櫻の舟
その人と出会ったのは中学二年の春だった。
舞い散る桜の花びらが、城跡の外周を取り囲む翠の水面に浮かぶ。それは白い絨毯のように広がって、すぐ下に濁った水があることを隠している。
まるで私みたいだ。
途端に目頭が熱くなる。鼻の奥がつーんとして、眉間に力が入った。
流れていった時間は戻ってはこない。そしてあの人も。
けれど、あの人を失ったからといって、一緒に過ごした時間までが無くなってしまったわけではない。あの時、あの瞬間は確かにあったのだと、鞄から何度も開かれては畳まれすっかりくたびれた四つ折りのルーズリーフを取り出す。そこには青いインクで書かれた散文があった。
詩にも見えるだろうそれは、紛れもなくあの人が私に宛てた手紙だった。そしてそれは私の恋文への返信でもある。
思春期の少年少女はみな哲学者だと思う。自分の存在意義を探し、他人ばかりか自分も否定して、現実との折り合いを必死に求める。小さな理不尽を断罪し、綻びを追及し、そして踞る。そうして人は大人になっていくのか。
その手紙はけっして美しくはないけれど読みやすい筆跡で綴られている。
初めて会ったあの日から
おさげ髪のあなたの存在は気になっていた
好きだと言ってくれてありがとう
おなじ気持ちを返せてあげられれば
いいとは思うけれど
後戻りできないところまで
あなたを連れていくつもりはないから
どうか今のままで
最後の一行であの人の気持ちはわかってしまった。
中学でコーラス部だった私は、部室である第二音楽室の一番後ろの席に座り、文庫本を手にしているその人に目を奪われた。
少し茶色い髪が首を斜めにするたびにさらさらと流れる。そしてその人の胸には上級生であることを知らせる紺のネクタイがあった。
コーラス部の人ではないことだけは確かで、その証拠に他の部員がピアノの周りに集まっているのに、その人は呼ばれもしなければ、咎められもしなかった。
それならなぜ、あの人はそこにいるのだろう?
不思議に思った私は面識のないその人ではなく、パートリーダーの先輩にこそっと聞いてみた。
「ああ、私の友達」
シャンプーのCMに出られるんじゃないかっていうくらい艶やかな黒髪を腰まで伸ばしたパートリーダーは、イタズラが見つかった少女のように笑った。
頬は少し桜色に染まっていた。
そしてその日の部活が終わると、その人とパートリーダーは揃って帰る。
ある日パートリーダーの先輩が部室の鍵当番の時だった。みんなが部室を出るのを待って一度扉は閉まった。何も考えずそのまま昇降口まできてから楽譜を忘れたことに気付いた。第二音楽室は授業でも使用される部屋だから忘れ物をするとやっかいだ。
私は慌てて引き返した。
取っ手に手をかけようとして一瞬躊躇する。中から話し声が聞こえたから。なにかすごくいけないことをしている気がして、そのまま帰ってしまおうかと思った矢先、鼻先で扉が開いた。
パートリーダーの先輩と目が合ったのに、咄嗟に何も言えない。硬直状態から先に醒めたのは先輩の方だった。
「楽譜忘れたでしょう。明日届けようと思っていたの」
胸に抱えた楽譜のファイルから折り畳まれた紙束を抜き出すと、はいと手渡される。
それを受けとりながらどこか平静でない先輩の様子と、後ろに付いているあの人の冷静な表情を見るだけで色々と分かってしまった。
あの日と同じ桜色。
何にショックなのか分からないけど、何かがショックで、私はあの人の後ろから階段をゆっくりと降りた。
先輩が私を通りすぎ、その後であの人がすれ違う一瞬、確かに目があった。春の日溜まりのような穏やかな目で。一瞬微笑んだような気がした。
それから私はどれだけ考えないようにしていただろう。そしてパートリーダーの先輩が鍵当番の日には、決して音楽室には戻らないようにした。
それなのに、あの日以来あの人と視線の合う回数が増えていた。
けれど何が変わるということもなく季節は移り変わり先輩たちは卒業していった。
どこの高校に進学したのかは聞いていなかった。
あの人にはお祝いの赤いミニブーケさえ渡すことができなかった。
そして高校一年生の春。
希望通りの高校に合格できた私は浮かれていた。
今までこれほどに勉強したことがあっただろうか。夏の音楽コンクールを最後に引退したあと、志望の高校を受験するために猛勉強をした。
あの人のことは完全に忘れられていたのに、神様は時々スゴく残酷で意地悪だ。
文芸部の扉を叩くと、迎えられた室内にはあの人がいた。あの人はにっこり笑って「いらっしゃい」と言うのだ。
あの人はここでも居候しているだけなのかも知れないと自分に言い聞かせながら、震える手で入部届けを出してきた。
日にちが過ぎるたび、あの人は確かに文芸部の人なのだと少しずつ実感してきた。他の先輩のように熱く語るわけでもなく、ただ静かに微笑んでいるあの人はかげろうの透明な羽よりさらに儚い存在だったから。少なくとも私にとっては、だけれども。
それでもあの人の側は居心地がよくて、ついつい側にいてしまう。
