1-1 新生野球部監督になりなさい
「おう、清原か。良く来たな。まあ入ってくれ」
久方振りに会った星野監督が気さくな笑顔で出迎えた。野球部の部室も含めて、ずいぶんとご無沙汰だったが、懐かしいという気持ちは不思議となかった。
「まあ、そこに腰でも下ろせ。な?」
言われたとおりに監督の前のパイプ椅子に坐った。あらかじめ人払いされていたようで、俺たち二人以外、ここには誰もいない。
「いや、しかし髪伸びたな、おまいさん。水も滴る良い男っぷりだ。はっはっは」
あの大会から季節はめぐり、今は秋も深まっていた。野球から遠ざかっていた俺の髪はずいぶんと伸びていて、監督の言葉はそんな今の俺を見ての反応だった。
「すいません監督」
「いや、責めてるワケじゃねえよ。純粋に褒めてんだ」
言って星野監督はまた豪快に笑った。その笑い声はしばらく続き、やがて渇き、そして止まった。二人の間に沈黙が流れた。
「なあ、清原」
やああって監督が切り出す。
「こいつあおまいさん。本気か?」
無骨な指が机の上を示した。そこには白い封筒が置かれている。退部届けである。
みなみの病室で野球を辞める決心をした俺は、星野監督に退部を願い出た。しかし彼はそれだけは頑として受け入れようとはしなかった。休部は認めるが退部だけは自分の監督生命を賭けても許さない。そう言った。それではけじめの付かない俺は、退部届けを職員室の彼の机に一方的に置いてきた。それが今日のことである。そのことで呼び出しを受けたというのが、ここで二人が向かい合ってる理由だった。
「本気です。俺はもう野球はしません」
俺は宣言した。かつて顧問だった男は、ツーアウトなのにスタンドにボールを投げ込んでしまった外野手のような顔になった。
「清原よ。おまいさんがいなくなって、みんな落ち込んでやがる。チーム全体がおまいさんを必要としてるのがわかるか?」
「はあ」
元顧問の熱弁にも俺は気のない返事しか出来なかった。
「はあ。じゃねえよ。おまいさん、このままじゃ秋季大会の結果は目に見えていやがる。戦力じゃねえ。士気の問題だ。それだけおまいさんの求心力が必要なんだよ」
「…………」
「いいか、このままじゃ地区予選敗退もありえる。うちがっ! 甲子園出場が当たり前の天下の阪南学院がっ! 予選敗退ってこれがどういうことかわかるか?」
「春の甲子園に出場できないということです」
「んなこと言ってんじゃねえんだよ! おれが言いたいのはなあっ。チームにはおまいさんが絶対必要だってことだ! おまいさんはスペシャルで特別な人間なんだ!」
「…………」
「いいか? 特別ってのは何も高校球児としてじゃねえぞ。野球人としてだ! おまいさんはいずれ球界を背負って立つ選手になる。いや、球界の歴史を変える大選手になる。それは約束された未来なんだよ!」
約束と言う言葉だけが頭に残った。
「監督」
「なんだ」
「この世には果たされない約束だってあると思います。自分はそれを知っています」
星野監督が勢いを失ってしおれた。
「……なあ、清原よぉ。マネージャーは――みなみちゃんは残念だった。でもな? それはおまいさんのせいじゃないだろう。ちょっと自分に厳しすぎやしないか?」
「そんなことはありません。全ては自分の傲慢が招いたことです。自分があんな約束をしなければみなみはああならずに済んだ」
「かーっ! 頑固小僧が! もっと甘くていいんだよ! 誰がおまいを責めれるか」
「もう決めたことです。自分はみなみを傷つけた自分の野球を封印します。それが自分の中でのけじめです」
野球が嫌いになったわけでは決してない。だけどもう自分がプレイすることは永久にないだろう。俺がみなみにトドメの一球を投げたようなものだから。
「清原。おまい、まさかイップスじゃねえだろうな」
監督の顔が凍りついた。
「さすがにそれは違いますよ」
