幕間――ガールズトーク
白い湯気が立ち上り、視界は一メートル先も見通せない。
部室棟に併設された女子用シャワールームである。練習を終えた五人の少女たちが今、一糸まとわぬ姿で汗を流しているところだった。もちろん野球部の面々だ。
「あーキモチいーなー」
元気な声が響いた。スレンダーなシルエットを揺らしながら、隣の小柄な身体の頭を流してやっている。莉乃と向日葵である。
「キモチいいけど、ひまはちょっと疲れたよぉ」
シャンプーが目に入らないように一生懸命に目を閉じている向日葵に対し、別のシルエットが言った。毛先を指で流している、その人物はまほろだ。
「良く頑張ったな向日葵。でも次からは練習も本格化して、もっと厳しくなるぞ」
その言葉に別の影が同調する。ミカヤだった。
「同意。初日だから重い練習はなかった。これから徐々に本格的になっていく予感」
「うー。まほろとみかやがおどかすよぉ」
「はいはい。じゃー頭流すよ、向日葵ー。目を閉じろー」
「わー」
シャワーのノズルが向けられ、ゆるくウェーブした長い髪についた泡を洗い落としていく。向日葵ちゃんはシャンプーハットがなければ、自分でシャンプーできない。
「りの、もういい? もうおしまい? 目を開けてだいじょうぶ?」
「おっけー。さあ世界を見るんだ向日葵」
「まったく。また向日葵の頭を洗ってるのか、莉乃。よくもまあ飽きもせずに」
「あれあれー? もしかして僕たちに嫉妬かなーまほろくん」
「なーっ! ち、違うぞ! 私はだな」
「問答無用! いくぞ向日葵隊員! 突撃だあー!」
「とつげきだぁ!」
二人がブースから勢い良く飛び出し、隣の仕切りのまほろに突進した。
前後からまとわりつかれるまほろ。
「やっ、やめろ二人とも!」
「うりうりーっ! 背中は僕が抑えた。前は任せたぞ向日葵ー!」
「がおー。くすぐり攻撃だぁ」
「こっ、こら! どこを触っている! うわーーっ!」
狭いブースで密着し、絡まり始めた三人は瞬く間に泡まみれになった。
「よし! まほろの体をすみずみまで洗ってあげようじゃないかー」
「りょーかい」
「了解するな向日葵。自分でやるから! 手をワキワキさせるな! おいっ!」
莉乃に羽交い締めにされて、無抵抗のまほろの体に、向日葵は自分についた泡をなすりつけていった。微熱を帯びた少女たちの柔肌がこすれ合う。
「わっ、まほろ前よりおっぱいふくらんでる」
泡に隠れたまほろの胸に頬ずりしながら向日葵が言った。
「なーっ! 馬鹿者、向日葵っ! こらっやめろっ!」
「ほほーぅ? 我らが副キャプテンは発育の方も副キャプテンの名に恥じない成長ぶりみたいだね。どれどれー」
莉乃の両手がふくらみ始めた二つのつぼみに伸びる。
「おっ、おいっ! やめっ! きゃっ」
「ふむふむ。確かに前よりも大きくなってるねー。下着のサイズも変わりそうだね」
「う、うるさいっ! もうやめろ莉乃っ! 向日葵もっ!」
「ふふふ。そうは言いつつも抵抗する体に力が入っていないよまほろくん。それに僕たち相手に黙秘なんて通用しないぞー」
「そーだ白状しろぉ」
「あっ、あっ、だ、駄目……ほ、本当に…………や、やめて…………ん…………」
無邪気な二人組の攻勢にさらされ、まほろはその場に腰砕けとなってへたり込んだ。
「レズリングはそこまで」
ふざけあう三人にシャワーが浴びせられた。となりのミカヤのしわざである。
ちなみにレズリングとはレズビアンとレスリングを合わせた造語だ。
「た、助かったミカヤ」
壁に寄り掛かりながらまほろが立ち上がる。ボディソープが流れ落ちた肢体に長い髪が幾筋か張り付け、羞恥に顔を染めるその姿はとても艶めかしかった。
「ぶーぶー。これから面白くなるところだったのにー」
「ぶーぶー」
「ぶーぶー、じゃない! ふざけるのもいい加減にしろ! 大体だな、む、胸を触るなら私より由比のほうが良いだろ!」
