球に抜群のコントロール、無尽蔵のスタミナを備えた高校球史屈指の大球児。野手としても走・攻・守、全てが突出した天才。その圧倒的なポテンシャルから千年に一人の神童と評され、すでにNPBはおろかメジャー球団が目を付けている程。右投げ左打ち。タイガースファン。学業成績はトップクラス。高等部美男子ランキング上位につき、野球、一般問わない層が母体のファンクラブ有。そして――」
立て板に水のごとく流れ出た俺の情報が一旦止まった。一拍置き、ミカヤが続ける。
「――現在は野球部を休部して、わたしたちの監督をしている。休部の理由は定かではないが一説によれば、体を壊してリハビリ中であるとか、何かの原因でイップスになったとか、その背景には様々な憶測、推測が飛び交っており、真偽の程は不明――」
真っ直ぐな目と真っ直ぐな言葉でミカヤが聞いてくる。
「――真相は?」
黒い瞳に俺の姿が映り込んでいる。
「……君たちの監督をするためだよ」
「分かった。このことは追求しないことにする。ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。俺こそはぐらかしてごめん。言いたくないんだ。今は、まだ」
「そう。わたしは別に構わない。わたしは、あなたが来てくれただけで満足だから」
呟いてミカヤは視線を前に移した。莉乃に肩車された向日葵ちゃん。ポニーテールを軽やかに揺らして歩くまほろ。そして先頭を突き進む由比がいる。
「話を戻す」
ミカヤが言った。
「桑田圭祐となにがあったの?」
「ん。由比と二人で話してる時に、桑田が話しかけてきたんだ」
「……二人で? …………最初、桑田圭祐が現れる前の由比の様子は?」
「普通……いや、顔が赤くてソワソワしてたが、別にピリピリしてなかったと思う」
「それで?」
「顔が赤いから熱かって聞いたらさ。由比が見るな! とか言って、俺の胸に顔を押し付けて腹パンしてきたんだよ。こう、ドスドス! って感じでさ」
「ほう。興味深い」
今の話のどこかがミカヤの琴線に触れたのだろうか。目がキラリと光った。
「概ね把握した。客観的にふざけ合ってるような状況で、彼が来た、ということ?」
「まあ、たぶんそれで合ってると思うよ。あの桑田って子は俺と由比が仲良さそうにしてたのが、気に入らなかったんじゃないか?」
「桑田圭祐は由比に対して恋愛感情を抱いている」
「はは。やっぱり」
最初、登場した時の少年の不敵な笑みを思い出す。その下には押し殺した嫉妬と虚勢を隠していたのだろう。プライドが高そうだったからな。
「そのこと由比は知ってるのかな?」
「無論知ってる。でも由比は相手に対して期待させないように、興味のない相手からの恋愛感情は一刀両断にすることにしている。はっきりとした態度で意思表示をする。それが由比の思いやりであり、優しさ」
「ふむ」
確かにそれは思いやりであり、優しさかもしれない。あやふやな態度で誤魔化したり、わざと思わせぶりな態度を取って弄んだりするより、よほど好感が持てる。由比は由比なりに相手の想いに対して、真正面から真摯にぶつかっているに違いない。
その誠実な向き合い方に、少女の大人な一面を垣間見せられた気がした。
「じゃあ桑田は由比に、はっきりとフラれているわけだ」
「そう。春から十二回告白して、悪口雑言罵詈讒謗の集中砲火を浴びた。それでも本人はくじけない。意外と根性がある」
「そっか。そこまで断られてるのに諦めないんだな」
「向こうは由比が照れ隠しで素直になっていないだけど誤解している」
「ずいぶんと楽天的な」
良いメンタルしてるぜ桑田…………。
「由比は確かに桑田圭祐には恋愛感情はない。でも、彼の言い分は一部あたっている節がある」
「ほう?」
「由比は恋愛感情のない相手には正しく振る舞える。でも、本当に好きな人に対しては、それができない。つまり、素直になれない」
「ああ…………」
「そして、それが桑田圭祐が増長している原因でもあり、彼が振られ続けている理由でもある」
「それは…………」
俺の思考が形に至る前に、ミカヤが言った。
「ところで、桑田圭祐が由比に何を言ったか教えてほしい」
「ん。それはだな。こっちの野球部が割り込んだせいで、桑田たちの、元からあった野球部の練習時間が削られたことを言っていた」
「それじゃない。次」
「ん。伝統ある野球部と新設のうちとで、グラウンドの使用時間を折半するのは納得がいかないという趣旨のことを言った」
「違う。次」
「ん。女子なら野球じゃなくてソフトボールすればいいとも言ってた」
「詳しく」
ミカヤが反応を示した。
「ん。一言一句覚えてるよ。――女子ならソフトボールすりゃ良いじゃん。何で野球なワケ? プロになれるワケじゃねーのに」
「そこ」
そらんじた桑田のセリフに指摘が入った。
「由比は何て言った?」
