4-2 起動。
中盤戦に入り、試合展開はいきなり引き締まったものになった。四回、五回、六回と両チームともにゼロ行進が続いた。だが、動きのないゲーム展開とは裏腹に、プレイ内容には変化があった。まず、桑田は由比に対して、あきらかな敬遠で勝負を避けるようになった。主な得点力のある打者が由比のみと看破されたのだ。これで上位打線は完全に流れを断ち切られてしまった。そのせいで、新生野球部はスコアボードにゼロを並べていた。一方、男子勢のゼロは、これは意味が違った。彼らは全打者、全打席でセーフティバントを敢行したのだ。女子チームでピッチャーは由比しかいない。その由比を揺さぶって、走らせ、疲れさせるつもりだ。全ては桑田の策略だった。もちろん投手を由比一人で回す以上、その程度の作戦は、予め想定していたつもりだ。監督の清原秀喜から伝えられていたことでしかない。それでも、やられて嫌な策であることは間違いない。真に効果のある策とは、たとえ使われることが分かっていても対応し切れないものである。
そうしてエース松坂由比は、相当の疲弊を強いられることとなった。
秀喜くん。……わたし今から手術受けます。絶対、成功してみせますので大丈夫! ……うん。ごめん。嘘。本当は不安です。はっきり言って怖いです。だからこの映像を残してます。少しでも気が紛れたらって。撮ってくれてるのは羽衣さんだよ。
……うん。ありがとう。
ねえ、秀喜くん。そっちのわたし、今どうしてますか? ちゃんと話せてますか? 笑ってますか? 秀喜くんにおめでとうって言えましたか? 心配です。それだけが心配です。どうですか? 今この動画、秀喜くんは誰と見てるのかなあ。二人ですか? 一人ですか? 一人だったら……わたし、手術失敗しちゃったんだね。きっと。ごめんなさい。本当にごめんなさい。約束守れなくてごめんなさい。あんな偉そうに約束させたのに、わたしが守れなくて、本当にごめん。そのせいで秀喜くんが悩んでないか心配です。秀喜くん、責任感強いからさ。みなみがいなくなったのは俺が約束なんかしたからだー! とか言ってそう。それでさ? 責任とって野球やめるー! とか言ってんの。どうかな。だとしたら大間違いだからね。わたしはわたしの意思で手術を受けるの。本当はね。約束なんて何でも良かったの。勇気が欲しかっただけなの。約束すると、守ろうって気になるでしょ? 秀喜くんがわたしのために戦ってくれるでしょ? そう思ったらさ。気付いたら、あんなこと言っちゃってた。だから、わたしがどうなっちゃっても全てはわたしの責任です。秀喜くんが悩む必要なんてないからね。野球やめたりしないで。
ずっと。ずっと、わたしのヒーローでいて。わたしが死んでも…………。あ、ごめん。いつの間にか、なんか手術失敗したこと前提になっちゃってたね。わたしは大丈夫だよ。絶対、手術成功するからね。絶対に元気になって、甲子園から帰った秀喜くんに、おめでとうって言うの。二年生になっても、三年生になっても、秀喜くんは甲子園で優勝して、わたしはおめでとうって言ってあげるの。約束だから。
……なんか口にしてたら、気が楽になってきた。ありがと。秀喜くん。羽衣さん。
じゃあまたね。もうすぐ時間だ。秀喜くんは何してるころかなあ。あ、そっちじゃなくてこっちね。なんか、ややこしいなあ。……うん。じゃあ、そろそろ。
ねえ、秀喜くん。
……………………大好き。
試合は終盤戦までノンストップで進んだ。
七回裏、これまでパーフェクトピッチングを続けてきた由比にほころびが出始めた。この回、男子野球部は一番からの好打順だったが、一番、二番は打ち取った。そこまでは良かった。
このまま一気に試合を終わらせてやる。清原なんていなくても、あたしは大丈夫だ。
あんなやつ。あんなやつっ!
