8 ルナさんって誰?
早いもので、私が入店して一か月半が過ぎた。七月に入り、もうすぐ夏休みという今日この頃。瑠璃ちゃんのおかげで、私もわからないことが減ってきた。仕事だって一人でできる。
いや、瑠璃ちゃんとコンビ組んでるわけだし、それは言いすぎかな。瑠璃ちゃん以外の誰かと組んでお店に出るなんて、今の私には考えられない。
……あれ? そういえば瑠璃ちゃんって、元々は誰とペアだったんだろう。
今は私のパートナーをやってくれてるけど、まさかずっと一人だったってことはないはず。オーナーも人気者だって最初に言ってたし。
と言うわけで、疑問をぶつけることにしよう。
「えっ、私のパートナー?」
「いたんでしょ? 私と組む前は」
休憩中、控え室にちょうど他に誰もいない時を見計らって訊いてみた。
「うーん、いたって言うより……今もいるよ?」
「それって、もしかして」
私? 私が瑠璃ちゃんの正式パートナーってこと? まさか、そんな嬉しいことがあっていいのだろうか。
「あれ、知ってたの? ルナさんのこと」
「……へっ?」
そんな嬉しいことがあっていいはずがなかった。現実は非情である。
てか、誰ですかルナさんって。
「ルナさんともお店に出てるよ。紗希ちゃんがいない時にね。その辺を調整するために、ルナさんは紗希ちゃんの休みに合わせてシフト組んでるし」
「待って待って! 私全然なんにも知らないんだけど!」
なんだこの浮気を公言されたような気分は。いや、実際にそんなことされた経験ないからわかんないけどさ。
ひとまず落ち着きたいんだけどうまくいかない。結衣さんと香澄さんの件とか、あやめさんと闇無さんの件とか、私が知らないところでどれだけイベント起こってるの。
「あ……なんか、ゴメンね?」
「いや、いいよ……うん」
考えてみれば当然の話だ。パートナーの掛け持ちは禁止どころかむしろ推奨ってマニュアルにも書いてあったし。人気者の瑠璃ちゃんが一人でいるはずもない。需要は多いだろうから。
それに、瑠璃ちゃんは元々、私の教育係として一緒にいてくれただけだから、本当のパートナーってわけじゃない。
そうだよ。全部、最初からわかっていたことじゃないか。だから、仕方のないことなんだ。
これがここの常識なんだ。だけど……。
「……」
場に落ちた重い沈黙。こんなの全然心地良くない。
ふと見れば、難しい顔になってしまった瑠璃ちゃんが、きまり悪そうに視線を泳がせている。そんな気にすることでもないのに。瑠璃ちゃんが悪者ってわけでもないんだから。
ここは、私が流れを変えるしかないか。頑張れ私。
「……今度、会ってみたいな」
「えっ?」
予想外の場所から声をかけられたみたいに、瑠璃ちゃんがきょとんとした顔になった。
「瑠璃ちゃんのパートナーさんに、さ」
「でも、ルナさんが出る日は紗希ちゃん休みだし」
「だからこそ、だよ」
首を傾げる瑠璃ちゃんに、私は得意気に続ける。
「私がお客さんとして、お店に来ればいいんだよ!」
そんなわけで数日後。私はお店の正面入口に立っていた。思えばここから店内に入るのも久しぶりだ。スタッフは薄暗い裏口からだもんなあ……。
時間は夕方。学校帰りの途中なので制服のままだけど、そんなのは関係ない。このオタク街はなんでもありのオールオッケーな空気で満ち溢れている。
それにバイトの時だって学校がある日はそのまま制服でお店に来てるわけだし、何も問題はない……はずだよね。
よし。意気込みが薄れないうちにお店の中へレッツゴー。
「いらっしゃいませ。ようこそアクアリリィへ」
まず私を出迎えてくれたのは、いつもと変わらぬ光景だった。それなのに、改めてお客さんとして見るとまた違う魅力がある気がする。