自分がプレイするということに対して禁忌を課したのだ。それは精神的な理由で運動能力に支障をきたす一般的なイップス症状とは違うと俺は知っていた。
「そうか……ならいいんだ」
日焼けした顔にシワが刻まれた。サングラスの奥の目は細められていることだろう。
この恩師は心から俺のことを案じてくれているのだ。それは純粋に嬉しかった。
星野監督が長い息を吐いた。
「なあ、清原。考え直す気はねえか?」
「ありません」
「その割にはトレーニングは続けてるみたいだな。夏より体が出来てるようだが?」
「それは……日課のようなものです。あとは、自分に対する戒めでしょうか」
部の練習から身を引いた俺だったが、それでも自己鍛錬は怠らなかった。いや、野球部の活動がなくなった分、前以上に自身の練磨に励んだ。それは身体に染み付いた習性に近かった。しかしそれ以上に、自分の肉体をいじめればいじめるほどにその痛みが、俺の見えない罪を攻め立ててくれるようで心地よかったのだ。
だから監督が指摘したのは単なる贖罪の副産物に過ぎない。
「そうか……まあ何だっていい。……なあ、清原よう。一応聞いておくが、仮に。仮にだぞ? 野球を辞めたとしてだ。おまいさん、これからどうするつもりだ?」
「決めています」
「ほう?」
「大学に行って、卒業したあとは公務員になります」
「かっ! そりゃ才能の無駄遣いってもんだぜ。 一応、大学って、どこ目指す?」
俺はその大学の名を言った。
「はーっ! 確かにな。おまいさんの成績なら十分圏内だな。頭も良いってんだから、おみそれしちまうってもんよ」
一応ではあるが、俺は学業の方もおろそかにしないでいる。文武両道を校風とする我が学び舎は強豪ぞろいのクラブ精鋭たちと、難関大学への高い合格率で有名な府内指折りの進学校だ。一学期の期末試験、俺は学年三位という成績だった。彼はそのことを言っているのだ。
「まったく、神様って奴も気まぐれだよな。見た目は良い。スポーツ万能。勉強も出来る。その上ユーモアもあって人気者。ニ物も三物を与えやがるんだから」
「……ですが一番ほしかったものは与えてもらえなかった」
「おいおい皮肉るな。やっぱ大分ナーバスになってやがんな清原」
「……そうでしょうか」
あの日から時間も経過して、俺の心は安定を取り戻したと思う。確かに動揺はした。狼狽もした。しかし表面上の態度には決して出さないようにしてきたつもりだ。
自身の愚かさを他人にぶつけるなど考えられなかったのだ。そのつもりだった。
監督の指摘にほんの少し思索を巡らせてみる。みなみを失ったことで、俺は以前の自分とは全く同じとは言い切れなかった。やはり、ふとした瞬間にそうした負のオーラがにじみ出ているような気がした。星野監督はそんな微妙な差異を感じ取ったのだ。
改めて名監督の洞察力にはかなわないと感じた。
「ま、気にするほどじゃねえさ」
言って星野監督は息をひとつ吐き、退部届けを尻のポケットへ無造作にねじ込んだ。
「あの、星野監督。それで自分の退部の件ですが」
「……少し考えさせてくれ」
それでその日は帰された。去り際に見た監督の苦悩の横顔だけが妙に記憶に残った。
「それで、我が弟は野球部はどうしたのかしら」
帰宅した俺をリビングで出迎えた姉さんが開口一番そう言った。
俺は退部届けを出したこと。そして、部室でのやり取りを説明した。姉さんは「ふぅん」と言って俺を見つめた。
引力のある黒い瞳に俺は捕らわれる。キャッチャーミットに収まったボールのように。
長い黒髪。白くきめ細かい肌。スラリとした肢体。姉、清原羽衣は弟の俺から見ても美しい人で、人を惹きつける魔力のようなものを持っていた。
仕事から帰った姉さんはシャワーを浴びていたようで、艶やかな髪は濡れそぼっている。白いワイシャツに下着だけという姉はバスタオルで髪を拭きながら言った。
「星野監督は考えさせてくれ、と言ったのね?」