まほろがチームリーダーに水を向けた。まほろの指摘の通り、由比の発育ぶりはチーム随一だった。それはすなわち子供から少女へと変わる過渡期の輝きを持っているということだ。そんな由比はというと、一番端で黙々と身体を洗っていた。なお、由比は普段なら真っ先にド真ん中を占領する。そうはしないで、目立たない隅っこを利用しているところに、今の彼女の心境が現れていた。
「んー、今日のゆいはダメぇ。邪魔しちゃダメぇ。えへへ」
「そーだねー。今日の由比、機嫌よくないし、僕たち空気読める子だもんねー」
悪意のない二人の発言が仕切りを二つ挟んだ由比に届いた。
「ちょっと二人共。聞こえてるわよ」
「わ、聞こえてた。僕しーらないっと」
「おお、こわいこわい」
「はー。聞こえるように言ってんでしょうが。まったく……。言っとくけどね。あたし別に機嫌悪いわけじゃないわよ」
「そう。むしろ誰かに会えてとても機嫌が良い」
「ミカヤは黙ってなさい」
バスタオルで身体を拭きながら、由比が個室を出る。他の四人も水分を落としながら、各々顔を出した。
「ゆい、怒ってないの?」
可愛らしいバスタオルにくるまれた向日葵が言った。
「怒ってないわ。色々あって疲れてるだけ」
それを聞いたまほろがいたずらな笑みを浮かべた。
「ふふ。色々か」
「な、何よ。言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」
「確かに色々あったな。投打一打席勝負とか、投打一打席勝負とか、他にも投打一打席勝負とか」
「うっ」
由比の体がギクリと強張る。それを受けてまほろが、たたみ掛けるように続けた。
「次で絶対仕留めてやる! 覚悟しなさい!」
「っ!!」
「格好良いセリフだったな。実にドラマチックな演出だと思ったよ。……ホームランさえ打たれなければ」
「ううっ」
「それから何だったかな。莉乃は覚えているか?」
「次で場外まで叩き込んでやるー!」
莉乃が元気よく誰かのセリフを叫んだ。
「場外か。惜しかった。実に惜しかったな由比。あと少し飛距離が足りなかった」
「具体的には200メートルほど足りなかった」
ミカヤがちくりと補足する。
「それでミカヤ。由比の飛距離は何メートルだった?」
「0メートル」
由比が赤面し、端で聞いていた莉乃はぶっと吹き出し、傍の向日葵が小首を傾げた。
「ねえ、まほろ、りの。三振だったら惜しいの?」
「あはははは…………」
「純粋さとはおそろしい……」
友人の無邪気な質問に二人は苦笑いでスルーする。
その態度がなお一層、由比を惨めにさせた。今や由比の顔は最紅調だった。
「む? どうした由比。顔が赤いぞ。のぼせたんじゃないか? なあミカヤ」
「むしろのぼせ上がってたが正解」
由比がキレた。
「あー! もううっさいうっさい! 悪かったわよ! どうせあたしはアイツに負けました! 打つ方でも投げる方でも勝てませんでした! どう!? これで満足? 認めるわよ! 認めればいいんでしょっ!」
ぶんぶんと顔を振りながらわめき散らす。はきかけていたスカートが外れ、脱衣所のマットに黒い沼を作った。
「おこブンブンのゆい、かわいい。なでなで」
下着姿になった向日葵が背伸びをし、由比の頭をなでた。
「なでなで」
中等部指定の黒いセーラーをまとい終えたミカヤも一緒になってなでなでする。
向日葵もミカヤも悪気はないことを知っている由比はしばらく、そうさせておいた。
癒される光景である。そして由比は癒やされた。
結局、この日の清原との勝負において、由比は圧倒的な実力差を見せ付けられて敗北を喫した。それに関するやり取りが今のあれこれだった。そのことに触れられないようにコッソリと端に陣取った由比だったが、無駄な抵抗だったようである。
しばらくそんないじらしいキャプテンをいじって遊んでいた面々だったが、みんなが服を着替え終わる頃には話題は自然と新しい監督の男子高校生に移った。
「ねー、みんな。清原センパイのことどー思う?」
切り出したのは莉乃である。
