3-4 デートのお誘いです。
ミーティングの後、シャワーを浴びた俺は帰路につく所だった。
今頃あの娘たちはまだシャワールームだろう。女の子は男の俺よりも時間がかかる。
一緒に帰るわけでもないのに、待っているというのも逆に不自然だし、俺は中庭を正門に向けて歩き始めた。すでにずいぶん暗くなっている。
「今日は早かったのね」
駐車場の付近へ差し掛かった時、いつものように姉さんの声が掛かった。周囲の暗闇から溶け出てくるように、突然現れる姉の羽衣はもうお馴染みだ。そして、そんな麗しき怪人の愛車で帰宅するというのもまた、ここ最近のお決まりだった。
「もう試合も控えてますし、無理させてケガでもさせちゃ元も子もないですからね」
「そう。貴方が判断することだから、それでいいわ」
「はい。じゃあ帰りましょう」
「そうね。……いえ、ちょっと待ちなさい」
傍らの愛車にキーを刺そうとした姉の手がピタリと止まる。そのまま彼女は振り返り何もない中空を、方角としては部室棟のある方を見詰めていた。ややあって。
「ねえ、秀喜」
「は? 何ですか?」
「ちょっと聞きなさい」
俺を正面に捉え、姉さんは語り始めた。姿勢を正してしまう、そんな表情だった。
「私ね、思うの。最近、貴方がまた明るくなったなって。いいえ、別に一頃陰気になってたということはないわ。でも、努めて明るく振る舞おうとしてるって感じることがたまにあったの。それがあの娘たちの面倒を見るようになってからは変わったわ。気付いてる? 近頃の貴方、みなみちゃんのお見舞いに行くとき、前みたいな思いつめた顔じゃなくなったのよ」
「それは……」
「それだけじゃないわ。みなみちゃんに対する言葉も変わった。前までは自分に対する戒めを延々と呟いてたわ。繰り言みたいにね。でも最近は明るい話題になった。由比と対決したとか、ミカヤと競争したとか、まほろがファインプレーしたとか、莉乃がものすごい大暴投したとか、向日葵が咲いたとか」
「最後だけ違います」
「とにかく、楽しかったこと、それも野球に関することを話題にするようになった。これは大きな違いよ? もう野球はしないって言い張ってた時の貴方と比べるとね。正直ここまでの成果があるとは思わなかったわ。あの娘たちなら……いえ、松坂由比なら、貴方の抑え込んでいる本当の情熱を必ず解き放ってくれると信じてるわ」
「……姉さん、俺は……」
この頃になると、俺は由比たちのいる場所に、引退宣言をした俺を送り込んだ姉と、それを後押しした星野監督の思惑にとうに気付いていた。いや、そんなもの最初から察していた。周囲のみんなは、野球を封印した俺に対し、少しでも野球との接点を持たせ続け、いずれ俺が再起することを期待したのだ。それでも俺は……。
「今はまだ、答えを出す時じゃないわ」
「え?」
「必要な時はすぐに来る。貴方のことも、みなみちゃんのことも、野球部のことも、そして由比たちのことも、どうするかは貴方が決めなさい。全ては貴方次第だから」
「……俺は」
「でもこれだけは言っておくわ」
姉の瞳が黒い。世界も黒い。それなのに姉の言ったその言葉だけは妙な色彩を放って、俺の心に残った。
「もういい加減、人の為になんて偽るのはやめなさい。でないと一生後悔するわ」
「……姉さん」
「もう、こんな時間ね」
わざとらしく姉が腕時計を見る仕草をした。確かパテック・フィリップとかいう。
「丁度、良い感じに時間が稼げたわね。本当はもっと、どうでも良い会話をして引っ張ろうと考えていたけれど、シリアスにやってみたわ」
「はあ?」
急に姉のまとっていたオーラが弛緩したものに変わって、俺は思わず間抜けな声を出してしまった。明らかなボール球をストライクと判定された打者のような声だった。
「時間稼ぎって一体何のですか? 割りと大切な話をしてたと思うんですが」
「冗談だったわけじゃないわ。本気よ。後は一人で考えて頂戴」
言って姉さんは車の鍵を回し、そのまま車内の人となった。俺も助手席へ乗り込もうとしたところ、運転席からストップが掛かった。
「貴方はもう少し、ここで待ちなさい」
「もう少しですか?」
「具体的には後六分四〇秒ほど」
妙に具体的かつ中途半端な数字である。
「一体何があるんですか?」
「野球の神様に聞いてみることね」
そう言い残し、立派な車は派手なエンジン音と共に走り去ってしまった。
なんだか釈然としないものを抱えながらも、俺は言い付けを守るよりほか無かった。
「あ! いた! 清原セ……んんっ。清原!」
しばらくその場で佇んでいたところ、聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
何か最後もごもご言ってた。
「由比? どうしたんだ。そんなあわてて」
