4-1 始動。
部の存亡を賭けた試合当日の正午頃のこと。天気は昨晩の雨が嘘のような快晴だった。深夜に降り注いだ雨は、夜半の早いうちに止んだようで、グラウンドのコンディションは十分に試合を開始するに耐えうるものだった。すなわち中止も延期もなく、試合はとり行われるのだ。すでに両チームともにメンバーが集まっている。新生野球部の方もキャプテン松坂由比の強引な交渉により、女子ソフトボール部から四人引っ張ってこれたので、九人がちゃんと揃っていた。これで試合は成立する。
由比はとりあえず安堵した。不戦敗は免れたからだ。間もなくプレイボールである。
「ちょっと由比」
各々が試合前のウォーミングアップに取り組んでいる中、一塁ベンチ側で軽いストレッチをしていた由比に対して、準備体操を切り上げた副キャプテンが声をかけた。
「何よ」
「何よじゃないだろう。清原さんはどうしたんだ。まだ来ないのか? 携帯もつながらないし、もう試合が始まるんだが」
「知らない! あんなやつ!」
「知らないって……由比、何か変だぞ? 昨日何があったんだ」
困ったようなまほろに対し、キャプテンは「別に」と素っ気なく返しただけだった。 何があったのか。それはもう色々あった。そして昨日から今までのことを由比は反芻していた。あの人と一緒に甲子園に行った。言葉に出来ないくらい楽しかった。甲子園で日本シリーズというだけで盛り上がるのに、憧れだった人との観戦だ。おまけにホームランボールまでゲット出来た。夢のような時間だった。
でも夢は覚めてしまった。冷めてしまった。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
彼女がいたと知ってショックだった。野球をやめた理由が許せなかった。自分一人が勝手に舞い上がって浮かれていたみたいで悔しかった。だから感情的になってしまった。どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。あの人とみなみという人の関係について、あたしは部外者だ。くちばしを挟む資格なんてない。なのに彼に対して否定するようなことを言っただけじゃなく、酷い暴言まで吐いてしまった。彼女を失ったあの人に本当は慰めたり励ましたりするべきだったのに、逆に追い詰めてしまった。我ながら最低だ。もう彼は許してくれないかもしれない。いや、許すも何も、もう二度と会ってくれないだろう。それだけのことをしてしまった。言ってしまった。
大嫌いなんて言ってしまった。顔も見たくないって言ってしまった。二度と来るなと言ってしまった。心にもないことばかり言ってしまった。
もう取り返しがつかない。どうして素直になれなかったんだろう。どうして。
「由比。大丈夫?」
「ミカヤ……」
感情が顔に出ていたのかもしれない。竹馬の友までが気遣ってやってきた。思えばこの親友にも心配を掛けた。雨のグラウンドから全速力で逃げ出した由比を追いかけて、励ましてくれたのは他ならぬミカヤだった。
励ましたと言っても、特別な言葉は何もなかった。ただ一言「走ると危ない。一緒に帰ろう」と、そう言っただけで、後は無言だった。時機を得た沈黙は、時に百億の言葉よりも雄弁だ。ただ自分を思って寄り添うミカヤに由比はたいそう救われた。
「ありがと。ミカヤ」
「良い。それよりもうすぐ一時。試合が始まる」
「よし。……まほろ」
傍で話を聞きながら静観していたまほろに対し、由比が水を向け、まほろはまほろで打てば響くような反応を示した。
「分かってる。円陣だろう? みんな呼んでくる。ソフトボール部の人もな」
すぐにメンバーはキャプテンの周囲に集められた。
「うーん。流石にドキドキワクワクしますなー」
「ひまもドキドキしてます。でも不安とは少し違います。これはなんでしょうか」