「あの人のうわさは私も聞いていたが――」
まほろが、感想を述べる。
「素敵な方だ。流石は羽衣先生の弟さんだな。絶対的な力を持っていながら、それをひけらかしたりしない。素晴らしい人だと感じたよ。それが私の印象だな」
「ほー、まほろが初対面でそこまで褒めるなんて珍しいね。僕なんて散々駄目だしされた記憶しかないけど」
「そ、それはお前が、いろいろあれだったからだろ!」
「ちょっと抱きついてチューしただけじゃん。まほろんのいけずー」
「と、とにかく、あの人で良かった。私は感じたことを口にしただけだ」
「感じたって、出会った瞬間にビビッと来た、みたいな? 運命の出会い的な?」
「いや、た、たしかにカッコ良か……って。か、関係ないだろう! バカ莉乃!」
「えへへ。まほろ顔赤いよぉ」
「向日葵まで茶化すな! そんな莉乃はどうなんだ」
追求の矛先をひっくり返すまほろだが、肝心な部分は否定しなかった彼女であった。
「んー。僕? うん。カッコイイよね。センパイ」
「そ、それだけか? ずいぶんとシンプルな」
「人の印象なんてフィーリングでいいって誰かが言ってた」
「まあ莉乃らしいか。それで、向日葵はどうなんだ。知らない男の人だけど」
「ひま?」
話を振られた向日葵は大きな瞳をパチクリさせてから、
「ひま、ひできおにいちゃんに、おにいちゃんになってほしい」
「出ました。向日葵のお兄ちゃん認定!」
「それは向日葵の中で最高評価ということか?」
「えへへ」
まほろの問いに向日葵ははにかんだような笑みで応じた。
「それでミカヤはどう思うんだ? 清原さんのこと」
「第一回選択希望選手」
「そ、そうか」
謎のドラフト会議はそれで終了した。そしていよいよ由比の番が回ってきた。
「で、結局由比はあの人のことどう思ってるんだ?」
「あー、それ僕も気になるなー」
「ひまも」
三人の注目が沈黙の由比に集まる。ミカヤがその様子を観測する。由比はミカヤを一瞥し、次にまほろたちをチラ見し、またミカヤを見、視線ををしばし泳がせた後、
「ま、まあ悪くないんじゃない? 実力的には」
と素っ気なく言った。
ミカヤが由比の手を引き、二人は隅に移動した。ミカヤはそっと耳打ちする。
「本当にそれでいいの?」
「な、何がよ」
自然、由比も囁き声になった。
「莉乃は元気な僕っ娘キャラ。まほろは優等生キャラ。向日葵は妹キャラ。由比はツンデレ枠?」
「ツ、ツンデレって、あたし別にデレたりしないし」
「本当にそれでいいの?」
「…………」
「幸い向こうはあなたの能力を高く買っている。でもそれは野球選手として。このままだと二人は監督と部員の関係のまま終わる可能性が高い」
「え、そ、そんな…………。ど、どうしたらいいかな」
由比の顔に焦りが浮かんだ。
「…………素直になればいいのに」
「うぅ…………」
「正直に本当はあなたのファ――」
「それはダメっ」
大事な秘密を言いかけたミカヤを由比は制止した。目が少し潤んでいる。
「そ、それは言えない。絶対言えない…………」
「なぜ」
「あんな態度取っちゃったのよ? 今さらそんなこと言ったら、馬鹿みたいじゃない。それに」
「それに?」
「は、恥ずかしいし…………」
由比は赤くなった顔を覆い隠した。そこには先刻までのエースで四番の面影は全く残っていなかった。
「み、みんなに言っちゃダメよ。教えたら絶交だから! とにかく明日、今日のこと謝ってみる……」
ミカヤは無表情で肩をすくめた。
「ねー。何の話してんのー?」
「きゃーっ。な、何もないわよ、莉乃。ちょっと二人でサインの確認をしてただけだから。ね? ミカヤ」
「そう。大好きな選手にサインをもらう話」
「わー! わー!」
あわてふためく由比の様子を、事情の知らないメンバーは首を傾げていぶかしみ、ミカヤだけは白皙をもって観察していた。
「こうして記念すべき新生野球部、初日の活動は終わった」
「誰に言ってんのよミカヤ」
「観客?」