3-6 決裂。すれ違う二人。
マウンドに立った由比はもう泣いてはおらず、涙の跡が残るその顔は、まぎれもないエースのそれだった。舐めて掛かれる相手じゃない。直感的にそう判断した俺は、この対決に全力を注ぐべく全神経を集中させた。もう今の俺には勝負以外には存在しない。みなみのことも、由比の涙も、もう一人の俺の声も、今だけは何も感じない。
豪快なワインドアップから由比が第一球を投げた。インコースえぐるような伸びのある直球だった。速い。
「ストライク」
ミカヤがそう告げた。
今の一球はワザと見逃したわけじゃない。打ちたくても手が出せなかったのだ。予測できなかったわけでも決してない。いや、むしろ俺は一球目は確実に全力ストレートがくると読んでいた。なのに微動だにできなかった。させなかった。この一ヶ月ほどの間に由比はさらなる進化を遂げていたのだ。投手由比との戦いは、フルカウントまでもつれ込んだ。甲子園でも、ここまで手こずった相手はいなかった。
「この一球で終わりよ!」
マウンド上の由比が吼え、渾身の一球を放つ。長い腕がしなり、蹴った地面が土を跳ね上げる。何が来る? ストレート。ツーシーム。スライダーにカーブ。
ボールが指先から離れる。一直線に向かってくる速い球。ストレートだ!
そう判断した俺は、絶妙のタイミングでスイングを開始した。バットは白球を捕らえ、ボールはライトスタンドへ飛び込む。――はずだった。
「なっ」
スイングを始めた俺の目の前でボールが突然消えた。
否。決して消えたわけではない。縦に鋭く割れたゆえに、消えたように映ったのだ。
魔球SFF。正式名スプリット・フィンガード・ファストボール。俗にスプリットと呼ばれる高速魔球の一つだった。
まさか、これほどの隠し球を持っているとは想像だにしてなかった。
まずい。直球と同じくらいのスピードで打者の手元で突然縦に割れるその変化に俺のバットは空を切りかける。その最後のタイミングで、俺は状態をわずかに傾け、すくい上げる要領で強引にスイングした。上体だけの力で、無理やり捕らえたボールはライト方向へと飛んで行く。思い切り泳がされたせいで、飛距離は出ていない。普通の球場だとフェンスダイレクトだが、甲子園だと守備範囲の広いライトフィールダーが深く守っていれば下手すればアウトだ。そんな納得のいかない打球だった。
「ツーベース。清原秀喜の勝ち」
淡々とミカヤが俺の勝利を告げる。俺の中では実質敗北と同義の勝利だ。
「投打交代よ!」
気が付くと由比がすぐそばまで来ていて、俺のバットをひったくり、代わりに自分が使っていたグラブを俺の手に押し付けた。今の勝負、由比はどう思っているのだろう。口をきつく真一文字に結んだ固い顔からは何も読み取れない。
「なあ、由比」
「黙れ! 表はあんたの勝ちよ! わかったらさっさとマウンドに立て!」
取り付く島もない。俺は仕方なく、明度の落とされた照明が映し出す、仄暗い土の山へと向かった。
かねてよりの曇天は今やすっかり太陰を覆い隠していた。
深夜のグラウンドで愚かな男と、そのバカに振り回された二人の少女が向かい合っている。ロマンなど何もない。俺の優柔普段と欺瞞の代償でしかない断罪のマウンド。
「由比。聞いてくれないか!」
「聞かない! さっさと投げろ!」
第一球。ストレート。見逃し。ストライク。
「俺は由比に、みんなに謝りたいと思ってる!」
「うっさい投げろ!」
第二球。ストレート。見送り。ボール。
「俺は、俺はこんな勝負なんてしたくないんだ!」
「まだ言うか! この臆病者!」
第三球。カーブ。見送り。ボール。
「俺はみんなを利用した。それは許されることじゃないって分かってる!」
「分かっててやったなら尚、たち悪いわよ!」
第四球。高速スライダー。カット。カウント、ツーツー。バッティングカウント。
「でも、俺の事情を少しくらい理解して欲しいんだ!」
「事情なんてみんな持ってるわよ! 自分だけ特別なつもり?」
「違うんだ! 俺は」
「投げろ!」
第五球。フォーク。反応しかけた由比がピクリと動く。ボール。フルカウント。
いつの間にか由比が構えを解いていた。
「一つ言っておく。別にあんたが何が目的であたしたちの監督になったかなんて本当はどうでも良いの」
「そう、なのか……?」
「そうよ。それが何であれ、ミカヤもまほろも莉乃もひまも、あたしだって理解するし納得するわ。あんたが野球やめたいってんなら誰も止めない! 止める権利なんてないと思う!」
「それなら」
「でも野球をやめる理由が許せない!」
由比が一際大きく叫んだ。その声に呼応するかのように近くの雲が轟いた。