「はい」
「それがどういう意味か分からない我が弟じゃないわね」
バスタオルを乱雑に放り投げ姉さんはソファに身体を沈めた。
シャツの裾から組んだ足の白い太ももと下着がチラチラと目に入る。
「……姉さん。はしたないですよ。やめて下さい」
俺は姉のたたずまいを嗜めた。妙齢の女性がする格好じゃない。
「あら、もしかして、実の姉に欲情しちゃう性的倒錯者だったの? 我が弟は」
姉さんがからかうようなことを言った。それどころかシャツのボタンをいくつか外し、わざと胸元を大きくはだけさせるという蛮行に出た。思わず赤面してしまう。
「はぐらかさないで下さい!」
「貴方こそはぐらかさないで頂戴」
俺の抗議に姉さんが言葉のカウンターを繰り出した。冷気をはらんだその声に俺は直立不動の姿勢になった。俺は姉さんには弱いのだ。
「我が弟に命じます。そこに座りなさい」
「は、はい」
指示されるように従う。ちなみに姉さんが指した場所は向かいではなく真横だった。甘い香りが漂うその場所に俺は腰を下ろした。
「よろしい。話を戻すわね。監督が考えさせてくれと言った理由は分かってるわね」
「はい。自分に野球部に戻るように再考を促したのだと思います」
「そうよ。もちろん貴方に戻ってほしい理由。それも分かってるわね」
もちろん分かっていますと俺は答えた。監督が惜しんでくれたのは部の戦力としてじゃない。彼が惜しんでくれたのは俺の才能と可能性をひっくるめた野球人生全てだ。
「分かってるのね。じゃあ話を進めます。貴方は本気で野球をやめたいの?」
「はい」
監督とも繰り返された問答である。何度聞かれても答えは変わらない。
「それはみなみちゃんのせい?」
「みなみのせいじゃありません。俺のせいです」
姉さんが嘆息する。紅茶の香りがした。
「一応聞くわ。それはどうして?」
「あの時、みなみの病室で言ったとおりです」
聞いた姉さんは、若干水分を残した長い髪をサラリとかき上げた。絹の黒髪が流れ、蜜の匂いが広がった。しばらく髪を弄んだ姉は身体を傾け、こちらに向き直った。
「ひとつ言っておくけど、みなみちゃんの身体のことと貴方の野球には何の因果関係もないわ。それは十分承知よね」
「ですが無謀な約束を引き受けた自分の軽率さが招いた結果に違いありません。自分が安易に約束なんてしなければ、あいつは無理に手術なんて受けなかった」
元々、成功の望みが薄い手術だったのだ。そんな無謀な賭けにみなみを追いやったのは俺なのだ。その事実は変わらない。
姉さんが憐れむような声を出した。まるでチームが逆転負けを喫する原因となったタイムリーエラーをしでかした選手にかける声で、「本気でそうお考えなのかしら」と言った。そして「我が弟ながら本当に女心が解らないのね」と嘆いた。
「どういう意味でしょうか」
「気にしないで。要するに確証バイアスに捕らわれて病んでいるようね。我が弟は」
姉さんはそれだけ言った。どういう意味かと尋ねても返事はなかった。
「ねえ」
しばらくして姉さんが言った。
「こうは考えられない? 今回は駄目でも、次の甲子園でもう一回優勝すれば奇跡が起こってみなみちゃんが回復するかもしれない。そう考えられないかしら?」
「奇跡……ですか?」
俺は眉をひそめた。
「そう、奇跡。私はスポーツが好きよ。特に野球は大好き。なぜならば奇跡が起こるスポーツだと思うから。そして貴方は奇跡を起こすと信じてる」
理知的な姉の意見とは思えない非科学的な言葉だった。まあ今の俺ほどではないが。
「だから私は貴方には野球を続けてほしいと思う。続けるべきだと思う。みなみちゃんのためにも」
「みなみのため……?」
「そう。あの子は本当に貴方が好きだったわ。グラウンドで八面六臂の活躍をする貴方が好きだった。いつも言ってたわ。秀喜くんは野球の神様に愛されてるんだって」
「はっ」
