4 イチャイチャするのが仕事なんだけど
さて、幸せを満喫したことだし、改めて仕事に取り掛かろう。
当然と言えばそうなんだけど、ただイチャイチャしてればいいなんてことはない。一応接客業なんだから、やるべきことはいくつかある。
あ、ちょうど新しいお客さんが入ってきた。いい機会だし、ここで仕事の流れを一度通してやってみよう。まだ私は新人だし、確認の意味も込めてね。
「いらっしゃいませ。ようこそアクアリリィへ」
最初にお客さんと対応するのは、基本的に翔子さんの役目だ。人数を確認し、空いている席へと案内する。その後に私たちの出番となるわけだ。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
そう言って私はお客さんに水を出し、瑠璃ちゃんはおしぼりを渡す。このお客さんも、私たちと同じように二人組だった。女性同士のお客さんだからってわけじゃないけど、つい頬が緩んでしまう。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
あとはドリンクや食べ物の注文を受けて、それをマスターや厨房に通せば完了だ。できあがったら、席までそれを持っていけばいい。
うん、実に簡単なお仕事だね。初心者の私にもできるくらいだから間違いない。
……で、後は何をすればいいかと言うと、それはもう予想がついているだろう。瑠璃ちゃんとイチャイチャする時間というわけだ。
だけど、我を忘れて没頭していいはずがない。こう見えても、初めての仕事で結構緊張しているんだから。余裕がないせいで視線に落ち着きがなくなってしまうのは仕方ない。
店内の広さはそれなりで、端っこにいても反対側の壁にかかっているポスターになんの絵が描かれているかわかる程度だ。小さなランドルト環もそれなりに判別できる私の視力で判断してるから、目が悪い人は当てはまらないかも。
座席は複数人用のテーブルが八個と、一人でも座れるカウンター席が六個。大体三十人くらいで満席になってしまう計算だ。
カウンターの中では、マスターがコーヒーを淹れている。いかにも特注ですって形をした小型バーナーと、そこで暖められているお湯。それを観察するマスターの目つきは、直視すると何かが貫けるんじゃないかってくらい真剣だ。一言で表せば、近寄りがたい雰囲気。
そう言えば、マスターと会話らしいことをまだしてないような……てか、マスターってどんな声だっけ? ぱっと浮かんでこない。マスターに関することって、本人じゃなくてオーナーとか翔子さんから聞いたからなあ。
マスターと呼ばれているだけあって、アクアリリィの店長も兼任しているらしい。それも本人からではなく、瑠璃ちゃんから聞いた。オーナーと店長は別物ということを、そこで初めて知ったのはここだけの話。
だって、違いがよくわからなかったんだもん……。
とにかく、マスターは偉い人ということだ。もしマスターがいなくなったら、この店は一発でやっていけなくなる。それくらい必要な存在なのだから。
カウンターの横には奥へと続く通路があり、その先に厨房がある。アクアリリィの料理は、さっきも言ったようにめぐみさんが仕切っている。普段は自分で全部作っているが、忙しい時には数人が手伝いに入ることもあるようだ。
いくつかの料理を試食させてもらったことがあるけど、どれも舌鼓を打つという表現がぴったりな味だった。めぐみさん、恐るべし。人は見かけによらないって本当だね。
「紗希ちゃん。コーヒーができたみたいだから、持って行こう?」
さすがマスターは仕事が早い。それでも味はしっかりしてるんだから凄いよね。
私と瑠璃ちゃんで一つずつコーヒーを持ち、お客さんのテーブルに持って行く。
「お待たせしました」
コトリ、と置いたカップの中でコーヒーが揺れる。それに目を奪われることもなく、私たちは短くお辞儀をして、元の場所へと戻った。
これで接客に関しては一段落。あとはお客さんが帰る時にお会計を出せばいい。途中で追加注文があるかもしれないが、そうしたらその都度対応するだけだ。
ではそれまでの間、何をすればいいのか。答えはとっくの昔に出てるよね。
「紗希ちゃん、仕事してる姿も様になってきたね」
「そ、そうかな? ありがと」
「うん。頼りにしてるから」
「……照れるってばぁ」
とまあ、こんなじゃれ合いをしていればいい。もちろん耳打ちをすることで雰囲気を作るのも忘れない。
チラッ、とお客さんの様子を確認する。
視線を感じていたのは気のせいではなかったようだ。さっきコーヒーを持っていったテーブルの女性二人組が、私たちを見ながら幸せそうに頬を緩めていた。
思いのほか順調かもしれない。よし、この調子で仕事を楽しんじゃおう!