そして、さすが翔子さん。事前に何も伝えてないのに、私がお客さんとして来ても一切動じない。根っからの仕事人なんだろう。そんなところがとてもカッコイイ。
気を利かせてくれたのかどうかは知らないけど、瑠璃ちゃんが良く見える席に案内された。飲み物の注文をして、瑠璃ちゃんに視線を送る。
向こうも気付いてくれたようで、私に気付いて小さく手を振ってくれる。
こっちもお返しだ。ふりふり。
さて。その隣にいるのが噂のルナさんかな。初めて見るけど、かなりの美人さんだ。背が高くて、髪も長い。赤いフレームの眼鏡をかけた顔に浮かぶ余裕そうな表情が、大人っぽい魅力を放っている。
でも、一番目を惹かれる場所は他にある。その服装だ。どうやらルナさんもお店の制服を着ない人らしい。もしもあれが制服だと言われたら、来る場所を間違えたと思うしかないだろう。
だって、科学の先生みたいな白衣を着ているんだもの。長袖のコート型で、膝下までがすっぽりと覆われている。前はボタンを留めているのだが、胸元にチラリと見える黒い肌着が妖艶な魅力をこれでもかってくらいに振りまいている。
そのルナさんまで私に手を振ってきた。なんとか私も振り返したけど、おずおずとした動きだったに違いない。
「お待たせしました。ミルクティーでございます」
翔子さんがカップを机に置く音で、釘付けだった視線が解放された。
「あ、ありがとうございます」
「瑠璃のこと、しっかり見てあげなさいね」
小声で言うと、翔子さんは持ち場へと戻って行った。
ミルクティーを一口飲み、改めて瑠璃ちゃんの方を見る。もう私を気にしている様子はない。元々お客さんに過度なアピールをするようなキャラでもないから、当然を言えばそうなんだけどね。今はルナさんの顔を真っ直ぐ見上げている。
あ、ルナさんが気付いたみたい。瑠璃ちゃんの頭をポンポンってしてる。満足気な瑠璃ちゃんを見ていると私も幸せになる。
ふう。眼福ごちそうさま。
──じゃなくて! 二人の仕事ぶりを見ないといけないんだった。
ミルクティーをもう一口飲んで、気分を切り替える。うん、マスターはコーヒーだけの人なんかじゃない。あの人が作るドリンクはなんでも最高だ。
よしっ、なんとか落ち付いてきたかな。
では、これより観察を開始する。傍から見たら残念な表情になるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。ここはそういう場なんだから。
二人を見ていてまず気になることは、手を繋いでいないということだ。ただ並んで立っているだけ。代わりに体がくっついているというわけでもない。
店内を見渡せば、他のコンビはみんな手を繋いでいる。瑠璃ちゃんとルナさんだけが特別、というか特殊? みたいな感じだ。
手を繋いでいないから、それぞれが相手を気にせずに待機している。さっき見た頭ポンポンの流れはどこへやら。ほんわかした二人の世界なんてものとは遠く無縁だ。
それでも人気の理由がどこかにあるはず。その正体はわからないけど。
さらに見ていると、また気付いたことがあった。ほんの一瞬、それも時々のことだけど、ルナさんが瑠璃ちゃんの髪や服をいじるのだ。手持ちぶさただから何気なく触ってるだけ、という考えでやっているように見える。何度か撫で上げたらすぐに手を引く。そんな気紛れの早業が数回繰り出されていた。
瑠璃ちゃんはというと、そんな芸当など気にしない素振りをしているが、目が少しだけ泳いでいる。嫌がっているわけではなさそうだから、ルナさんのことが気になっているんだろう。信頼しているからこそ、成り行きを見守って身を任せているのかな。
……信頼、か。
その言葉が持つ響きは重い。一体どれだけ二人で過ごせばあんな関係を築けるのだろう。まだ出会って二か月もたっていない程の付き合いである私は、そこに追いつけるのだろうか。