見ると帰宅姿の由比がいた。セーラー服という下校ファッションの彼女は妙に新鮮で印象的だった。常夜灯の心もとない明かりさえ、まるでその美しさに共鳴するかのように美少女をライトアップしていた。
「いや。あ、あのね」
「うん?」
映しだされた美少女は、少し前屈み気味でもじもじしている。
「きょ、今日はお疲れ」
「ああ、由比もな。明日はゆっくり休んでくれ」
「あ。うん。……じゃなくて! 明日よ! その明日なのよ!」
何が。
「こっ、これよ!」
由比が後ろ手に回していた手を差し出した。その手にはチケットが握られていた。
その内容を見た俺は興奮を禁じ得なかった。
「こ、これって、明日の日本シリーズタイガース対ホークス戦、甲子園チケットじゃないか! プレミアの! しかも二枚も! ど、どうしたんだこれ!?」
「ひ、秘密よ。重要なのは、この一枚はあんたが使うということよ!」
「俺がか!? 良いのかっ!?」
「い、良いのよ。……あの」
「何だ? ああ、チケット代な。もちろん言い値で」
「ち、違うわよ。お金はいらないの」
「そうなのか? いや、しかしだな」
「これはお礼よ!」
「礼?」
何の。
「その、あ、あんたが来てくれてから今日まで、色々面倒見てくれたでしょ。何の義務もないのに、真面目にやってくれた。キャプテンとしてのお礼なのよ! これは」
「礼なんて……俺が好きでやってるわけだし、元々は」
俺が野球をやめるための交換条件だった。と言う前に由比は遮った。
「あの!」
「ん?」
「め、迷惑とかじゃなかった?」
急に声のトーンを不安気にさせて由比が尋ねた。上目遣いで探るような様子である。
「いや、迷惑なんてとんでもない」
「大切な試合の前に無責任だって思う?」
「いや、全然。むしろプロの試合を見てモチベーションが上がると思う」
「あ、あと!」
「ん?」
由比が急にそわそわし始めた。俺の顔を見ては視線を落とすということを繰り返している。頬も心なしか赤い。それもそうか。何だかんだ言って、由比だって中一の女の子なのだ。中学生女子にとって、年上の男を誘うのは大変勇気がいるに違いない。だから、その心遣いは本心から嬉しかった。やがて意を決した由比が顔を上げる。
「あ、あたしと一緒だけど嫌……じゃない?」
「全然嫌じゃない。嬉しい」
「ほ、本当!?」
「ああ。むしろ俺なんか誘ってくれて有り難い。由比こそ俺と一緒で良いのか?」
「そ、それはその……」
由比はしばらくのごもご言った後、結局「うん」とだけ呟いた。
「そっか。じゃ明日は楽しみにしてるよ」
「あ、あたしも。遅刻したら許さないから!」
「ああ。そう言えば待ち合わせは……そうだ。携帯持ってるか?」
「え。も、もちろん」
「良かったら由比の番号とメアド、登録させてくれないか?」
「い、良いけど」
そう言って由比はカバンから可愛らしいストラップの付いたスマホを取り出した。赤外線を使って二人はお互いの連絡先を交換した。
「とりあえず明日は駅に夕方四時でどうだ? 後は携帯でやり取りしよう」
「う、うん! やった!」
やけに上機嫌な由比である。彼女も熱狂的な虎党に違いない。
「じゃ、じゃああたし。みんなに伝えてくるから」
「ああ」
見ると駆けていく由比の先には仲間たちが勢揃いしていた。どうやら、少し離れた所でキャプテンの勇姿を見守っていたようだ。役目を終えて凱旋した彼女をみんなが労い始める。ミカヤが何か言い、由比とハイタッチを交わし、まほろが由比の携帯を指さし、指摘された本人は大げさに首肯して、莉乃が抱きつき、向日葵ちゃんも真似する。女の子同士の友情というか、彼女たちの絆の深さを感じさせるシーンだった。
それ以上に大事なことに気づく。みんなの不安な気配が綺麗さっぱりなくなっているのだ。実を言うと今日の練習の最中も、ミーティングの時間も、隠し切れない感情を俺は彼女たちの中に見て取っていた。考えてみれば当然だ。彼女たちにとって文字通り死活問題の廃部がかかった試合を目前にしているのだ。そんな当たり前の硬さが、今は取れている。そしてそれは良いことだ。緊張も不安も、弛緩も慢心も勝利には必要ない。必要なのは練習で培った、あるがままのパフォーマンスだけだ。一体何が彼女たちを変えたんだ? 考えられるのはミーティングが終わった後、シャワー室での小一時間の間に何かあったのだ。
……多分だけど、由比のおかげかな。
理屈ではなく、俺は漠然とその考えに至った。
選手たちは勝利に向けて万全の態勢を整えつつあった。
俺の中で再び罪悪感がもたげてくる。
あの娘たちは自分たちのベストを尽くしているぞ。お前はどうなんだ? 中途半端な腰掛けのくせに監督気取りか? いつまでそうやって俯瞰した客観を演じる?