「みなみって人との約束は別に良いの。でも、その後が何!? 手術のせいで彼女の目が覚めなくなったから、その責任を取って野球をやめる? おかしいんじゃないの!? 手術の成否なんて、あんたに何一つ責任ないじゃん! どんな理屈よそれ!」
「俺は……みなみは俺の驕りのせいでああなったんだ! そうでなくば俺はあんな約束なんて受けなかった! 手術なんて受けさせなかった!」
「違うっ!」
由比がかぶりを振った。セミロングの艶やかな髪が左右に、乱暴に流れた。
「それ自体おかしい! あんた彼女の気持ち分かんないの!? みなみさんがどんな気持ちでそんな約束したか、あんた本当に分かんないわけ!?」
「由比! いくらお前でも、あいつのことを語るのは許さないぞ! 何も知らない人間がみなみを語るな!」
「語るわよ! あたしにはその人の気持が分かるから言ってんのよ!」
「何が分かる!」
いつの間にか俺の声も大きくなっていた。
一体何俺はムキになってるんだ? 中学生の感情的なたわごとだぞ。それなのにどうして、こんなに胸がざわつく。本当にたわごとか?
俺の心をえぐりながら由比の言葉は続く。
「分かるわよ! みなみさんはね。始めから手術を受けるつもりだったのよ! 本当は手術を受けたくて、でも一人じゃ恐くて、そんな約束をしたのよ! あんたに勇気をもらうためにね! 違う!?」
違わないんじゃないか?
「いや、でも、しかし……目覚めなくなる可能性もある手術なんだぞ」
言って俺は後悔した。由比がまた、泣いていたからだ。
「それが何? 失敗するかもしれないから何? あんたみなみさんのこと好きだったんでしょ? みなみさんだってあんたのことが好きだったんでしょ? だからそんな無謀な約束ができたんじゃないの!? あんたのことが好きだから、賭ける価値があったんでしょ!? ……何で? 何であたしがこんなこと言ってんのよ…………どうして、あたしがこんなこと言わないといけないの? あたし。あたしだって……」
言葉の最後はおえつに呑み込まれていった。四番を張る強い少女がバッターボックスで惨めに泣いている。
「由比……俺は」
「ずっと。ずっと見てたのに……いつか絶対追いつくんだって決めてたのに……あたしだって。あたしだって、ずっとあんたのことが」
雷鳴。
「――だったのにっ!!」
視界が反転し、由比の泣き顔がはっきりと映った。ついに空が破けたのだ。
天からの雫は、少女の涙を洗い落とし、愚かな男を打ち据える。雨に打たれながら、俺たちはしばらくの間、立ちすくんでいた。やがて由比がバットを構え直した。
「最後にもう一つ言っておくわ」
濡れた顔で由比が言う。その表情はもう、能面のように無表情だった。
「あんたがね。野球をやめた理由ってのも本当は嘘よね」
「嘘じゃ……」
嘘だよな。本当は俺は――――。
「嘘よ。ハッキリ言ってやるわ。あんたはね。ただ不貞腐れてるだけなのよ! みなみさんのヒーローになれなかったからってスネてるだけなのよ! そんで戦うことから逃げたのよ!」
「――――っ!」
ついに決定的な一言を由比は言い放った。
「俺は……俺は…………」
「早く最後の球投げなさいよ!」
由比の怒声に俺は一瞬、自分を取り戻す。
そうだ。投げねば。投げねば俺は、みなみに――由比に。
モーションを開始する。腕を振りかぶり、足を上げる。大きく広げた左足で大地を掴み、そこから下半身の力を上半身に伝える。肩から肘へ。肘から手、手から指先へと渾身の力を伝導していく。
俺は。
瞬間。様々な場面が俺の脳裏を駆け巡っていった。
みなみ。約束。甲子園。優勝。もう目覚めないみなみ。退部届。星野監督の悲しそうな顔。姉さんのシャンプーの香りと枕。野球部。個性的な女の子たち。小首をかしげるミカヤ。落ち着きのあるまほろ。屈託なく笑う莉乃。はにかむ向日葵ちゃん。そして――ツンと口唇をすぼませる由比……。
そうだ。由比だ。
今から投げねばならない。彼女に最後の一球を。最後の一球……。そう。
あの甲子園の最終回。最後の打者。フルカウント。あと一球コール。
なぜか姉さんの声がよみがえる。何の脈絡もない、絵と音が次々とよみがえる。
小学校時代の自分。初めての試合で完全試合をした自分。初めての試合で完全試合を逃して悔しそうな由比。新生野球部での練習の日々。ランニングのテーマソング。病室のみなみ。由比の腹パンと桑田の怨嗟のまなざし。西森淳子と廃部の危機。
上目遣いの由比。笑うみなみ。怒ったような由比。悲しそうなみなみ。甲子園の帰り道で見た初めて知る由比。眠るみなみ。苦しそうな泣き顔の由比。
みなみ。由比。みなみ。由比。みなみ。由比。由比。由比。由比……!
