1話
王宮から徒歩30分程離れた場所に、沢山の女達が暮らす特殊な場所があった。
霧深く立ち籠めるこの場所の名は、ノルドルリメム。
ノルドルー王国一切の祭祀を執り行う神聖な場所である。
生い茂るカシの木に取り囲まれた、何百年もの歳月を経てきた神殿は、それでも尚神々しく白磁色の輝きを放っている。この神殿に立ち入ることが出来るのは歴代の大巫女のみであり、森に入って外観をうかがうことさえ、一年に一度の預言祭しか許されていなかった。
神殿を中心とし森の北東側にはターコイズブルーの巨大な建造物がそびえ立つ。視界の不鮮明な中でもはっきりとわかる、はっとするような美しい建造物である。壁には黒、蒼、紫の拳大の艶やかな石がさり気なく散りばめられ、見るものの目を飽きさせなかった。
ここで寝起きする女達は150人程いるが、その頂点に位置するのは大巫女ただ一人である。次にその後継者、その親族、次に修行を積んだ数人の巫女、そして最下層にいる巫女見習い達である。
巫女は、大巫女やその後継者の世話を焼き、滞りなく祭祀を行うのを補佐し、場合によっては指導も行う。ノルドルリメムは特殊な政治的立場であったので、巫女まで出世した巫女見習いは地位と名誉と富を手にすることができた。
巫女見習いは3年に1度、試験を行って適正を審査し、合格した10歳から13歳の少女から構成されていた。
彼女たちは正式な巫女を目指して日々働き、巫女の厳格な修行と女の戦いを生き延び、才能あるひと握りの者のみが巫女に昇格することが出来た。
脱落者は王都に残りたい者は王宮に配属され、女官として働くことも出来たし、帰郷して女まじない師になる者も少なくなかった。むしろ両親はそのことを見越して、彼女たちを王都へ送り出すのである。
彼等のお決まりの台詞というのが、
『この試験に受かればお前の人生安泰だ。巫女になれ、なんて言わないから絶対に巫女見習いにはなってこい。‥…もし、巫女様にまでなれたら親族もろともよろしくな。』
というものだった。
全国各地から親が娘達を連れて王都に集うので、巫女見習いになれただけでも一生の幸運を使い果たす様なものだと言われる始末である。
そして、その頂点に君臨する大巫女は王と並ぶほどの力を誇っていた。
正式な祭典で王と並び立つのは王妃ではなく代々大巫女だったし、北の大国、クヴォレスクの結び付きが強い彼女の一族に遠慮して王でさえ真正面切って意見は言えなかった。
が、年々王家と大巫女家の対立は深まるばかりであり、互いに自分達を軽んじる相手側のことを心の奥底で蔑み、憎み、呪っていた。
王も大巫女も歳は互いに60代後半と言ったところだ。しかし王が強国二国に翻弄され、政務に心をすり減らしやつれ老いていくのに対し、大巫女は50に見えるか見えないかという程の美しい凛とした美貌を誇っていた。
大巫女はまだ闇が明けきらぬ頃に起床し、一人小さな湖に入って禊を行う。この湖は夏になってもコンコンと冷水が湧き出す、建国の祖の一人イチュリが現したとされる湖である。
濡れた薄手の衣を巫女の手によって着替えさせ、白地に刺繍の施された、ゆったりとしたワンピースを着て帯をしめた。この刺繍は巫女が施したものであり、守りの呪文が込められている。
「ありがとう」
短く礼を言い、湖に足を浸し腰掛ける。すると流れる様に巫女は髪どめを取り出して、手早く纏めた。
大巫女は今年67であるが、一本の白髪も見受けられない。最年少の巫女はこの朝のひと時、大巫女の触り心地の良い、美しい黒髪を掌で撫でるのが至福の時であった。
「この刺繍、そなたのものか」
大巫女が湖から足を抜き、優雅にたたずむ。身長は巫女の目線程しかないが、威厳に満ち満ちていてそれを感じさせない。膝を折り、両腕を胸で交差させ頭を垂れた。
「はい。初めて大巫女様の刺繍をさせていただきました。先代の刺繍担当が死にましたので、此度から私が担当となりました。」
「名は」
「テノーでございます。」
「歳は」
「39でございます。」
テノーの額には霧とも汗ともつかないものが髪に張り付いていた。心臓の音が速くなる。
ドクリ、ドクリ。
「顔を上げよ」
青白い顔に小皺に縁取られた青い目が細められる。
「テノー、お主を我が孫の養育係に致す。次代の大巫女じゃ、手厳しく頼むぞ。」
テノーは一瞬放心した。
次代の大巫女の養育係は日々のこまごまとした世話から教育まで施し、親と子、先生と生徒の様な関係となる。大巫女と養育係は厚い信頼関係で結ばれるので、必然的に巫女の中で一番の権力を保有することができるのだ。
だがまさか巫女に昇格してこんなに早く‥…。
テノーの頭の中では、脱落していった数多の仲間達の顔と蹴落としてきたライバル達の顔が走馬灯の様に駆け抜けていった。
(耐え抜いた我が人生、その価値はあった)
「仰せの通りに、大巫女様‥…。」
「うむ、この刺繍は以前よりも強力な守りの呪文がかかっておるしの。何よりテノー、お主の妾を想う心遣いが感じられる。最近は大巫女である妾を蔑ろにする者が多いのでな。妾はそれに、心動かされた」
テノーは再び頭を下げる。
「勿体のうお言葉でございます。しかしながら大巫女様を蔑ろにする者などどこにございましょう。貴方様は王以上のお力を持っておりますのに」
「妾も少女の頃はそう信じて疑わなかったわ。じゃがの、今の時分、このノルドルリメムはあまり立場が良くなくての」
大巫女は大きく溜息をつくと、テノーに耳打ちした。
「‥…妾は巫女の中にも王の息のかかった者がおると思うておるぞ」
テノーは弾かれた様に顔をあげた。大巫女は肌も艶やかで妖艶であったが、青い瞳には疲労の色が浮かんでいる。
「そんな‥…」
「‥…じゃから若く忠誠心のあるお主を孫に当てたいのじゃ。我が孫は少々やっかいじゃぞ。善きように上手く導いてやっておくれ。」
テノーは父譲りの薄い唇をギュッと真一文に結ぶと、二、三度瞬きを繰り返し更に深く頭を垂れた。
「お、大巫女様」
主を呼ぶ声に、無駄に吐息が混ざる。
「御役目、誠心誠意果たさせて頂きます。」