きみが来るまで
「なにしてるの?」
「え?・・・いや、何でもないよ、こっちの話。うん、わかった。それじゃぁ後で」
携帯電話を畳むのと、抱えきれないくらいのため息が僕の口から吐き出されたのは、ほとんど同時だったと思う。
「なにしてるの?」
僕はあえて聞こえない振りをしていた。少し顔を上げて視線を逸らし、見えない振りをしていた。でも・・・
三度、同じ質問が繰り返されるにいたって、彼女の到着が未だしばらく先になる事も手伝って。あくまで仕方なくゆっくりと視線を向けると、腰に手を当てて落胆色の息を吐いている。
「やっと気付いた!この人、相当にぶいんだわ」
再び落ちてきた脱力感に押しつぶされそうになりながらも何とか踏みとどまって、文句の一つでも言ってやろうと思ったのだが目を合わせた相手の、機関銃のように飛び出して来た言葉にまたしても押しつぶされそうになって、今度は踏みとどまるので精一杯だった。
「ねぇあなた、こんな所で何してるの?ひまなの?ひまなんでしょう?だめよ、いい大人がこんな所でふらふらしてちゃ。他に行くところがないの?それとも誰もいないアパートに帰るのがそんなに空しいの?友だちとか、恋人はいないの?あ!ごめんなさい、もしかして私、地雷踏んじゃった?大丈夫よ、きっといい人見付かるわ、だから自殺なんて考えはやめなさい・・・」
「うるさい!」
やっと挟めた一言に、相手は両手で耳を押さえて目をしぱたかせている。僕は肩で息を整えて、今度は眉間に指を当てて瞠目している相手をにらみつけると腰に手を当てて思い切り上体を屈めて目線を近づけて、その鼻先を人差し指で差して聞き分けのない子どもにいい聞かせるように、
「君こそ!こんな時間にこんな所で何をしてるんだ?おかあさんやおとうさんは一緒じゃないのか?」
そう、相手と言うのは僕の腰の辺りに頭があるような少女なのだ。
どういういきさつでこんな、夜の十時も回ろうとしている、さすがに人通りもまばらになってきた駅の改札前にいるのか知らないが、少女はかれこれ一時間ほど前からこの辺りを右往左往しているのだ。
かれこれ一時間。かく言う僕もそのとおり、かれこれ一時間以上ここに陣取っているわけだが、断っておくが少女がさっきのたまったような理由で留まっている訳ではない。僕の場合は・・・何と言うか・・・
「私のパパとママの事はいいの。それより私が聞いてるんじゃない、あなたはこんな所で一体全体、なにしてるの」
「何って・・・君には関係ないだろう」
「あるわよ。もしかしたらこの人、私を誘拐するつもりじゃないかしらって気が気じゃないもの」
「誘拐って・・・呆れた、どこからそんな発想が出て来るんだい」
「決まってるわ、私の頭の中よ。だってあなた、ずっと私の事見てたでしょう?知ってるのよ。さっきの電話はきっと仲間だわ、もうすぐここへ到着して嫌がる私を無理やり車の中に押し込んで、強制わいせつの後にそのネクタイで首を絞めて殺すつもりなんだわ」
胸の前に手を組んで、上目遣いで覗き込むにいたって僕は、もう何度目かわからないため息とともに首と肩を落とした。
まったく、最近の子どもは。確かに、こうして見てみると十年経った暁には、こっちからお願いしたいくらいになるだろう顔立ちはしているものの、いかんせんこうも小便臭くては閉口してしまう。それに何より、こうも口が達者かつ、こましゃくれたクソガキなんか誰が誘拐するもんかい!と思ったものの大人として口に出す訳にもいかず、口の端を引きつらせて何とか笑った顔を見せて安心させようとしたのだが。
「その顔、何ていやらしい!」
そう言って身を護るように一歩引かれては笑顔も続かない。
「あ~もう!どこでそんな言葉を覚えてくるのか知らないけど。確かに僕は君を見ていました、だってそうだろう?こんな時間に君みたいな子がひとりで、誰だって心配するよ、それだけ。誘拐だなんてそんなこと、思いつきもしなかった」
「なんだ、それなら安心ね。それで、あなたは?もしかして恋人に振られたの?」
「ぐう・・・まだ振られてない!と言うかまだ付き合ってもないし、今日だって三ヶ月も前から約束していて、その約束だって一年がかりでようやく取り付けたものだし。本当は九時に待ち合わせだったのに彼女の方は会議が長引いてて遅れるって、何時になるかわからないって言うし、僕の方は明日までの仕事をほっぽり出してまで、同僚ににらまれながらそれでも時間通りに来たのに・・・あぁっ!明日出社するのが怖い!」