「うおおおおおああああああ!」
全力を注いだ指先から、球体が離れていく。ド真ん中ストレート。降り注ぐ雨を切り裂きながら、珠は白い軌跡を描く。由比がスイングを始める。ストレートが走る。
全ては一瞬のはずだった。なのに俺にはスローモーションのコマ送りに見えていた。
ボールが伸び、由比のバットの上をかすめていく。猛烈な球威の暴力が小さなキャッチャーの大きなミットに吸い込まれていく。ぬかるんだ土にバランスを崩した由比が転倒し、バッターボックスで四つん這いになった。
「スイングアウト。清原秀喜の勝ち」
何の感情もない声で、審判は告げた。
俺はつくばったまま、微動だにしない由比に駆け寄った。
「由比。大丈夫か!」
「うっさい! 触んなっ!」
差し伸べた手をはたいて由比が顔を上げた。その顔は雨水と跳ねた泥でぐちゃぐちゃだった。服もそれ以上に土みどろだった。身体に張り付いたシャツと、顔にくっついた幾筋かの髪が言葉に出来ないほど切なく、哀れで、一層俺の心は締め付けられた。惨めな姿で少女は、力を感じさせない動きで立ち上がった。
「なあ、由比。分かったんだ。俺は」
「知らない! もう知らない!」
由比がかぶりを振る。
「あんたなんか……あんたなんか――――大嫌い!」
二人の溝は決定的に深まってしまった。
「由比……」
心配そうにミカヤがマスクを脱ぎながら立ち上がった。
「ミカヤは何も言わないで! あたし、あたし、もうワケ分かんないっ! もうあんたなんか顔も見たくないわ! 二度と来んな!」
そう言って由比は駈け出した。
「あっ、由比!」
あわてて追いすがろうとする俺の袖をミカヤが掴んだ。
「ミカヤ? 何を」
しかし俺の言葉は乾いた音と衝撃で最後まで言えなかった。
一瞬、状況が分からなくなって頭が白くなる。耳朶を打つ雨音が認識できるようになって、ようやく俺はミカヤに頬を平手打ちされたんだと理解した。
「今のは由比の分。そしてこれが」
もう一発。
「みなみという人の分」
「……ミカヤ」
「由比はわたしが追いかける。あなたは今日はもう帰るべき」
「なあ。俺はどうしたらいい? 明日、いや、もう今日か。今日の試合どうすべきだ? 行くべきか? 行ったとしてみんなに、由比にどんな顔をして会えばいい?」
「それはあなたが決めること」
高校一年の甘えた質問に、中学一年の女の子は言下に跳ねのける。
「でも一つだけ。あなたの中で答えはもう出てるはず。それがどういうものであろうと、わたしはあなたを信じる。信じてるということ」
そう言い残してミカヤは暗闇の中に溶け込んでいった。そして雨のグラウンドには、俺一人残された。俺は力なくうなだれ、立ち尽くすしかなかった。
それくらいの間そうしていただろうか。
時間の感覚が妙に曖昧だ。数時間経っていたかもしれない。数分かもしれない。雨振る深夜の校庭で、俺は一人立ちすくんでいた。結局、前後不覚な俺がかろうじて己を取り戻したのは、身体に降り注ぐ雨水を感じなくなったからだった。
「秀喜。ずいぶんと濡れネズミね」
「姉さん……」
見ると傘を差し出してくれる姉さんがいた。
「情けない声出さないでくれるかしら。水も滴る良い男が台無しよ」
「姉さん。自分は最低です。みなみだけでなく、由比まで傷つけてしまいました。みなみだけじゃなく、由比まで失ってしまった。……俺は」
「自問自答は帰ってからにしなさい。こんなところにいたら肺炎になるわ。車をすぐそこに用意してあるから早く来なさい」
「今日は当直じゃなかったんですか」
「電話でお願いして、他の先生に代わってもらいました。抜かりはないわ」
「すみません。俺なんかのために」
「他ならぬ貴方だからよ」
そう言って姉さんは俺にもう一本の傘を渡し、手近な荷物をまとめて歩き始めた。