私は瑠璃ちゃんにとって、どんな存在なのだろう。
いや、悩むのは後だ。今はあの二人から目を離すべきではない。参考にできる部分があるかもしれないのだから。ほら、注文に呼ばれたみたいだ。お客さんに瑠璃ちゃんが歩み寄っている。
あれ? ルナさんは一緒に行かないのかな。所定の位置に立ったまま、瑠璃ちゃんが注文を受ける様子を後ろから眺めている。やっぱり一味違うコンビらしい。普通ならば、私が瑠璃ちゃんとやっていたように二人で注文を受けるのに。
瑠璃ちゃんが注文を受け終えて、ルナさんのところへ戻る。何か話してるみたいだけど、注文の内容でも伝えているんだろうか。ハンディを見せながら喋ってるし。話し終えると、ルナさんが注文をマスターに通す。
注文を受ける時には特別なことしないのかな。それもまたあの二人が持つ個性なのかもしれないけど、なんだか物足りないかも。
そんなことを考えているうちに、注文を伝え終えたルナさんは瑠璃ちゃんのところへ戻り、その頭を撫でていた。注文を取ってきたことを褒めるように、優しく、何度も。
全然物足りなくなんかなかった。瑠璃ちゃんったら俯いて、気持ち良さそうに目を細めてる。そんな恥じらいの仕草をしながらルナさんの白衣を掴んでいるけど、あれは一体なんだろう。私には何かをおねだりする様子にしか見えないんだけど。
ルナさんは仕方ないな、みたいな表情で微笑んだ。頭を撫でていた手はそのままに、残る右手で瑠璃ちゃんの体を抱き寄せた。瑠璃ちゃんは驚いているのか固まっている。私も突然のことにポカーンとするしかない。
瑠璃ちゃんもルナさんの体に手を回そうとするけど、おどおどしたその動きは見ていてハラハラする。それでも身長差がある二人の抱擁は、見ていてとても絵になった。
そうして熱いハグを終えた二人は、何事もなかったかのように離れ、最初のように互いを気にしない姿勢へと戻った。
これが、二人の作り出す世界ということか。なんという起伏の激しさだろう。
普段からイチャイチャしてスキンシップをし合うのは、まさに若さゆえにできること。大人になれば、もっと落ち着いた恋をするというものだろう。あの二人はその空気を表現しているに違いない。
気にしてない風を装っているけど、本当は相手のことを一番に考えている。そんなメリハリのある付き合い方を体現しているのだろう。
やっぱり、あの二人は凄いな。勝てる気がしないよ。
喉元に渦巻いたよくわからない感情を流すように、冷めつつあるミルクティーを飲み込む。なんだか、やけに甘ったるい。底の方に溶かしきれていない砂糖でも沈んでいたのかな。マスターがそんなミスするはずないと思うけど。
瑠璃ちゃんに向けていた視線を戻し、テーブルに落とす。
こうして実際に目の当たりにすると、瑠璃ちゃんが人気だという理由がわかってしまった。私といる時とはキャラから雰囲気まで何もかもが違う。
瑠璃ちゃんは、パートナーの型にぴったりはまるように対応することができるのだ。その証拠に、私も瑠璃ちゃんとお店に出ている時は純粋に楽しめていた。
その変幻自在さは見れば明らかだ。ルナさんのキャラに従って、瑠璃ちゃんも健気で大人しいキャラを演じている。私の知らない姿がそこにあった。
近くにいたはずなのに、私はその本質を見抜けなかった。それどころか、こうして離れて観察することで、初めて気付かされる始末だ。
いつの間にかミルクティーは空っぽになっていた。カップの底に向けられている私の視線は何を見るでもなく、ただわずかに残った飴色の液体を眺めている。
それからすぐに、私はお店を後にした。これ以上居続けたらどうにかなってしまいそうだったから。なんだか、今はもう何も考えたくない。
そういえば私、今日はどうしてここに来たんだっけ。
思い出せないや。