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4-4 俺とあの娘の甲子園。

 九回裏。

 下位打順の八番からの攻撃だ。

 しかしソフトボール部のメンバーという八番と九番はいずれも三振し、あっけなくツーアウトになった。

 それも仕方ない。ソフトと野球では、似通っていようと全然違う。

 ましてや桑田は曲がりなりにも、エース格だ。打てなくとも責められはしない。

 いずれにせよ、俺たちは一気に追い詰められる形となった。しかし、ここからは上位からの好打順だ。

「ミカヤ。平素だ」

「分かった」

 この時のミカヤは、いつもの淡々とした雰囲気は変わらなかったが、内に秘めた熱意を感じさせる。そんな口調だった。そして、ミカヤが打席に入った。

「よー、古田。そろそろ抑えさせてもらうぜー!」

 桑田が軽薄な言葉を吐きながら、投球を開始する。ミカヤがスイングする。

 ファール。投げる。ファール。見送りボール。

 ミカヤのこの打席は、とても白熱した戦いとなった。

 宣言通り、桑田はミカヤを全力で仕留めようとしていた。軽い言葉とは裏腹に、ストライクゾーンを幅広く活用した丁寧なピッチングと鋭い球で攻め立てた。対するミカヤも絶妙なバットコントロールでこれに対抗した。際どい珠はカットにカットを重ね、好球必打の構え。しかし、桑田の球威に押されて、なかなか打球は前に飛ばない。

 ミカヤは粘って粘って貼りまくった。気付けばファールの山を築いていた。

 そして、その時はやってきた。

「あーっ! くそっ! しつけーんだよ!」

 業を煮やした桑田の集中力が乱れる瞬間。ミカヤがそれを逃すわけがない。

 痛烈なゴロが三遊間に向けて走っていく。

 だが、桑田とて素人ではなかった。奴はあらかじめ、ショートを深く守らせていた。

そのせいで、本来レフトへ抜ける当たりが遊撃手に阻まれてしまう。

 ショートが投げる。ミカヤが走る。タイミングは際どい。

 その時、俺は奇跡を見た。

 しなやかに宙を舞う肢体。

 クールな彼女からは信じられないほどの気迫のヘッドスライディングだった。

「セーフ」

 塁審がジャッジする。ちなみに塁審役は星野監督が連れてきた俺の元同僚たちだ。

 ツーアウト一塁。続く打席は、二番。中村向日葵。

 おそらく敵のほとんどが、いや一部の味方でさえ、ここで試合終了と思ったはずだ。

 だが俺は違う。俺と彼女を知っている人間だけは違う。

 俺たちは彼女を信じていた。

「向日葵ちゃん」

「おにいちゃん……」

 向日葵ちゃんが下唇を噛んでいる。のし掛かる責任に必死に向きあおうとしている顔だった。この娘も大分強くなった。

「向日葵ちゃん。大丈夫だよ。俺を信じろ。君を信じる俺を信じてくれ」

「うん……おにいちゃん! ひま、どうしたらいいですか」

「よしきた。……アレはもう出したか?」

「んーん。まだだよ。おにいちゃんのサインがないと使わない約束だったから」

 好都合だ。

「よし。今がその時だ。切り札を切ってやれ。 絶対いける。さあ、行っておいで」

「うん!」

 初めて聞いた力強い返事とともに、彼女は短く持ったバットを抱えて打席に入る。

「なんだ。またバントかよ」

 向日葵ちゃんの構えを見た桑田が呆れ声を出す。黙って見てろ、三流め。

「おいおい。状況わかってんの? ツーアウトだぜ? 中村ぁ」

 お前こそ状況わかってるのか。

「へ。どうせ、清原センパイ殿の入れ知恵だろうが、これでゲームセットだ」

 桑田の指示で、一塁、三塁が前進してくる。あからさまに向日葵ちゃんを小バカにしたような舐めたバントシフトだった。予定通り。

 第一球、桑田が投げた。その瞬間、一塁のミカヤが電光石火を見せた。

「なっ」

 桑田の注意がそれる。そのせいで投球が甘くなった。向日葵ちゃんも動く。彼女は勢いよくバットを押し出す。プッシュバントだ。

 比較的バントの飲み込みが早かった小さな少女に、俺が伝授した切り札だった。

 そして彼女は見事にバットに当てた。普通のバントよりも勢いよくボールが転がる。

 舐めきったシフトを取っていたサードが驚いてファンブルする。何とか態勢を整えるも、その間に絶賛二塁陥落中のミカヤはベースを回って三塁を陥れようとしているところだった。

 そのせいで彼は一瞬、どちらに投げるか迷ってしまう。ファーストか。サードか。

「バカッ! ファーストだ!」

 桑田が怒鳴る。ようやく我に返った野手は、懸命に走る向日葵ちゃんが向かうファーストに送球した。送球は速い。向日葵ちゃんの足はそれほど速くない。

 向日葵ちゃんが必死に走る。しかしタイミングは微妙だ。際どい。本当に際どい!