みなみの言葉の代弁だというのに俺は鼻で笑ってしまうのを止められなかった。
「野球の神様か。きっとそれは死神みたいな姿なんでしょう」
言って気づいた。俺の中ではいつの間にか、自分と言うフィルターを通した野球イコールみなみを奪った敵と言う図式が出来上がっていたのだ。
姉さんが少し悲しそうな顔をした。滅多に見せないその表情に俺は戸惑った。
「秀喜」
名前を呼ばれてドキリとする。姉が俺を名前で呼ぶことは少ない。そしてそうする時は決まって大事な時だと知っていた。
「貴方、少し変わってしまったわ」
「……姉さんまでそう思いますか」
星野監督にも同じことを言われたことを伝えた。
「変わったわ」
「どういうところでしょう」
「そうね。以前の貴方ならもっとウィットに富んだ返事をしていたわ。たとえばさっきなら、野球の神様だけじゃなくて、美の女神の姉さんにも愛されてますよ。くらいのことは言っていたわね」
「……」
姉の指摘が、割と俺のやわらかい場所を突き刺さり言葉を失ってしまう。言われてみれば確かに以前なら、そうした言い回しをしていたかもしれない。自分では気づけない変化だった。
「すみません姉さん。やはりまだ精神的に不安定な部分があったのかもしれません」
「仕方ないわ。あれだけのことがあったんだもの。みなみちゃんが貴方を好きだったのと同様に、貴方がどれだけ彼女を大切に思っていたのか私は知ってるつもりよ」
「……姉さん」
姉は瞑目し、五秒きっかり沈思黙考してからポツリとつぶやいた。
「我が弟には心のリハビリが必要のようだわ」
「は?」
「いえ。こちらの話。ところで」
姉が話題を逸らした。
「我が弟は野球が嫌いになってしまったの?」
嫌いになったわけではない。スポーツとしての野球は今でもとても好きだ。これからもナイター中継は見るし、タイガースのファンもやめない。
ただ自分がプレイする、それだけにタブーを課した。それだけだった。
「成る程。良く分かったわ。つまり我が弟は野球自体は好きなのは変わらないけど、今後は選手として関わるつもりだけはない。と」
「はい」
「もう一度確認するわ。貴方は選手としてプレイするつもりはない。逆説的に言えば、それ以外は今までどおり野球とは関わり合いを持てる。そういうのね」
「はあ……そうなります」
姉が静かに笑った。嫌な予感がした。
「あ、あの姉さん?」
「私の仕事ってね。意外と忙しいの」
「は?」
唐突に姉さんが切り出した。我が姉、清原羽衣の職業は教師である。
そして、才媛の彼女が職場に選んだのはなんと、俺の通う阪南学院の中等部であった。
現在、彼女は中学一年生の担任として多忙の日々を送ってるらしかった。
「うちの学校ね。小中高大と一貫でしょう。全てに共通する点があるの。わかる?」
「はい。文武両道で、極めて優秀な生徒が集まると言う点でしょうか」
「そうね。だから生徒の自主性が尊重されて自由な気風があるの」
「それは、確かにそのとおりですね。仰られるまで意識しませんでしたが」
「そう。で、そんな雰囲気の中、ある傾向がうちの学校にはある」
「それは?」
「ずばり部活、同好会の新設が多いということ」
話が見えてこない。それがどうしたというのだろう。
「鈍いわね、我が弟は。この春、中等部に新しく野球部が発足したの」
「野球部が……ですか?」
聞いたことがない。いや、それ以前にそもそも中等部には野球部が存在したはずだ。かなりの強豪で通っていて、今年有望な新人が入ったと言う噂を聞いた。
それが新しく新設された? 同好会が出来たということだろうか。いや、姉さんは野球部と言った。そんな単純な言葉選びのミスをこの姉が犯すとは思えない。ならばそれは部で間違いないのだ。硬式と軟式に分かれたということか? いや……、
「その新しい部の顧問を私がすることになったの」
「姉さんが、ですか?」