思わず、頭を抱えてうずくまっていると肩に手が乗せられて、哀れな子犬でも見るような視線に合わせて首を振っている。・・・って冗談じゃない!何が悲しくてこんな少女に同情されなければいけないんだ!僕は背筋を伸ばして立ち上がり、一つ咳払いで調子を取り戻して。
「そ、そう言うわけだから、君も早く帰りなさい」
「って事はひまなのね?」
「だから!・・・君、話し聞いてなかったの?」
「適当な理由をつけてデートをすっぽかされた訳でしょう?ひまじゃない」
「ぐさ!・・・その可能性だけは考えないようにしてたのに」
「現実を見なさい、大人なんだから。それで私、ひまなあなたに手伝って欲しいことがあるの」
彼女は瞳を目一杯輝かせて上目遣いでお願いポーズ。
「実は私、おとうとと一緒に散歩をしていたんだけどはぐれちゃって」
一変、肩を落としてうす茶色い柔らかそうな髪に顔が隠される。幼いおとうとにもしもの事があったらと思うと家にも帰れないのだろう、それでこんな時間になるまでたった一人で、どんなに心細かった事だろう。
そう思うと、何て儚げで弟思いの美少女だろうと思えてくるのだから不思議だが、その時はそんな疑問なんてかけらも思い付かず、ただただ彼女のために何かしてあげなくてはと、それしか思いつかなかったのだ。
「よし!そう言うことならお兄さんも一緒に手伝ってあげよう。でも、二人だけって言うのも心細いし、警察には言ったかい?」
「子どもなんて相手にしてくれないわ」
そんな事ないと思うけど。そう思ったが言葉にする前にしっかりと手を握られて、驚いて顔を見ると、
「あなただけが頼りなの!お願い、おじさん!」
「おじさ・・・せめてお兄さんにしてくれないかな。それで、おとうとの特徴は?それを聞いておかないと探し様子がない」
「私と同じくらいか、少し大きいかしら。うす茶色い・・・」
「君みたいな?」
「まぁ、そんな感じかしら。ボーダーのシャツを着てるわ。レオって言うの」
「変わった名前だね。ところで君は?なんていうの」
「わたしはマリアよ」
「・・・それじゃマリアちゃん、君は駅の周りを一周して、暗いところには行ったら駄目だよ。危ない、と思ったら大声を出して走る事。僕は駅前の公園の辺りを見てくるから、三十分くらいで戻るから、それまで待っていてね」
そう言って、手を振る彼女にしばしの別れを告げたものの。マリアにレオ。名前を聞いた時には担がれているのかとも思ったが。最近の子どもの事だ、漢字を当てればありえなくもない。しかし・・・
本当に見付かるだろうか。一時間以上も前にはぐれた子どもなのだ、この辺りにまだ居るなら泣いているか、そんな声は聞かなかったし、他の大人に見つけられて騒ぎになっている声も聞かなかった。それよりは、姉を探してさ迷い歩くうちにどこか遠くへ行ってしまったか、救急車の音も聞かなかったから最悪の事態は免れていると信じたい・・・
公園に入るとあたりはいっそう暗く、月明かりも高く茂る木々に阻まれて、闇に紛れるように設置された浮浪者たちのテントの影を見ると、あまり奥の方へ分け入る気にはなれない。僕は遊歩道に等間隔で設置された街灯を目印に、辺りに目を配らせながら、時々名前を呼びながら、更に時々、マリアは無事に駅の改札前に戻れただろうかとか、更に更に時々、彼女はもう来ないだろうかとか。
そんな事を考えているうちに、何も動く影も見つけられず、僕の声に反応する声も聞こえず、何の収穫もないままに駅舎の見える位置まで来てしまっていた。そうなると急に、あれだけ大きな事を言っていただけに不安になってしまう。かと言ってどうする事もできるはずもなく、それでもマリアの落胆した顔を想像するだけで胸は痛み、その後に待っているだろう罵詈荘厳を想像するだけで胃は痛み・・・そっと胸の下に手を当てると本当に気分が悪くなってきたような気がして。こうなったら何でもいいから、と首を巡らせたときだった。
少しだけ歩を緩めた拍子に誰かが足早に追い抜いていったのだ。僕の腰辺りまでの背をしたうす茶色い髪のボーダーのシャツを来た子ども!