「ん。それも覚えてる。――ワケワケワケワケうっさい! 分類センターかあんたは! プロになれるワケじゃない? そんなのやってみなきゃわかんないでしょ! 勝手なことばっか言うな! だった。それに対する桑田の言葉は――そりゃ松坂が結構スゲーのは知ってるケドさ。それでもプロは無理だって。だってお前女じゃん」
「それ」
やはりそこか。こう言われた由比が目に見えてしぼんだんだ。
それを誤魔化すように桑田に食ってかかってたのも覚えている。
要するに、由比は女だからプロは無理と断定されたことが業腹で悔しいのだろう。
「ここから先はわたしの独り言」
そう前置きしてからミカヤが語り始めた。
「プロ野球選手を目指す一人の少女がいた。彼女には憧れている選手の存在があった。尊敬のあまり、その人と同じレベルまで自分を高めたい。そう思っていた。それが彼女がプロを目指す理由で、自分の存在証明だった」
それが由比か。どうやら、あの娘は本当にプロを目指しているのだ。
練習に使っている球が硬球というのもプロを意識してのことだったようだ。
「その少女には才能があった。そして、その才能に慢心しない努力があった。そんな彼女が頭角を表すのに時間はかからなかった。そのまま、少女は順調に成長した。そして――中学生になった時。彼女は自分が女であることに気付いてしまった」
「…………」
そういう理由か。由比が性別に妙なこだわりを見せていた原因がこれで判明した。
プロを目標とする彼女にとって、性は重要な意味を持つことだろう。
特にプロ野球という世界では。
断っておくがNPBの規定において、プロの条件が男性であることという明記がなされているわけではない。しかし、それは建前で、本質は完全なる男性社会であることは暗黙の了解である。それは何故か。簡単だ。フィジカル的な問題に他ならない。
男子と女子の間には厳然たる体力格差が存在する。これは差別などではなく、ただの事実であり、そして現実でもあった。その明確な違いが目に見えて現れるのが、第二次性徴――中学生頃からである。成長と共にその差はさらに開き、高校、大学、その先と決定的になる。今は絶対的なエースで四番に君臨している由比ですら、この先のステージでは牛後となるかもしれない。ましてやプロの世界など…………。
未来の現実を予感した時、由比はどう思ったのだろう。
――あたし不思議でしょうがないの。
――男子バスケ、女子バスケ。男子バレー、女子バレー。男子テニスに女子テニス。
――たくさん、体育系の部活が並んでる中でどうして野球部だけが、
――野球部と女子野球部なの? 野球は男子だけのスポーツって言いたいの?
強気な少女の言葉が、途端に魂の叫びとなった。
「由比は諦めてないんだな。プロになること。よほどそのあこがれの選手とやらは影響力があるんだな」
あの由比がそこまで尊敬する選手。プロ選手、あるいはメジャーリーガーだろうか。
いずれにせよ、俺ごとき足元にも及ばないほどの、相当な人物だろう。
中庭の遊歩道を通りぬけた。
ミカヤは俺の真横にピッタリと歩調を合わせている。まるでバイクのサイドカーだ。なんとなく、テーマソングが流れる中、リリーフに向かう守護神を想像した。
部活に向かう中学生と何人かすれ違う。みんな一様に若い生命力にあふれていた。
そんな彼らもまた、色々な思いや、苦しみ、葛藤を抱えているのかもしれない。
あの由比のように。ミカヤの独白が続く。
「思春期に入った少女は、憧憬を恋愛感情に変え、プロへの思いをより強固にした。彼女にとって、プロになることは、その人物と対等になることと同義だったから」
なんと一途で健気な想いだろう。なんと真っ直ぐで素直な動機だ。邪な考えや不順な想いなどでは決してない。憧憬だろうが恋愛感情だろうが、尊敬する人物に対し、自分が対等とならんとする想いのなんと気高いことだろう。そのために、同じ世界で同じ舞台に立とうとする行為は、俺にはとても眩しいものに感じた。
強気な仮面の下には健気で一途な一人の少女が隠れていたのだ。
「だから彼女は諦めない。たとえ自分が女でも、その先にどんな苦難が待っていようとも」
「……そうだったのか。有難う。教えてくれて」
「独り言に感謝は無用」
「それも独り言?」
「そう」
表情を変えることもなくミカヤが呟いた。でも、俺にはそんな彼女が少しだけ微笑んでいるように見えた。
「だったら俺のも独り言。その女の子の憧れてる選手って今どうしてるの?」
「その人は――」
そこで前方から鋭い声が飛んできた。
「ちょっと! 二人とも、何ダラダラ歩いてんのよ! 早く来い!」
見ると由比たちはすでに正門を出ていた。いつの間にか距離を空けられていたらしい。ミカヤがすいっと前に出る。
「――その人は、もうこの世界にはいない」
離れ際の一言が風にのって届いた。
重力を感じさせないミカヤの小さな背中を追いかけながら、俺は。
その言葉が妙に印象深く残るのを感じた。