「紗希ちゃん、五時になったよ」
「え、もうそんな時間?」
楽しい時間が過ぎるのは早い。仕事という大義名分を掲げて瑠璃ちゃんとイチャイチャしてたら、あっと言う間にこんな時間だ。
途中でお昼の休憩を挟んだけど、そこでも瑠璃ちゃんと一緒だった。共に過ごした時間、その長さおよそ七時間。一日の約三分の一だ。
「瑠璃ちゃんはこの後どうするの?」
仕事とはいえ、これで一緒にいられる時間が終わってしまうのは残念だった。急速に体から力が抜け、溜息の一つも出したくなる。
「私も五時であがるつもりだよ。紗希ちゃんと一緒だね」
前言撤回。こんなこと言われたら溜息なんて引っ込めてどこかへ投げ捨てたくなる。それで空いた場所を瑠璃ちゃんで埋めたくて、もっと求めてしまう。
「よかったら、一緒に帰らない?」
「いいよ。紗希ちゃんって帰る方向どっちだっけ?」
あれ、わりとあっさりオッケーしてもらっちゃった。順調過ぎてなんだか怖い。
「駅の方だよ。電車で来てるから」
「そうなんだ。私も同じ」
なんとまあ。ここまで被るとは何かの縁じゃなかろうか。
「じゃあさ、電車の方向は? 私は上りなんだけど」
「私は反対方向……」
瑠璃ちゃんが目に見えてがっかりしてる。私だって同じだ。流れ的に、ここは一緒になるはずじゃないか。
「あーあ、紗希ちゃんとは駅でお別れか。残念だなあ」
「そんな、私だって瑠璃ちゃんと離れるのは寂しいよ」
「紗希ちゃん……」
「瑠璃ちゃん……」
ひしひしと感じる幸せオーラ。初日だというのを忘れそうになる。
こうやっていい雰囲気を作るのにも慣れてきた。イメージトレーニングは欠かさなかったし、瑠璃ちゃんがリードしてくれる。だから私は信じて任せられた。相性が良かったのかもしれない。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
瑠璃ちゃんに手を引かれ、店の奥へと歩き出す。
「お疲れ様でした」
「お疲れ。二人とも、気を付けて帰るんだよ」
翔子さんに挨拶をして、裏手に引っ込んだ。もうお客さんの目はないのに、手を離そうとしない瑠璃ちゃんにキュンとしそうになる。
結局、更衣室に入って着替え始めるまで手は繋いだままだった。更衣室では私たち以外にも数人の姿があったが、そんなのは全然目に入らない。
「今日はどうだった?」
「うーん、初日だったからなんとも」
答えながら、私は全く別のことを考えていた。瑠璃ちゃんってやっぱり細いなーとか、背が小さいのに私よりスタイルいいなーとか、ピンクの下着ってかわいいなーとか。
だって、仕事前に見られなかった分を取り返すって誓ったんだもの。女の子同士の特権を、今ここで使わないでどうするのって話。
「……紗希ちゃん。そんなに見られたら、その」
「あ! ご、ごめんね。別にそういうわけじゃ」
どういうわけなのかは私にもわからない。ただ口をついて出ただけ。
「ほら、紗希ちゃんも早く着替えて帰ろうよ」
瑠璃ちゃんの髪が脱いだ服に擦られ、さらさらと流れる。女の子独特の匂いっていうのかな。更衣室っていい香りがするんだけど、瑠璃ちゃんの周りだけもっと上質な香りが漂っている。
「ねえ、瑠璃ちゃん」
「うん?」
「今日は……ありがとね。私に色々教えてくれて」
「どうしたの、いきなり?」
うふふ、って瑠璃ちゃんが微笑んでる。余裕たっぷりなんだなあ。私とは大違い。
「なんか、お礼言いたくなったから。それだけ」
対する私はもじもじとしている。客観的に見られたら初々しいなって思えるんだろうけど、当の本人はそれどころじゃない。
「こっちこそ、ありがとう。紗希ちゃんって面白いから、色んなことしちゃった」
「いや、その……もっとしてくれても、よかった、かな」
私は何を言っているんだ。最後の方は小声で瑠璃ちゃんに聞こえたかわからないし耳とか頬が熱くなってるし視線は泳ぐしあーもうどうしよう。