 そして奇跡は二度起きた。

 放り出されたヘルメット。そこから広がったウェーブヘア。空を舞うのは小さな蝶。

 向日葵ちゃんまでもが決死のダイブを敢行したのだ。

 タイミングはどっちだ。有り体に言えば、際どい場合はややアウトが勝る。

 事実、塁審はアウトのジェスチャーを取りかけている。

 だが、グーに握ったその手がピタリと止まった。

 見るとファーストベースにしがみ付いた向日葵ちゃんが、むくりと顔を上げ、塁審のことを見ていた。そのまま二人はしばらく見つめ合っていた。そして。

「セーフ!」

 塁審がそう告げた。そうだろう。俺の位置からでは見えないが、あの向日葵ちゃんにアウトなど言えまい。恐らく目に涙をためて口唇を震わせる彼女に対して、ギリギリのタイミングでアウトなど言えはしまい。

 ツーアウト一塁三塁。

「ちっ。なんでセーフなんだよ! おかしーだろーが! クソがっ!」

 マウンドで桑田が悪態をついていた。一人荒れている。

「まほろ」

「はい!」

 ネクストバッターサークルで瞑目していた、副キャプテンに俺は声を掛ける。

「次の打席、よく見ていけ。アドバイスはそれだけだ。あとは由比が決めてくれる」

「分かりました!」

 俺の真意を察したのか、彼女は力強く応答した。この娘は本当に頭が良い。

「ふん。どうせ、次の鳥谷で終わりだし、オレの勝ちは変わんねーし!」

 そして苛立つ桑田は、コントロールが乱れ、四球を出す。俺とまほろの勝ちだ。

「驕ったな。桑田。もう少し落ち着くべきだ」

 サラリと皮肉を吐くまほろに対し、桑田は舌打ちで返した。

「ちっ。ホント、うっとーしいなあ。早く諦めろよ!」

 諦めない。諦めるわけがない。諦める理由がない。

 これで――全てのお膳立てが整ったのだから。

「……清原セ……ん」

 由比が弱々しい声を出した。

「よし。由比。君で最後だ。終わらせてこい。……もちろん勝ってな!」

「……無理よ。だってあいつ、あたしと勝負する気ないもん…………」

 見るとキャッチャーが立っている。

 なんと、押し出し敬遠をするつもりだ。次の莉乃と勝負する気だ。

「安心しろ由比。あいつは必ず勝負する。俺に任せろ」

「――うん!」

 由比がバッターボックスに入り、桑田がセットに入る。そこで俺は策に出た。

「おい、桑田圭祐!」

「何すか? 投球妨害やめてくださいよ。センパーイ」

「おいおい。投球って、勝負する気なんてないんだろう? 逃げる気だろう? 俺なら違うな。ここで勝負する」

「なっ」

「お前、俺の二世なんて呼ばれてるそうだな。でも、申し訳ないが名誉返上してくれないか? お前は俺の名を継ぐにふさわしくない。臆病風に吹かれて四番との勝負を避けるエースなんて、エースの風上にもおけん。俺は勝負したぜ? この夏、甲子園の最終回。満塁のピンチで四番とな。お前には無理のようだな」

「……っ。ふ、ふふ。はは。挑発お疲れ様ですセンパイ。その手には乗りませんよ」

 なるほど。奴も伊達にエースを張っているわけじゃない。中々クールでクレバーだ。 しかし、そこまでだ。

 お前は由比と勝負する。俺が決めた。野球に関する限り、俺の予定は絶対だ。

「なあ桑田。俺昨日、由比とデートしたんだ」

「はぁっ!?」

「ふぇっ!?」

桑田だけじゃなく、打席の由比まで反応したが気にせず続ける。

「俺たちは甲子園に行ってきた。由比のやつ、すごく可愛いファッションで来たんだ。知ってるか? 由比ってものすごく可愛い顔で笑うんだ。お前、由比の笑顔見たことあるか? 由比に笑いかけてもらったことあるか? ないよな。だって、お前は口だけの臆病者だからな」