「その正体を教えてあげるわ!」
チームの中心にいる由比が、不敵に言った。
「それはね。今からあいつらをコテンパンにノしてやるっていう期待感よ!」
「そうだ私達が勝つ!」「勝つ」「勝つぞー!」「勝ちます」
メンバーが勢いづく。そのまま威勢のいい円陣が完成した。
「よー。気合だけは一人前じゃん」
盛り上がりを受けて近づいてきた桑田に対して、それぞれが敵愾心を向ける。
「おいおい。そんなニラむ必要なくね?」
「何しに来たのよ。自分のチーム帰れ!」
取り付く島のない由比に対し、桑田はわざとらしく肩をすくめ、それからわざとらしく辺りを見渡す素振りをした。
「いや、なんつーかさ。今日はあの人いないワケ? 清原センパイ。ロリコンの」
「あんたにカンケーないでしょ! あいつは来ないわよ! もう!」
「えーっ!」「えっ」
驚いたのは莉乃と向日葵だった。
「センパイ来ないの? ねえ由比。何で?」
「気にしなくていいわ」
「でもおにいちゃんがいないと、ひま心配です」
「大丈夫よひま。あんな奴いなくても勝てるわ。向こうだって落合監督は来てないでしょ。条件は同じよ」
そう勝てる。きっと勝てる。あの人がいなくたって勝てる。勝ってあの人の鼻を明かして、あたしの存在を刻みこんでやる。
いや、やっぱりあんな奴知らない。もう知らない。あたしは怒ってるんだ。あたしも酷かったけど、あいつだってやっぱり悪い。あたしの気持ちも知らないで……っ!
「さっさと試合開始よ! 桑田っ」
「オッケー。んじゃあプレイボールということで」
桑田が軽薄なノリでそう告げた。
こうして新生野球部の運命を左右するゲームが、清原秀喜不在のまま始まった。
気付けば俺は、みなみの病室にいた。いつものパイプ椅子に腰掛け、いつも同じ角度のみなみが見える。あの日と同じ、二人だけの空間。
時刻はすでに昼の一時をとうに回っている。今頃、みんなは試合中に違いない。
みんなは。……由比はどうしてるだろうか。
いや、今の俺にみんなの心配をする資格などない。彼女の心配をする資格などない。
「なあ、みなみ。俺、またやらかした。今度は中学生の女の子を傷つけた」
みなみは応えない。応えてくれない。応えられない。
「俺はどうすれば良い? あの娘たちに対して何が出来る? みなみに対して何をすればいい? 俺わからないよ」
みなみは応えない。応えてくれない。応えられない。
「違う。本当はどうすべきかなんて分かってる。……はは。この期に及んで、まだ誤魔化してるな俺。本当はさ。恐いんだ。失うことが恐いんだ。みなみがこんなになって、その上由比たちまで失うようなことがあったらって、そう思ったら怖くなった。だから逃げてるんだ。逃げてきたんだ。戦って失うくらいなら、何もしないで自然消滅させた方が良いって、そう考えてる」
みなみは応えない。応えてくれない。応えられない。
「俺、気付いたんだ。たった一ヶ月ちょっとの中で、由比たちの野球部が大切な存在になってたことに。いつの間にか、みなみを失った穴が埋まってたことに。だから失いたくなかった。だから監督になった経緯が言い出せなくなった。本当の理由を知って、みんなにそっぽ向かれたらって思うと、怖くなった」
みなみは応えない。応えてくれない。応えられない。代わりにその人が答えた。
「貴方はまだ、何も失ってはいないわ」
審判役に選ばれた、高等部監督の星野がプレイボールを宣言し、ゲームは始まった。
初回。先攻の桑田チームに対し、由比は三者連続三振に切って取った。その裏の攻撃でも、ミカヤのヒット、盗塁、向日葵のバント、まほろのタイムリーで一点を先制し、四番の由比はツーランを放って一挙三点を早々と奪った。そして出鼻をくじかれた桑田は、そのいら立ちから、自分の得意とするコースに得意のストレートを五番田者の莉乃に対して投じてしまった。これが彼にとっては良くなかった。それは莉乃の狙い球だったからだ。特訓での成果を見せ付けるように、莉乃はその球をレフトスタンドに放り込む四点目に変えた。
