4-3 希望。
九回表。ついに最終回がやって来た。
「由比。今日の試合に延長戦はない。引き分けも実質勝利同然。この回を抑えれば」
「はっ……はっ……分かっ、てるわ……。ミカヤ。抑えれば、勝ちよ」
守備につく際、声を掛けたミカヤに対し、由比は息を弾ませながらも応えた。揺さぶられ続け、一人で投げてきた由比の体力は、すでに限界に近かった。それでなくともメンタル的にはベストコンディションとは決して言えない今日なのだ。
今、ゲームを成立させているのは、ひとえに由比の超人的な精神力の賜物だった。
「よー松坂。まだ投げんの? いい加減リザインしたらどうよ?」
打席に入りながら桑田が挑発する。この回の攻撃は奇しくも彼からだった。
彼には前の打席で痛烈なツーランを浴びている。
今の自分に抑えられるだろうか。不安の風が由比の中を吹き抜ける。
嫌なイメージは的中した。疲労と焦りから、由比は失投してしまう。ド真ん中の棒球。そして当然四番打者はそんな甘いボールを見逃さない。ソロホームラン。桑田がドヤ顔でダイヤモンドを一周する。ついに追いつかれてしまった。5対5。同点。
由比は口を真一文字に結んで、桑田がホームを踏むのを見ていた。辛うじて、不安を顔に出さないのは彼女の気性と、エースの意地だった。しかし表に出さなくとも、そうした気配は敏感に伝わる。伝わってしまう。
チームの要であり、精神的な拠り所でもある由比の崩壊に、今やチーム全体が負けムードに支配されていた。そして、それはプレイにも表れた。続く五番打者。六番打者ともに、由比は何とか内野ゴロに打ち取った。否。打ち取ったはずだった。ここで、このタイミングで守備にミスが出た。まず、サードが悪送球で走者を二塁に進ませ、次に危なげない守備が自慢のショートも、イレギュラーバウンドの処理を誤り、ノーアウト一塁二塁としてしまう。
真の緊張感を伴った、実戦経験の少なさが如実に表れ始める。恐れていたことが現実になってしまった。守備の乱れは由比のピッチングをさらに苦しいものにした。七番打者にはあからさまなフォアボールを与えてしまい、これでノーアウト満塁。
一打、大量失点。負け越しのピンチはなおも続く。
俺は走る。全速力で走る。
時間はまだ四時前。試合展開にもよるが、まだ間に合うはずだ。
頼む。間に合ってくれ。間に合ってくれ。今度こそ間に合え!
交差点を突っ切る。凄絶なクラクションが鳴らされる。知るか。轢くなら轢け。車の方をジャンクにしてやる。見慣れた住宅街を駆け、ランニングコースの公園を置き去りにする。遊んでいた子どもとその母親がポカンと見送るのを一顧だにせず、俺は走り続ける。ソバ屋の出前持ちとぶつかりそうになった。犬に吠えられた。猫に逃げられた。流れる汗を感じる。それでも俺は、なりふり構わず走った。
やがて、懐かしの心臓破りの坂が現れた。
飛ばしに飛ばした俺の心臓はすでに激しく脈打っていた。それでも構わない。壊れるなら壊れて構わない。そんなことは、もうどうでもいい。
ただ、あの娘たちの元へ、あの娘の待つ甲子園へ、俺は行かねばならない。
なぜか、あの娘たちとの練習の風景が頭をよぎる。
そう言えば、向日葵ちゃんをおぶってここを走ったっけ。守備でファインプレイを決めて輝くまほろがいた。豪快なスイングで三振しながらキラキラ笑う莉乃もいた。ベースランニングでミカヤと競走した。――そして。
最初の日、着替え中に乱入してしまった俺を蹴りだす由比がいた。一打席勝負で負けて悔しそうな由比がいた。ランニングで何処かで聞いたようなテーマの替え歌を歌う由比がいた。マンツーマンレッスンで素直に耳を傾ける由比がいた。顔を染める由比がいた。顔を染めながら俺を誘う由比がいた。甲子園の帰り道で笑う由比がいた。そして涙を流す由比がいた。由比がいた。由比がいた。由比由比由比由比由比がいた。
こんなにも俺の中に由比がいた。
校門が見えてくる。
グラウンドはすぐそこだ!