「てめえっ!」

「ま、お前には一生無理だな。由比との勝負を避けてるようじゃ、一生無理だ。由比を敬遠して、由比から敬遠され続けるのがお似合いだよ。俺の出涸らしエースくん」

「上等だ! 上等だ! 上等だあっ!!」

 桑田が乱暴にマウンドを蹴り上げる。……掛かった。

「勝負すりゃいいんだろ! 勝負すりゃあ! オレの実力を松坂に見せてやんよ!」

 由比。あとはお前次第だ。勝てるよな。

 由比の目はこちらを見ていた。俺たちの視線がしっかりと交錯する。

 ――当然よ。あたしが勝つわ。

 その目は、そう如実に宣言している。そして。

 なんの演出も引きも、ドラマすらも必要なかった。

 桑田が投じた第一球。

 由比はあっさりと特大のホームランを放った。

 9対8。逆転満塁サヨナラホームラン。

 由比たちの。俺たちの勝利だ。

「嘘……だろ」

 遥か彼方に消えていくアーチを呆然と見送りながら、敗者が呟く。

「四死球の後の初球が肝心なのよ。桑田」

 由比は威風堂々とダイヤモンドを一周する。「くそっ! くそっ!」と叫びながら、桑田がマウンドにグラブを叩きつけるのを一顧だにせず、彼女は悠々ホームを踏んだ。

「由比」「やった! やった!」「わーわー! やったあ!」「ゆいすごいっ!」

 先にホームで待っていたチームメイトたちが出迎え、乱暴な歓待をする。由比の身体が宙に舞う。助っ人のみんなも興奮やる方ない様子で、胴上げに参加している。

 由比の笑顔がまぶしい。笑顔で由比が着地する。そのまま彼女は俺の方を見た。

 由比がはっとする。そのまま彼女は、複雑な顔を作り、俺の元までやって来た。

「あの……清原……セン……」

「ああ」

「昨日は、その。……ごめんなさい」

 もじもじしながら由比が言った。

「いいや、由比は悪く無い。悪いのは全て俺だった」

「でも、あたし……。ひどいこと言ったわ」

「いいや感謝してる」

「感謝?」

「ああ。由比のおかげで目が覚めた。君が言うように、俺は逃げていただけだった。みなみのことも、君たちのことも全部だ。でも、今は違う。俺は戦うことに決めた。もう一度。いや、何度でも俺は戦うことにした」

「じゃあ……!」

「ああ。野球はやめない!」

 傍で話を聞いていた星野監督がニヤけた顔でヒューと口笛を吹いた。

「はい。言質は取ったわよ。秀喜」

「姉さん!」

 いつの間にか姉さんまでグラウンドに来ていた。その手にはボイスレコーダー。

『俺は戦うことに決めた。もう一度。いや、何度でも俺は戦うことにした』

『ああ。野球はやめない!』

 機械が俺の声で喋った。……姉さん、やめて。

「つまり我が弟は、野球部の退部は撤回するということで良いのね?」

「はい!」

「ちょ、ちょっと待って」

 あわてた様子で由比が割り込んできた。

「野球部に戻るってことは、あたしたちの監督はもう、辞めちゃうの……よね?」

「それは……」

「掛け持ちでも俺は構わねーぞ」

 星野監督が言った。

「だって! ねえ。もっとあたしたちの、……あたしの練習見てよ……」

「由比……」

 由比が顔を染め、切なげなまなざしを向けてくる。

「シャッターチャンス」「おーい由比。顔が真っ赤だぞー」「由比はカワゆすなー」「ひまもゆいみたいに、お願いします」

 チームメイトたちも口々にそんな由比を茶化したり、追従したりするも、彼女はただ真っ直ぐに俺を見ていた。

 瞳に真摯な色を乗せて由比が言う。

「あたし。あたしたち。まだ、あなたが必要だから。だから、もう少しだけ――」

 上目遣い。

「あたしたちの監督をしてくれませんか? 清原……センパイ」

 可愛い。

 もはや是非もない。返事なんか決まってるだろ?

「俺が監督をやるからには、絶対目指すぞ?」

「「「「 甲子園っ!! 」」」」

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