プロローグ
棒野球ゲーム『パ○プロ』のサクセスをイメージをしている最中に考えたた作品です。
全国夏の甲子園決勝戦。
3対2。九回裏ノーアウト満塁。
私立阪南学院一年、清原秀喜は突如崩れた先発の代わりにリリーフとしてマウンドを任された。四球で同点。一打サヨナラ負けの場面である。
「スマン清原……せっかくお前が3点も取ってくれたのに……」
「清原、俺もだ。勝手に四番に坐っておいて一打点すら上げれん体たらくとは情けない……」
マウンドにナインが集まる中、先発だった三年のキャプテンが青ざめた顔で言い、打線の主軸を任されていた先輩も苦しそうに謝罪した。ここまでチームの得点はすべて清原がその打棒で稼いだホームランだった。
「斎藤先輩、大田先輩も気にしないでください」
本心から清原は言った。実際、キャプテンの斉藤はここまで無得点に抑えてきたわけだし打者の大田とてツーベースを一本は放っている。
先輩たちは決勝戦という緊張するこの舞台で健闘していた。
最初から清原を投げさせろという野次が飛んだ。先発斎藤がビクリと肩を震わせる。
「スマンやっぱり全部お前に任せるべきだった……なのにお前はおれたちを立てて」
「先輩。自分は一年です。この舞台に立つ資格があるのは三年の先輩たちです」
「でも、甲子園を勝ち取ったのもすべてはお前の力だったのに」
「みんなの力です。それに先輩を先発に決めたのは監督の采配です」
話はこうである。
本来であれば一年にしてエース格の清原が先発をする予定だった。
清原には圧倒的な実力がある。超大型の天才球児として、小学校の時から既にプロのスカウトが目をつけていたほどの逸材は、強豪私立阪南学院野球部においてなお、絶対的な力を誇っていた。
だから実力でいけば清原が先発のマウンドを任されるのが本来であれば順当な流れであった。
しかし、そんな突出した才能に恵まれた天才は、目上の人間を立てる謙虚さも同時に持ち合わせていた。
千年に一人と称された一年生は自身に与えられたエースと四番を辞退し、特別な意味を持つこの晴れ舞台で三年の先輩たちを立てることを選んだ。強豪率いる名将星野は熟慮の末それを認め、清原を三番サードに据え、先発と四番にそれぞれ別の三年生を起用した、と言う流れであった。
「清原ホントスマン! 後はよろしく頼んだ!」
半ば土下座する勢いで頭を下げた斎藤キャプテンはベンチへと下がっていった。
いくつかの守備固めが行われ、投球練習が終わった。
ゲーム再開である。清原がマウンドに立った瞬間から湧き上がっていたスタンドは、さらに温度を上昇させ、両軍入り乱れての大歓声が起こった。
九回裏ノーアウト満塁。依然、一打サヨナラのピンチは変わりない。
だが、それはもう関係なかった。
この時点で試合は既に決まっていた。
三振。三振。瞬く間に二人の打者を切り取った。
最初の打者は外のスライダーを空振りし、二人目は落差の激しいフォークに仕留められた。すべて三球三振だった。アウトのランプが二つ点灯し、球状全体が加速する。
あと一人。あと一人。あと一人。
最後のバッターが打席に入った。本大会屈指のスラッガーですでにプロ入りが決まっているという噂の強打者だった。
図らずもエース対四番と言う構図に甲子園のボルテージは最高潮を迎えた。
投げた。外角高め速球。空振り。152キロ。
投げた。内角低め直球。ファウル。153キロ。
あと一球コールに切り替わる。
投げた。高めの釣り球。見送り。ボール。
投げた。外に逃げるスライダー。ボール。
投げた。フォーク。ボール!
フルカウントになった。
投げた。ファウル。投げた。ファウル。投げた。ファウル。投げた。ファウル。投げた。ファウル。投げた。投げた。投げた。 投げた。投げた。投げた――!
密かに清原に対しライバル心を抱いてたそのバッターは意地で喰らいついた。いつしか球状全体がこの勝負がいつまで続くのかという期待に固唾を呑んでいた。
清原はいったんマウンドを外し、息を吐いた。味方のベンチが視野に映る。
腕組みしている星野監督がいる。祈るようなキャプテンがいる。必死で声援を送るチームメイトたちがいる。そして。
――みなみ。
本来そこにいたはずのマネージャーを想う。今頃は手術を終えているであろう恋人。
――みなみ。今から約束を果たす。
再びプレートを踏む。九回裏ツーアウト満塁。最後のバッター。最後の投球。ランナーは自動的に進む。もはや遠慮は必要ない。
清原が大きく振りかぶった。ランナーを背負っての豪快なワインドアップに観客が、ベンチが、敵が味方がどよめいた。そんな地鳴りのような大音響も清原の耳にはもう聞こえていない。
――見ていろみなみ。
高く足を上げる。
――俺は勝つ。
腰に重心を移動する。
――勝ってお前に会いに行く。
力強く大地を踏みしめ、下半身の力が腕に伝わっていく。
――だから、お前も。
渾身の想いを乗せて、指先に感覚を集める。
そしてリリース。
完璧な手ごたえだった。もはや疑うべくもない。その時点で清原は勝利を悟った。
次の瞬間。
甲子園MAXの155キロを計測した白球は鮮やかにキャッチャーミットに収まっていた。バッターは微動だにできなかった。
ゲームセット。
この瞬間、私立阪南学院にとって悲願だった夏の甲子園優勝が決まった。しかし清原はすでに他の事に意識が移っていた。
笑顔と涙で駆け寄るナインも、ベンチから飛び出すメンバーも、みんなと一緒の校歌斉唱さえも、だから清原にはほとんど記憶に残っていない。
ただ大切な人の手術の結果と、一番に彼女の病室へと駆け付けることが、その時の清原の全てだった。
走れないことがもどかしい。
みなみの病室へ向かう途中、リノリウムの床を大股で移動しながら俺はそう思った。
着替えもせずに駆けつけたのにこれでは意味がない。
はやる気持ちを抑えるために俺はこれから繰り広げられるであろうやり取りをシミュレートした。
みなみ。約束は果たしたぞ。優勝してきた。
本当? わたしが動けないのを良いことに、秀喜くん、ウソ付いてるんじゃない?