「レオくん!」
瞬間、体を強ばらせるように立ち止まり、じれったいくらいに時間をかけて振り返るは、十年経ったらきっと、僕みたいに女性に振り回される事とは無縁なのだろうと思わせるその顔を傾けて、しっかりと僕の目を見ていた。
「良かった!一時はどうなるかと思ったけど。さ、おねえちゃんの所に行こうか」
僕は気が抜けたみたいに座り込んで目の高さを合わせて、それから彼の手を引いて歩き出そうとしたそのとき。
「ゆ・・・誘拐!」
え?と思ったのは一瞬で、僕が手をつないでいた彼は子どもなりの力任せに手を振り払って、後方、声のした方にいた女性の胸へ、ママ!と言いながら逃げていった。
それから後はあれよあれよ。僕はどこから湧いて出てきたのか、帰宅途中のサラリーマンふう男性に地べたに押さえつけられて、ようやく立たされてからも駅まで引きずられるように歩かされて、やがて音を立ててパトカーから降りてきた警察官に身柄を拘束されて。ドラマなんかでは確か、スローモーションで表現されたり、通常よりすべてがゆっくりに見えるなんて言うけれど・・・
気が付いたら駅長室で、複数の呆れ顔の警察官と、迷惑そうな顔の駅長と、おびえた表情の僕が勘違いした母子と、入り口にたむろしている野次馬たちに囲まれていた。
「それで、本当はこの子をさらってどうするつもりだったんだ?」
誤解だ!そう叫ぶ気力はもう残っていなかった。もっとも、たとえ気力に満ち満ちていたとしても、こうも高圧的に言われては・・・
どれくらいの時間が経っただろう?僕もそろそろくたびれて来た。胃が痛いと思ったのは何の事はない、おなかが空いているのだ。彼女にも振られて、アパートに帰っても一人寂しいだけ。きっと今の状態を自暴自棄と言うのだろう、そこまでわかっていても考えてしまうのだ、ここで認めてしまえばきっと楽になる・・・
「まって!・・・彼、私の連れなの」
ぱっと顔を上げたのは彼女だと思ったから。遅れて来た彼女が僕を助けに来て・・・でも現実に来てくれたのは、ちびのマリアだった。
「ま、マリア~」
「ちょっと!何情けない声出してるのよ、大人でしょう?」
「だって・・・」
彼女こそマリア!かの聖母にも勝るとも劣らない慈愛に満ち溢れた最上の女性!と、その時は本当にそう思えて思わず泣きそうにまでなったのだから、今にして思えば全く不可解。だが。
「あれ、お嬢ちゃんはさっきの。丁度良かった、探してたんだ。レオ!」
ワン!と、すきっ腹に響くバリトンの声で出てきたのはボーダーのシャツを着たマリアと同じくらいか、少し大きいくらいのうす茶色い毛並みをしたレトリバー犬。
「レオ!もう、どこへ行ってたのよ、心配したじゃない!おまわりさん、私、相手にされてないと思って思わず彼に愚痴ちゃった、ごめんなさい。でも、ありがとう!」
「いや、あの時はすまなかったね、本当に見つけられる保障が持てなかったから」
「ちょっと待て!・・・犬なのか?」
千切れんばかりに尻尾を振るレオとその首の辺りに抱きついているマリアとを見比べながら、答えを返してくれるのは当然マリア。呆れたように目を真ん丸くして僕を見つめ返してくる。
「聞かれなかったから、知ってるかと思ったけど」
「ってぇ事はあんた、もしかしてこの犬とこの子を履き違えたのか」
「ボーダーのシャツに私と同じくらいの身長。うす茶色い毛並みはしてないわ、髪の色は似てるかもしれないけど」
「それじゃぁ・・・」
人騒がせな兄ちゃんだな。その言葉を最後に開放されて、去り際に母子ににらまれながらもようやく約束の場所に戻って来れた時にはもう、日にちが変わろうとしている時刻だった。さすがに、終電間際になってくると人もほとんど居らず、身も心もぼろぼろな僕はマリアと、レオと向かい合っていた。
「・・・君も、早く帰りなさい」
「そうするわ。でも本当、今日はパパもママもお出かけしてて助かったわ。夜更かしがばれたら何て言われるか。あなたも、あんまり気を落とさない事よ、それじゃお休みなさい、ありがとう」
マリアがレオを引いて町の方へ見えなくなると、僕はとうとう一人になって。
アナウンスが、終電の時間を告げている、これに乗らなければ本当にここで夜を明かさなければいけなくなる。それでもいいか、とその時は思って、手ごろなベンチにでも移動するかと振り返ったら・・・
振り返りると彼女が、本当に僕の待ち焦がれて、諦めかけていた彼女がそこにいたのだ。
彼女はにこやかに、満面の笑みをたたえて、約束どおりに僕のところへ来てくれていたのだ!が。
「ご・・・ごめんなさい」
きっと、僕の格好悪い所を残らず見ていたのだろう、耐え切れずに吹きだした彼女はそれきり、人目も気にせず、と言うか人目自体もないのだが、とにかく体をくの字に折り曲げてげらげら笑い出したものだから。
やっぱり、諦めたほうがいいのかもしれない。トホホ・・・