「そう。貴方の言いたいことは分かるわ。野球は素人。教師としても新人同然のこの私に顧問が務まるのか気掛かりでしょう」
「いえ、そこまでは思いません。姉さんなら万事つつがなく努め上げるでしょう。自分が感じたのは、姉さん以外に他に適任がいなかったのかということです」
そう。姉さんならば、たとえ畑違いの仕事も簡単にこなすだろう。しかし、わざわざ野球未経験者の彼女に任せるほど、うちの学校が人材不足とも思えない。
「……今回のこの件は私が担任してる子たちが関わってるからその流れよ」
「ふむ」
理解できるようなできないような。まあ話の本題はそこではないだろう。
俺は先を促した。
「いずれにせよ新設の部活動は冷遇されるというわけね。主に予算関係」
それはそうだろう。運動系の部活は意外に金がかかる。部が新しく設立されるたびに予算をまわしていればキリがない。それが野球部ならば尚更だろう。用具一式、それらを保管する場所。グラウンドの使用許可など数多の問題が立ちはだかる。
「まあ部費と部室と用具一式と、それらを保管する場所と、グラウンドの使用許可は私が解決しておいたわ」
姉がふわりと髪をかき上げた。
「ほとんど解決してるじゃないですか」
「そうよ。でもね。この私がどうしても解決できなかった問題が一つだけあるの」
「…………」
その先は言わなくても分かる。だがそれが意味することは……。
俺の頭で危険信号が点灯する。
「我が弟はもう気付いているようね。答えはズバリ、指導者――――監督よ」
脳内を警戒アラームが鳴り始めた。まさか…………。
「姉として我が弟に命じます」
脳の発令所が第一級戦闘配備を敷く。この流れは。
「新生野球部の監督になりなさい!」
嫌な予感は的中した。
「ちょ、ちょっと待ってください姉さん!」
「何かしら」
「何かしらじゃありません! なぜ自分なのです! 自分は一介の高校生です。相手が中等部とはいえ監督なんて務まりませんよ!」
「問題無いわ。顧問はあくまで私。この清原羽衣が全責任を負います。その私が部全体の采配をふるえる人間として必要な人材を外部から招聘しただけ」
「だったら姉さんが全部すればいい! 我が姉なら、一ヶ月の研究と一週間の実務だけで一流の野球指導者になれるはずだ」
「嫌よ。私、野球嫌いだもの」
「ちょっ!」
言ってることが滅茶苦茶じゃないか。さっきは野球は奇跡が起こるスポーツだから好きとか言ってなかったか? まさに奇跡的な変節だ。
「誤解しないで。私が嫌いなのはあくまで監督や指導者として携わる野球よ。スポーツとしての野球は大好き。観戦したり、応援したり。貴方と同じで」
「うっ」
予想もしなかった反撃に俺は思わずのけぞった。そんな俺に追い討ちをかけるように姉さんは覆いかぶさって身体を預けてくる。雪のように白い胸元がギリギリまで露わになり、目のやり場に困った。慌てて視線を逸らすと、そこに姉さんの悪戯な笑みがアップで迫っていた。
「な、なにを」
「貴方さっきハッキリ言ったわよね。選手としてプレイするつもりはないけど、それ以外なら今までどおり野球と関わりを持てるって」
ハメられた。語るに落ちるとはこのことだ。よりにもよってこの姉相手に言質を取らせてしまった。清原秀喜最大の不覚なり。何とか抵抗を試みなければまずい。
「姉さん、それは」
「監督として他の選手を育てるのは選手としてプレイすることにも試合で活躍することにも当てはまらないわ。やりなさい」
「いや、やりなさいって」
「秀喜」
渋る俺の頬を姉さんは両手で柔らかく包む。上気した姉の顔がさらに近づく。熱を帯びた甘い息がなまめかしく感じる距離。女としての姉の姿がそこにはあった。
「ね、姉さん?」
「聞いてくれる? 秀喜」
憂い顔の唇が動く。
「私ね。まだ処女なの」
「はいっ!?」
突然のカミングアウトに声が裏返る。一体何を言い出すんだ、この人は!