「あっ!」
力みから、由比は三番打者に対し死球を与えてしまう。
「おーこわいこわい。あんなん喰らっちゃ文字通り死球だわ」
続く四番、桑田がバッターボックスに入る。彼の構えは清原秀喜を模倣しており、由比はその姿に清原秀喜をダブらせた。そのせいで、由比の心中はさらに乱れた。桑田への第一球。ミカヤの構えたインコースよりも、やや真ん中に入ったその球を、桑田は見逃さない。完璧に捕らえられた白球はライトスタンドに消えていった。
「嘘でしょ……」
「四死球の後の初球が肝心なんだぜ。松坂」
桑田が挑発する。それでもまだ、5対2。勝っている。まだ大丈夫だ。
続く五番は三振に終わらせスリーアウトチェンジとなり、由比たちの攻撃である。何の因果か新生野球部の攻撃も一番からの好打順だった。まずミカヤガグラウンドヒットを放ち、そのまますかさず盗塁を決め、ノーアウト二塁とした。しかし、二番向日葵がスリーバント失敗、三番まほろは三振となり、あっという間にツーアウトになってしまった。そして打順は由比の番である。この打席でも桑田は由比を敬遠で勝負を避けた。ツーアウト二塁、打席に四番。状況からすれば、それもやむを得ない。しかし、七回裏の桑田のホームランに対し、反骨精神を刺激された由比にとって、その敬遠は竜の逆鱗を逆なでするも同然だった。結果、由比は強引なバッティングを実行した。すなわち、明らかなボール球に手を出したのである。無理やり当てたボールは、ショートライナーに終わり、あっさりとスリーアウトチェンジとなった。
「由比。落ち着いて」
女房役のミカヤの指摘通り、由比は持ち前の冷静さを欠いていた。もちろん普段の彼女はこうではない。気性とは裏腹に、松坂由比という選手は常にクレバーで状況判断に優れている。
だが今は違う。桑田の策略による疲労。そして試合展開に対する焦り。何よりも清原との関係。あらゆる要素が複雑に有機的に絡み、由比から思考力を奪っていた。
その影響は八回表に如実に表れた。表れてしまった。まずツーアウトまでは、比較的簡単に持ち込んだ。問題はその後だった。クールであろうとするあまり、慎重になりすぎ、フォアボールを連発してしまった。クサイ所を突きすぎたのだ。ランナーが全ての塁を埋めての投球。由比はストライクを取りに行ってしまった。それがいけなかった。置き球を痛打され、ランナー二人がホームを踏むこととなった。
5対4。あと一点で同点である。
ミカヤがタイムを取った。内野陣も苦しむエースの元に集まる。
「由比。焦らなくていい」
「ミカヤ……あたし」
「情けない声をだすな。由比らしくないぞ」
「そーだそーだー! まほろんの言うとおり、由比は自信持って投げれば良いんだ」
「ひまも、そう思います。今のゆいはいつもとなんか違います」
「みんな……」
チームメイトの励ましで、由比は辛うじて、この回一点差のまま切り抜けた。そんな由比に対し更なる苦難が待ち受けていることを、彼女は、彼女たちはまだ知らない。
本当の試練はここからだった。
みなみのメッセージを聴き終えた俺は茫然自失としていた。俺はなんて愚かだった。
――みなみさんはね。始めから手術を受けるつもりだったのよ!
――本当は手術を受けたくて、でも一人じゃ恐くて、そんな約束をしたのよ
全て由比の言ったとおりだった。みなみは自分の意志で手術を選んだのだ。約束なんて関係ない。本当は何の関係もなかった。なのに俺は野球を棄てることで己を保とうとした。数多の言い訳を用意して、正当化しながら、いかにも悲劇の主人公を装って、ヒーローになり損ねた自分を慰めた。みなみのいない寂しさを誤魔化した。俺はみなみに対して贖罪する振りをして、その実あいつのせいにしていた。
なんて卑怯なんだろう。結局、俺は生きているみなみを見捨てて逃げ出したのだ。
もう辞めにしよう。責任だ、贖罪だ、体のいい理由をもっともらしく飾り立て、これ見よがしにポーズを取るのは辞めにしよう。
みなみは生きている。まだ失ったわけじゃない。いつか目覚めるかもしれない。
そうだ。みなみは優勝回数を指定しなかった。だったら何度でも、何度でも、みなみが約束を守るまで、甲子園で優勝し続けてやる。その時まで俺は、野球を続けてやる。戦い続けてやる。
そして今、俺にはもう一つの戦いが用意されてるよな? もう一つの甲子園が俺を待っているよな? まだ失ってないものがもう一つあるよな?
「由比っ!」
行こう。戦うために。あの娘の待つ場所へ。
「みなみ。メッセージ有難う。今度は俺が勇気をもらった。俺は行くぞ!」
みなみの口唇が動いたように見えた。
いってらっしゃい。
「ああ! 行ってくる!」
俺は取るものも取り敢えず、病室を飛び出た。
出たところには姉が待ち受けていた。廊下の壁に背中を預け、腕を組んでいる。
「秀喜。お姉ちゃんは昨日の当直を交代してもらった代わりに、今から学校に行きます。貴方も乗っていく?」
組んだ手の指先で、キーを弄びながら姉は言った。
「いえ。必要ありません」
「そう」
大股で俺は歩き出す。院内は走れない。相変わらずもどかしい。それでも。
「俺の足のほうが早い!」
エントランスを出た俺は一気に駆け出す。
大切な人がいる場所へ。大切なものを守るために。