「何で小笠原にまで打たれんだよ!」
桑田は嘆くも時既に遅し。莉乃は悠々と三塁を回って、両足揃えてホームを踏んだ。 その後、六番、七番のソフトボール部員たちが三振に倒れ、攻守が入れ替わる。二回裏のバッターは四番、桑田からだったが、軽薄なセリフを吐く彼に対し、由比は軽快なピッチングで答えた。ストレート、ツーシームにカーブを織り交ぜた緩急で、由比はこの四番を三振に斬り伏せた。その後の男子たちの攻撃もKの文字が並んだ。
二回裏。下位からの攻撃は、ミカヤのヒットが出ただけで無得点だった。
三回表。由比は相手の下位打線を危なげないピッチングで締めた。
三回裏。新生野球部二巡目の攻撃。先頭打者のまほろにレフト、センターを突き破るツーベースが出た。ここまでは良かった。ここからが少し違った。続く四番の由比に対し、桑田はフォワボールでも構わないといった攻めをした。そのせいで由比は辛うじて二塁打にするのがやっとだった。まほろが生還し、ランナーが入れ替わる。そして、続く莉乃は三振に終わった。そして彼女がストレートしか打てないのがバレた。
それでもスコアボードは5対0。
大丈夫勝てる。あんな奴いなくても勝ってみせる。由比はそう、心の中で発破した。
「姉さん……」
病室に入ってきた姉さんは、俺の顔を見てからみなみの方を見た。
「秀喜」
「はい」
立ったままの姉さんに、俺も立ち上がって応答した。
「みなみちゃん眠ってるわね」
「はい。ずっと眠ったままです」
「そう。眠っているのよ。死んでるんじゃないわ」
「でも寝てるだけです。もう喋らない。笑わない。俺の名前を呼んでくれない」
「いい加減にしなさい」
やわらかに窘めるような声で姉さんが言った。
「貴方が悩むのは構わないわ。それだけ真剣に考えられるのは、貴方の長所よ。天才は悩まない? 大嘘よ。むしろ天才程あれこれ考えるものなのよ。でもね。今の貴方は自分に嘘を付いているわ。自分の気持を偽っているのは気付いているでしょう?」
「…………」
「今でもみなみちゃんがこうなったのは自分のせいだと思ってる? 野球をやめたのはみなみちゃんに対する責任のため?」
「もう……よく分かりません。あの約束をした時の俺は確かに軽率でした。楽観的な未来だけ信じて、安易に約束してました。その意味ではやっぱり、みなみがこうなったのは自分のせいだと思います」
「なるほど、そこね。根本的な誤りは」
「え?」
姉は応えず、バッグからノートパソコンを取り出し、デスクのキャビネットの上に置き、コンセントをつなげた。開かれた画面が起動し、デスクトップが表示される。
そこに妙な名称のファイルがあることに気付いた。『minami.mpg』
「それはなんですか? その一つだけ表示されてる動画ファイルは」
「そうね。貴方の言葉を借りるなら、みなみちゃんの遺言と言ったところかしら」
「……姉さん」
「このファイルをどうするかは貴方が判断しなさい。私は席を外します」
言って姉さんは扉に向かう。
「あ、一つだけ。貴方はまだ何も失ってないわ。みなみちゃんも――由比たちもね」
そう言い残して姉は退室した。残された俺は、残されたノートパソコンに向かった。
一体何の動画だろう。俺は一も二もなく、そのファイルを再生した。すぐに動画が始まった。どうやら、手術直前に、この病室で録画したものらしい。まだ元気な時のみなみが現れた。熱いものがこみ上げてくる。
「秀喜くん」
画面の中のみなみが話し掛ける。話し始める。
そして、彼女の言葉は俺を目覚めさせるのに十分だった。