「私、今年で二十三よ? それなのにキスすらまだなの。それどころか男の人と付き合ったこともないのよ? どうしてだと思う?」
「し、知りませんよ、そんなこと」
美人の姉にいまだ異性経験がないというのに驚いたというのが率直なところだ。弟としての贔屓目を差し引いても姉は魅力的だと思う。百人に聞けば九十九人がこの人を美しいと言うだろう。そして残りの一人は同性愛者に違いない。
あまねく世の男性は美しすぎる姉に対して近寄れないのだろう。
「貴方の考えはたぶんハズレよ」
「え?」
俺の思考を見透かした姉が言った。
「私が男性に縁がなかったのはね。忙しかったからよ」
「は、はあ…………」
それもあるのかもしれない。というかそろそろ手を離してほしい。いまだに俺の顔は姉さんのきめ細やかな手にサンドイッチされたままなのだ。願いが通じたのか姉は手を離した。しかし、どの手が今度は俺の後頭部に伸び、巻きつけるようにしてきた。
二人の距離がさらに縮まる。俺の胸で姉さんの雪の肌がマシュマロのように押し潰されるのを感じた。
「私の仕事ってね。意外と忙しいの」
話が少し前に戻った。すべての理由はここにつながるのだろう。というか近い。
「この上さらに部活の顧問なんてもっと多忙になっちゃうわ」
「だから知りませんって」
二人の吐く息が熱を持ち、湿って絡まる。
「このままじゃ一生彼氏ができないかもしれないのよ?」
濡れたような瞳が近づく。
「秀喜はお姉ちゃんが行き遅れても平気なの?」
切ないような泣きそうな姉の顔。ズルイ。その顔は卑怯だ。演技とわかっていても騙されてしまう。もう限界だった。
「ああっ! もう分かりましたよ! やればいいんでしょう、やれば!」
迫る姉を強引に押し戻して俺は言った。焦りと緊張で乱れた呼吸が止まらなかった。
「それでいいのよ。それでこそ可愛い我が弟だわ」
シャツのボタンを整えながら姉が言った。先ほどとはうって代わって、今の顔は少女のような笑顔だった。とても敵わない。完全に手球に取られている。
俺は姉さんには弱いのだ。
「それにしても惜しかったわ」
「は?」
「これだけ迫って断られたら、描写が困難な近親相姦ルートに突入していたのに」
「…………」
俺は姉さんには本当に弱いのだ。もうこれからは下手に逆らわない方がいいだろう。
「さてと」
いつの間にか身だしなみを整えた天敵が、こちらを向いて立っていた。
「我が弟、清原秀喜」
「はいっ」
俺も立ち上がって気をつけした。
「改めて命じます」
腰に手を当て、ビシッと指を突きつけながら姉は宣言した。
「貴方を本日付けで、新生阪南学院中等部野球部の監督に任命します」
こうして俺は姉さんの思惑通り、新設野球部の指導を引き受けることとなった。
この時の俺はまだ気づかない。この時点ですでに清原羽衣という深謀遠慮の術中にはまっていたことを。
俺はまだ知らない。この選択こそが俺を含む大勢の人たちの運命を変えることを。
今から考えれば、この日が本当の意味での奇跡の始まりだったんだ。