「そう? じゃあ……次のお楽しみだね」
いたずらっぽく口角を上げる瑠璃ちゃん。心から楽しみにしているんだろうということがわかる。それは私も同じだ。
次があるということ。つまり、また瑠璃ちゃんに会えるということ。そう考えると、心の奥底から湧き出る何かを抑えられなくなる。
ああ、そうか。今更だけど確信した。
私はとっくに夢中だったんだ。瑠璃ちゃんが振りまく、その魅力に。
お店の裏口は細い路地に面していて、高い建物に挟まれているので日当たりが悪く、空気も濁っている。そんな暗い場所を一人で通るのは怖いに決まってる。
けれど、今は瑠璃ちゃんがいる。手は繋いでいないけど、こうして隣を歩いてくれている。誰かがいるだけで、こんなにも心強く感じられる。
駅までは歩いて八分ほど。百合喫茶なんてものがあることからもわかるように、この街はいわゆるオタク的な色に染まっている。パソコンショップからフィギュアショップ、同人誌専門店だって何軒も揃っている。大きな書店はいつ行っても大勢の人が入っている状態だ。目当ての新刊が出た時にはいつもお世話になっている。
アクアリリィは国道から一つ道を外れたところにある。けれど、周囲にある個人経営の電器店には常に人が集まっている。マニアックなパーツでも売っているのだろうか。
そんなちょっと変わった小道だけど、人通りは決して少なくない。メインストリートじゃないからこその楽しさってあるよね。よくわからないで言ってるけど。
歩いて数分もすれば、この街の大動脈とも言える大通りが見えてくる。夕方ということもあり、満員電車みたいな人だかりができていた。気を付けていないと瑠璃ちゃんとはぐれてしまいそうだ。少しだけでも体を寄せておこう。
……あれ? もう私たちはお店を出てるし、仕事中じゃないよね。プライベートな時間を満喫中だよね。
だったら「瑠璃ちゃん」じゃなくて本名で呼び合ってもいいんじゃないの? でも唐突に名前教えてとか、そんな話題を出す空気でもないし。
あー、どうすりゃいいの、これ。私から名乗ればいいんだろうか。わからん……。
そんなこんなで、孤独な脳内会議をしていたら駅に着いてしまった。なんか曖昧な感じで答えなんて出なかったけど、瑠璃ちゃんとの時間は楽しかった。
「私は定期があるんだけど、瑠璃ちゃんは?」
「私も! ちょうど通学範囲内だからさ」
「へーっ、私もだよ。一緒だね」
「また一緒のこと、あったね」
「ねー」
こんな何気ない会話が楽しくて仕方ない。だから、もうすぐ離れなければならないということが寂しくて仕方ない。また次の出勤日になれば会えるけど、だからといって寂しさが消えるわけじゃない。
「じゃ、私はこっちのホームだから」
「うん。またね」
手を振ってくれる瑠璃ちゃんに、私も手を振り返す。エスカレーターで運ばれながら、瑠璃ちゃんの姿が見えなくなるまで。
ホームにも大勢の人が集まっていた。適当な列に並び、電車が来るのを待つ。なんだか気が抜けた感じ。バイトの疲れもあって、ぽけーっとしちゃう。
ふと隣のホームを見る。遠いけれど見間違えるはずもない。瑠璃ちゃんがいた。向こう側も人がいっぱいいるけど、なんとかその姿を確認できる。
しばらく見ていると、瑠璃ちゃんがこっちを向いた。目が合い、私は視線が逸らせなくなる。時間が止まったかのような感覚。周囲の雑音も耳に入らない。
私を見て明るい笑顔になった瑠璃ちゃんが手を振っている。小さな動きだったけど、それでも私は気付けた。はっとした瞬間に体の硬直が解け、こちらからも振り返そうとする。
だけど遅かった。騒音と共に電車が滑り込んできて、瑠璃ちゃんの姿を隠してしまった。振ろうとした手は行き場を失い、ゆっくりと下ろされる。
電車が消えた向かいのホームは嘘みたいに静まり返っていた。