2、 放課後になっても、頭の中は手紙のことでいっぱいだった。
放課後になっても、頭の中は手紙のことでいっぱいだった。林さんが持ってきた手紙のせいで、ぼくの心は完全に揺さぶられている。
ぼくは、間違いなく誰かを怒らせてしまった。心当たりはないけど、誰かを本当に怒らせてしまったときは、きっとこんなものだと思う。
そうだと思うけど、そうじゃないかもしれないとも思う。
手紙を書いたのは、照れ屋の女の子かもしれない。
きっと恥ずかしくて、仲良しの友達にも頼めなくて、そういうことに疎そうな林さんに、恋のキューピットを頼んだんだ。
ぼくは今日、豪雨のテニスコートで告白される。
そんな幻想を抱かざるを得なかった。
罠にかかるネズミみたいにマヌケかもしれないけど、たまには突然の幸せが転がってきても良いと思う。
祈るのような気持ちで雨のテニスコートに行くと、一輪の赤い傘が咲いていた。
短いソックスに、折り目がハッキリとついたスカート。着崩したワイシャツに、金色の髪……あれ?
「林さん?」
「お待ち申し上げておりました。ご主人様」
ぼくの存在に気づくと、林さんは傘を投げ捨てた。そして映画に出てくる騎士のように膝をついてお辞儀をした。
「今までの無礼をお許しください」
「ちょ、ちょっと濡れちゃうよ。ほらっ!」
とりあえずぼくの傘を林さんに寄せて、濡れないようにする。
「ああ、そのようなことはおやめください。御身が濡れてしまいます」
「いや、だって林さんが――」
「私のことは良いのです。ご主人様にあれほどの無礼を働いた私など」
「何を言ってるのっ、それより傘をささないと!」
林さんの傘を拾って渡そうとするけど、なぜか林さんは受け取ろうとしなかった。
「私の無礼をなかったことにしてくださるのですか。この私を許すと?」
どうやら林さんは、ぼくに対して何か謝りたいことがあるみたいだ。それが何のことかわからないけど、とりあえずこのままじゃ林さんが風邪をひいちゃう。
「とにかく許すから、さあ傘を持って!」
林さんは「ありがとうございます」と一礼してから、ゆっくりと傘を受け取って立ち上がった。
短い時間だったけど、林さんはビショ濡れになってしまった。でも林さんは、そんなことは気にしていないみたいだった。
金髪から水滴がしたたるようすは綺麗だったけど、拭かないと身体が冷えちゃうと思う。
「林さん。これ使う?」
タオルハンカチを差し出すと、林さんはそれを両手で受け取った。そして髪も拭かずに、そのままポケットにしまってしまった。
やっぱり林さんは、ちょっと変わった人みたいだ。
タオルハンカチをしまったポケットを手で押さえながら、なぜ幸せそうな笑みを浮かべているのか。理由がまったく想像つかない。
「ねえ林さん。さっき言ってた、今までの無礼って何のこと?」
「……今まで気づかなかったことですが、何のこと、とはどういう意味でしょうか」
林さんは、まっすぐな目をしていた。
林さんからすると当たり前のことみたいだ。でも、僕には意味がわからない。
「気づかなかったって、何に?」
「ですからご主人様が神の子の生まれ変わりであるという事実に、です」
「ご主人様が神の子の生まれ変わり?」
「はい。ご主人様は許すと言ってくださいましたが、私は一生をかけて償っていくつもりです」
「…………そうなんだ」
察するに、たぶんご主人様というのは、ぼくのことだ。そしてぼくは、神の子の生まれ変わりらしい。その事実というものに今まで気づかずに過ごしていたから、許しがほしかったってことかな。
なるほど。
林さんは、ちょっと変わった人じゃない。
とてつもなく変わった人だ。
「ご主人様」
「いや、僕は――」
ご主人様じゃない、と言葉を続けられなかった。
林さんは、目を合わせたまま顔を近づけてきた。
キ、キスされるっ!
ほぼ初対面の僕に、いきなりキスするなんて!
と思ったけど、林さんは直前で止まった。
「視線を感じます」
林さんは、眉を寄せていた。それからゆっくりと校舎を見上げる。でも校舎のこちら側には、ほとんど人影がなかった。もちろん誰も、雨の中のぼくらなんて見てない。
「どうやら私たちを盗み見ている不届きな輩がいるようです」
もし林さんの言うことが本当なら、傘のせいで、ぼくらがキスしたように見えているかもしれない。
林さんは不愉快そうに一歩ずつ距離をとる。
「今日は、ここで失礼いたします。続きは、また今度」
林さんは、整った顔を少しも崩さずに、小さく礼をしてから踵を返した。真っ赤な傘が、あっという間に遠ざかっていく。
テニスコートでひとりになると、雨の音がいっそう強く感じられた。ぼくはいつもひとりぼっちだって、雨に言われているみたいな気になる。
林さんは、姿が見えなくなるまで、一度も振り返らなかった。