みなみこそ、本当は怖くなって手術をキャンセルしたんじゃいか?
そんなことないよ。秀喜くんはわたしがぐったりして動かない方がよかったの?
交わされる軽口。おそらくこんなところだろう。幼なじみとして長い付き合いのあいつの言葉なんて手に取るように分かる。
それはもう何十回と繰り返してきたシミュレーションだった。
次の角を曲がれば病室はすぐそこである。
曲がる瞬間、いつもと違う気配を感じた。
もう幾度となく通った場所の空気の変化に俺は気づいてしまった。
嫌な予感がした。
胸騒ぎを押さえ込み、部屋の前に立った。棟内には冷房が効いているのに、汗が流れ、妙に喉が渇いた。
チラチラと頭をよぎる黒いイメージを振り払うように、俺は勢いよくドアをスライドさせた。そんな俺を多くの視線が出迎えた。
俺の代わりにみなみに付いていてくれた姉さん。憔悴したみなみの両親。看護士。医者。視線の中に肝心のみなみのものはなかった。
ベッドに横たわったみなみは全身管だらけの姿で呼吸器を付けられて眠っていた。
そう。眠っているのだ。
この期に及んで俺は、まだそんな夢想をしていた。なんだバカバカしい。あんなシミュレーションなんて何の意味もない。そもそも考えてみれば術後は麻酔が効いて眠っているに決まってるじゃないか。
そんな希望にすがり付いていた。
医者と目が合った。顔なじみの彼は、まるで延長十五回まで投げさせられた挙句、敗戦してしまったピッチャーのように疲弊した顔だった。
医者がみなみの容態について説明を始める。手術自体は成功したらしい。しかし、このままみなみが意識を取り戻すことは難しいだろうという趣旨のことを簡潔にまとめた。余分なものが一切排除されたその口調に、俺は全てを理解した。
おそらく、みなみが目を覚ますことはもうないのだ。彼女の良く変わる表情も、弾けるような笑顔も、甘えたようなあの声も、手の届かないところへ行ってしまった。
熱い液体が頬を流れるのを感じた。気が付くとみなみの手を強く握り締めていた。
「みなみ。みなみっ!」
握った手をゆする。何の反応も示さなかった。白いシーツに雫が落ちて黒く濡れる。
「みなみ。俺だ。起きてくれ。報告だ。勝った。勝ったぞ!」
電子機材の機械音が無機質なリズムを刻む。
「俺たちが優勝したんだ。何とか言ってくれ」
人工呼吸機の放つ無味乾燥な音だけが応えた。
「……どうしてだよ……俺は約束どおり優勝したのに……言いだしっぺのお前のほうが守ってくれないなんて不公平だ……」
難病と戦うみなみがその約束を持ち出してきたのは、俺たちが地区大会を制し、甲子園出場を決めた丁度その日のことだった。
俺は優勝を持ち帰り、みなみは手術に臨み、無事に帰ってみせる。そしてお互いが成功を分かち合う。そんな約束だった。
元々成功確率が決して高くない手術ということは知っていた。成功しても弱ったみなみの意識が戻らない可能性も教えられて理解していた。それなのに俺は、半ば挑みかかってくるような彼女に乗せられ、そんな約束に応じてしまった。
「俺のせいだ……俺があんな約束をしたからこんなことになったんだ」
うなだれる俺の肩に手が添えられた。みなみの母親だった。
「秀喜君。それは違うわ。この子が手術を選んだのは自分の意思だったはずよ」
「そうだよ秀喜君。あんたは何も悪く無い」
みなみの父が寂しげに言った。
「そうよ。それにちゃんと約束を守って優勝したでしょう? 自分を責めないで」
そんな二人の励ましも俺には届かなかった。
「……違うんです。自分のせいなんです。心のどこかで俺は慢心してた。甲子園出場が決まった俺は何でも出来る気になっていました」
独白だけが虚しく響く。
「俺は優勝さえすればみなみは元気になるって思っていた。優勝して凱旋した俺を元気なみなみが迎えてくれる。そんなドラマを夢見ていたんだ。俺の力で彼女を救えるなんて思い上がっていたんです」
言葉の最後が怒りで震える。自分自身に対する浅はかさに対する怒りだった。
「……ふぅん。それで我が弟は何が言いたいのかしら」
黙って静観していた姉さんが初めて口を開いた。
「みなみは俺のエゴの犠牲になったということです!」
ほとんど絶叫に近い俺の声が病室に響き、また静寂が戻る。誰も俺を責めない。
ただ、みなみが確かに生きていることを示す、規則正しい電子音が愚か者に現実を教えるかのように鳴っただけだった。
この日、俺は夏の甲子園優勝と言う栄冠を手に入れた。
同時に最も愛しい人を失った。
そして俺は野球を棄てた。