もう一人の俺が非難する。
俺にとってあの娘たちは何なんだ? あの娘たちにとって俺は
「監督!」
思考の隘路に入りかけた俺は、その声で現実に引き戻された。
「ま、まほろか。どうした?」
「あの。その……た、大変恐縮ですし、年上の殿方にこのようなお願いをして、はしたないと思われるかもしれませんが」
生真面目で古風な彼女らしい前置きをしてから
「わ、私にも清原さんの連絡先を教えていただけませんか!?」
言って赤い二つ折り携帯を差し出してくる。デフォルメされた巫女さんと狐の面のストラップが付いている。ガラケーというのがこの娘らしいと思った。
「ああ、こちらこそ。本当はもっと早く聞いておくべきだったな。ごめん」
「い、いえ……その……ありがとうございます」
「せんぱーい! 僕のも交換して下さいよー」
「もちろん」
莉乃の賑やかなカバー付きのスマホとも赤外線を交わす。なんというか、ゲームのキーホルダーやら良く分からない生物のストラップで満載なのが彼女に似合ってる。
「おにいちゃん」
「よしきた。交換しよう」
可愛らしいピンク色のスマホを押し抱いている向日葵ちゃんが先程から切り出すタイミングを伺っているのに気付いた俺はすかさず応答した。愛くるしい天使の個人情報が俺の携帯に入り込んでくる。部員たちの連絡先はこれで一通り……いや、後一人。
「ミカヤも」
「送った」
「え」
その時、俺の携帯が激しく鳴り出した。六甲おろしはメールの着信だった。
見ると知らないアドレスからメールが届いている。
件名:古田ミカヤ
内容:本文はありません。
その代わり添付ファイルに写真が一葉貼り付けてあった。ファイルを開くと、部室で取られた画像だった。そこには部員たちが全員一列に、左からまほろ、向日葵ちゃん、由比、ミカヤ、莉乃の順に並んでおり、なぜかみんなメイド服姿だった。
まほろが恥ずかしそうに伏目がちで上品な笑みをたたえ、向日葵ちゃんがあどけない笑顔で小首を傾げ由比の腕を取り、莉乃は珍しく落ち着きのある正統派の美少女の笑顔を浮かべている。みんなとても良い表情をしていた。そんな中で、特に俺の心を打つ顔があった。それはカメラ目線のミカヤに袖を引かれながら笑う由比だった。
上目遣いで照れながら、それでも笑顔を作る彼女はどこか気品を感じさせ、女の子を意識させた。とても可愛かった。これは一体、どういう状況なんだろう。
「ボツになったあなたの歓迎企画」
俺にだけ聞こえるようにミカヤがポツリと言った。なるほど、背景の垂れ幕に達筆な筆で「祝。清原秀喜監督就任。これからよろしく!」と書かれてあった。俺の心が温かいもので満たされる。――そして一気に冷たくなった。
「みんな。今日はもう遅い。そろそろ帰ろう」
心の動揺を悟られないうちに俺は切りだす。ミカヤだけは何か言いたげだったが何も言わず、他のみんなは用を果たしたという風で俺に従った。結局その日、由比たちとは校門を出た所で方角の違いから別れ、俺はというと少し歩いた所で待ち構えていた姉さんに拾われて帰った。何もかも姉さんはお見通しなのだ。そう思った。