傘を開いた俺は姉さんに追いすがった。
「姉さん。荷物は俺が持ちます」
「今の貴方にこれ以上、荷を背負わせるつもりはないわ。とにかく、貴方は帰って、シャワーを浴びて寝るのよ。これは決定事項です」
こうして俺は姉さんの運転で、自宅へと帰され、そのままシャワーを浴びた。冷えた身体に熱いお湯は心地よかったが、それでも俺は眠ることは出来ないだろうなと思った。そしてやっぱり。その通りだった。
「ねえ秀喜くん。わたしと約束しない?」
恋人のみなみがそう切り出したのは、丁度俺たち野球部が甲子園出場を決めた日だった。みなみは久しぶりの発作が出たせいで、検査入院していた時だった。この日の俺は地区予選優勝および甲子園出場の報告を兼ねて、みなみの病室を訪れたのだ。
病室には俺たち二人きりだった。
「約束? どんな?」
甲子園出場を決めた俺は少し浮かれていたと思う。この時も軽い気持ちだった。
「うん……」
みなみは少しうつむいて、言い難そうにした後、おもむろに顔を上げた。一頃よりだいぶ顔色は良くなっていた。
「まず、秀喜くんは甲子園で優勝します」
「おーおー好き勝手言いなさる」
「最初から優勝する気マンマンのくせに」
「はは。やるからにはベストを尽くしてトップを狙いたいからな」
「うん。それは良いことだと思います」
「それで? そんなハードルの高い条件に対してみなみは何をするんだ?」
「わたし? わたしはね……」
みなみの白い喉が動く。
「わたしは手術を受けます」
「なっ」
その話に俺は絶句するしか無かった。
「わたしからの提案はね。わたしが手術を受けることです。そして成功して秀喜くんの優勝報告におめでとうって言ってあげることです。どう? これで釣り合う条件じゃない? 秀喜くんが甲子園で戦ってる間に、わたしは手術を受けて、秀喜くんは優勝して帰って、わたしも無事生還するの。それで、お互いおめでとうって言い合うの。何となくドラマチックじゃない?」
「何言ってるんだ!」
俺の語気は少し荒かった。みなみが目を丸くしたのを覚えてる。
「秀喜くん?」
「すまん。少し声がでかかった。でも何がドラマチックだ。手術はそんな簡単なものじゃないだろう? 失敗したら……失敗したら大変なことになるんだぞ」
死ぬという言葉は恐くて使えなかった。
「それに成功したって目覚めない可能性があるって医者の先生が言ってたぞ? 知らないわけじゃないよな? 手術なんてしなくても、今のままで何とか生きていけるって先生言ってたんだから、それで良いじゃないか」
「何よ秀喜くん。わたしが健康になりたいって思っちゃいけないワケ?」
「い、いや……そういうつもりじゃ…………」
彼女が口を尖らせたので、俺は言い淀む。その間隙をぬってその舌鋒が滑りこむ。
「それとも何かな? 秀喜くんは甲子園で優勝する自信がないのかなー?」
「なにっ」
「そうだよね。わたしの手術は成功するけど。秀喜くんはボコスカ打たれて負けちゃうもんね。そりゃわたしに会わせる顔もないよねー」
その挑戦的な目と挑発的な口調に、思わず俺は売り言葉を買ってしまった。
「そんなことないぞ! 俺は勝つ!」
「だったらわたしも病気に勝つよ!」
みなみの切実な叫びが病室に響き渡った。彼女が大きな声を出すのは珍しい事で、俺は少したじろいでしまった。
「みなみ……?」
「ねえ、約束して。絶対甲子園で優勝するって。わたしも約束するから。絶対に秀喜くんにおめでとうって言えるように、手術に耐え切ってみせるから」
「…………みなみ」
「お願い」
半ば挑戦するようなやりとりと、哀願するような、その切ない表情に俺は「分かった。約束する」とそう言ってしまった。
それが悪かったのかどうかは、この際問題じゃない。
重要なのは、みなみが目覚めなくなったという事実だけだ。