八番九番。由比はミカヤのリードと打者の打ち損じのおかげで辛うじて切り抜ける。 ツーアウト満塁。しかし一打負け越しの場面。それも最終回で上位打線の相手は苦しい。そして由比の精神力ももはや限界だった。
絶対に同点のまま終わらせねばならないという気負いと、抑えなければならないというプレッシャーから、由比は続く三人の打者に押し出しを与えてしまう。
8対5。依然フルベース。
新生野球部にとっては、苦しい展開になった。しかも次の打者は、
「一巡して、また俺の出番かー」
桑田である。
「これで12対5か。オレたちの勝ちだわ。やっぱ」
前二回の打席でホームランを放っている桑田は勝手な展開を口にした。しかし、今の由比には聞き逃がせる余裕はなかった。
12対5。そうなれば、もはや致命的である。それに次の攻撃は下位からだ。8点も取れない。いや、ここを抑えて8対5のままでも4点も取らなければ勝てないのだ。
由比の思考が真っ白になる。
そもそも、ここをしのぎ切らねばならない。あの桑田を抑えなければならない。
ミカヤのミットが遠い。ミカヤが何か言っている。ああ、タイムだ。
内野陣が集まってくる。
ひまが半泣きの顔で何か言っている。真っ青なまほろも何か言っている。真剣な表情の莉乃もいる。そしてミカヤ。あのミカヤが切ない表情をしていた。
そうだ。あたしはエースだ。ピンチの時こそしっかりしないと。ピンチ。そう、ピンチだ。ここで打たれると負けるんだ。負けるとあたしたちの野球部が――。
とにかく今は桑田を抑えることが先だ。桑田を抑える? どうやって? 今までどうやって抑えた? 抑えるって何? どうすればいいの? あたし何すればいいの?
みんなが何か言っている。言葉が宙に舞う。
分からない。何も分からない。あたし何も分からないよ。
誰でもいい。誰か、誰か助けて。
視界がにじむ。
助けて。清原センパ――
「待たせたな」
遅ればせながら登場した俺に、マウンドに集まったみんなの視線が集まる。
由比は弾けるように振り返り、その大きな目を更に大きく瞠目させていた。
「……来て、くれたの…………?」
今にも泣き出しそうな由比が、蚊の鳴くような声で言った。俺は彼女に近づく。
「ああ。来た」
「遅すぎるわよ……」
「すまん。甲子園で迷子になってた」
「何それ」
「話は後だ。今は勝つことだけを考えるぞ。状況は……なるほど把握した。よし。まずは由比。桑田を抑えてチェンジだ! 出来るな?」
俺の言葉に、由比は目をパチクリさせた後、一瞬でエースの顔を取り戻す。
「とっ、当然よ! あんな奴、三球三振にしてやるわ!」
「よし、その意気だ。他のみんなも守備位置につけ。ああ、守備のことは心配しなくて良いぞ。次の攻撃のことでも考えとくと良い。どうせ、由比の言ったとおり三球三振で終わるからな」
その科白を聞いた桑田が打席で何やら騒いでいるが、知ったこっちゃない。
すでにこちらのメンバーは戦意を取り戻していた。由比の復活と共に、みんなの気迫まで戻っている。
「よし! 絶対逆転してやろう!」
力強くまほろが言った。莉乃と向日葵ちゃんも呼応するように声を上げる。
「はいっはいっ! サヨナラ勝ちでフィニッシュだー! なんかワクワクしてきた」
「ひまも……がんばります!」
そうして気合を取り戻した内野陣は三々五々に自らのポジションに散っていく。
そしてマウンドには、俺と由比とミカヤガ残った。
「清原秀喜。来ると信じてた」
「ああ、ミカヤ。俺が来たからには負けはないぞ。安心しろ」
「把握」
またも桑田のアホが喚いている。無視。
「よし。二人とも。さっさと桑田を黙らせてくれ。うるさくて敵わん」
「任せなさい!」「了解」
由比がロジンバックを握り、ミカヤが捕手席へ戻る。そして俺もマウンドを離れてポジションに就いた。
もちろん監督のポジションだ。
タイムが解かれ、ゲームが始まる。桑田が何か叫んでいる。由比が投げる。
ストライク。ストライク。ストライクッ! 全球ストレート。
審判の星野が俺を見てニヤリと笑いかける。俺も同じく不敵に返す。由比は宣言通り、桑田を速球のみで三球三振に斬り伏せた。スリーアウトチェンジ。
最後の攻撃が始まる。