あの人との共通の話題が欲しくて同じ本を手にする。麗らかな日和の窓辺でふたり、並んで読書をすることのなんと甘美なことか。
あの人の指が不意に手の甲に触れる。驚いてあの人を見ると、目が合って……柔らかく微笑んでいた。
触れただけだった指が、今度は意思を持って絡め取られる。プリーツスカートの襞に隠すようにして手を繋ぐ。それだけのことなのに、胸がドキドキして堪らない。
十センチと離れていない距離が嬉しくて、この時間が永遠に続けばいいと思った。
バス通学の私と徒歩通学のあの人。クラブが終わっていつしか一緒に本屋に立ち寄るようになった。平台の新刊をチェックし、話題作の棚を見てから文芸本のコーナーを一巡り。それから文庫本の棚へと移る。レールが敷かれているようにいつも同じ順番で廻るあの人は、私に優しい目で言う。
「自分の見たいところに行ってきていいんだよ」
こくんと頷き、でもあの人と同じものが見たいと思う私の存在は重いのだろうか。
本屋を出て通学路にあるパン屋さんで、セール品のミニパンセットを買い、紙コップ販売の自動販売機でジュースを買って食べる。なんでもない毎日のなんでもない時間があの人とともにある。そんな現実にふわふわと心が弾む。
「今日は何にしたの」
「カルピスとピーチのブレンドです」
「美味しいの、それ」
「美味しいですよ」
「じゃあ真似てオレンジとカルピスでブレンドしてみようかな」
クスクス笑いながらボタンをふたつ一度に押す。一度に押せばブレンド出来ることを知ったのは偶然だ。その時から二人だけの裏技ということになっていて、それから色々試してみている。
「この前のオレンジとピーチのブレンドの方が好みだったかも」
何気なく回し飲みを促す差し出された紙コップが、私の鼓動を早くする。気付いているだろうか。あなたのそんな他愛もない行動に私がドキドキしていることを。
妹のような気持ちで目をかけてくれていると、薄々感じていた。でもそれだけでは物足りない私がいる。
でも、この気持ちを伝えることは出来ない。伝えてはいけないと思う。この関係を壊したくないならば。
冬のとある日。あの人は私の家に泊まりにきた。
いつものパン屋のシールを集めたくじ引きで当たったクリスマスコンサートを一緒に行くことになったのだ。冬休みということもあって、思いきって誘ってみた。
「コンサートの夜、うちに泊まっていきませんか」
あの人は、少し考えてそして頷いてくれた。
コンサートは思っていたより楽しかった。コンサートなんて眠たくなるだろうと思っていたのに、トランペットの華やかな音色が響き、ユーフォニュームの低音が胸の内を震わせた。
パンフレットによるとこのコンサートは地元の交響楽団のクリスマスコンサートだった。演奏者はみんな普段は主婦だったりサラリーマンだったり、学校で教鞭をとっていたりする普通の人びとだ。それが一夜の魔法とでも言えば良いのだろうか。男性は黒のタキシードに蝶ネクタイ。女性は光沢が美しいロングドレスを見にまとっている。
それでも選曲は気取ったところもなく、定番のクリスマス曲、アニメソング、ポップスと次々に演奏される。手拍子を要求されれば会場全体がまるでひとつの楽器になったかのように盛り上がった。
そして夜。順番でお風呂を使った私たちは、二組敷かれていた布団のうちのひとつで身を寄せ合って横になった。
慣れないシチュエーションで、腕をどこに置いたら良いのかも分からない。二人分の体温が暑くて、コロンを使っている訳でもないのに、甘い匂いに包まれていた。
お互いいつ寝たのかも分からない。ただドキドキして暑くて……そして幸せだった。
人間とはなんと欲深く出来ているものか。
あの夜を境に伝えるべきでないと思っていた気持ちに蓋が出来なくなっていった。
幾日も悩んで、悩んで。そして手紙を書くことにした。ずるい私は恋とも親愛ともとれる表現を尽くして、そしてそれをしたためた。
返事を期待してはいけないと自嘲しつつも、それを期待してしまう。そして、手渡しではなく郵便で届けられた一枚の封筒。
後戻り出来ないところとは何処だろう。
あなたと一緒なら、何処でもついていきたいのに。
今までの何処かに嫌われるようなところがあっただろうか。書いていない行間にまで思考は沈み、泣いた。
あの人は卒業し、自分の道を歩んだ。
遠くの地で独り暮らしを始めたのだという。
住所を教えてくれないのがその答えなのだと、諦めようと決心するたびに、翻弄するように手紙があの人から届いた。
青いインクで近況を記したそれにはあの人の住所は書かれていない。飾らないあの人の性格を写したようなルーズリーフの手紙が溜まっていった。
私はルーズリーフを細かく千切った。この恋はもう忘れなければならない。乗り越えて行かなければ、私はずっとここから動けないだろう。
手のひらに乗せた紙片が風に舞って池に落ちた。桜の花びらに紛れてそれは池に浮かぶ。
まるで桜の舟のように。