3 瑠璃ちゃんと手を繋いだよ!
「まずは私の真似するだけでいいから、よく見ててね」
言われなくても見てますよ、なんて冗談がそろそろ言えなくなってきた。
オープン前のお店には、他の従業員たちも集まっている。女の子だらけというこの状況。いつもだったら妄想に没頭するんだけど、今はそれどころじゃない。
私はアルバイトの経験がなく、ここが初めてなのだ。そんなわけで、ものすっごい緊張してる。言葉はアレだけど、初体験ってことになるわけだし。目はキョロキョロしちゃうし胸がキュウってなるし喉の奥に何かがつっかえたような感じになるし。
「……紗希ちゃん、緊張してる? 震えてるよ」
「そ、そそそんなことはなな、ないよ」
漫画とかでありそうな噛み具合のセリフが口から出た。ホントに言葉ってこんな風に噛んじゃうんだ。これ以上ないほどにいらない新発見。
瑠璃ちゃんは柔らかい微笑みを私に向けてくれる。
「ふふっ。私がいるから大丈夫だよ」
私の右手が、何か温かい物に包まれた。見ると、瑠璃ちゃんが私の手を握っている。
「……ん?」
突然のことで、ちょっと理解が追い付いていない。だって、手だよ手。いきなりこんなことになるなんて確かに妄想はしたけども。
考えるよりも先に、私の手は握り返していた。小さくて柔らかい瑠璃ちゃんの手が、今ここにある。こんなに続けて幸せを味わってバチが当たらないだろうか。
「落ち着いた?」
「……う、うん。なんとか」
本当はさっきと違う意味で落ち着かないんだけど、それは置いておく。
「それじゃ、私たちの立ち位置に行こっか。今日は……あのテーブルの近くだね」
瑠璃ちゃんに手を引かれ、その場所へ向かう。店内の奥、マスターが控えるカウンターに近い位置。近くに席があまりなく、なんとなく他から切り離されたイメージがある。
日によってスタッフの立ち位置が変わるというのはマニュアルにも書いてあった。色々な従業員、つまりはカップリングをお客さんに見てもらうためらしい。
「この辺かな。お客様に近過ぎず遠過ぎずがポイントなんだよ」
「なるほどねー」
そうこうしているうちに、奥から更に女の子たちが出てきた。世間は休日ということもあってか、結構な人数だ。初めて見る人も多い。
「やあ、おはよう」
そんな中で話しかけてきたのは、あの日私を案内してくれた受付さん──翔子さんだった。そういえば「翔子さん」っていうのもお店での名前なのかな。
「おはようございます」
瑠璃ちゃんと二人揃って挨拶を返した。翔子さんは上下黒のピッチリとしたスーツにベストを重ね着している。ネクタイ姿が凛々しく、髪も結んでまとめているし、どこかのビジネスウーマンみたいな雰囲気が出ている。
「えっと……紗希、だったよね。今日これから初めてお店に出るわけだけど、緊張してる?」
「いえ、大丈夫です。私には瑠璃ちゃんがいてくれますから」
そう言って、手を握り直した。瑠璃ちゃんと視線が交わる。
「おやおや、もう二人は仲良しなんだね。いいことだ」
じゃ頑張ってね、と手を振りながら翔子さんは入口に向かった。シャッターを開けて店をオープンさせるのだろう。
それにしても……翔子さんが斬新な感じに見える。最初に来た時は敬語で礼儀正しい印象だったのに、やっぱりお店の中では違うんだ。あんな風にサバサバした翔子さんも魅力的だなあ。なんか、どこかの演劇集団で男装の麗人とか言われてそう。
「お店開けました! 本日もよろしくお願いします!」
妄想を吹き飛ばすほど店内に響く翔子さんの声。間髪入れず、みんなで返事をする。
「はい!」
私の物語が、今ここから始まる。
開店してから数時間。店内の席は七割ほど埋まっている。その顔触れは男女比が六対四くらい。団体で来ている人もいるし、一人のお客さんもいる。そんなごちゃ混ぜの客層だけど、一つだけ共通している点がある。
そう。ここにいる人みんな百合が好きである、ということだ。
「どう? そろそろ慣れてきた?」
瑠璃ちゃんが小声で話しかけてきた。
「うん。隣で見てたから、なんとなくわかってきたと思う」
私も同じようにひそひそと答えた。内緒話をしてるみたいで、なんだか楽しい。
「そしたら、今度はこうやって待機してる時のことについて教えるね」
「え、それって……」
「そう。紗希ちゃんが一番やりたかったことだよ。ほら、あんな風に」
瑠璃ちゃんが目をやった先には、二人の女性がいた。あれは……結衣さんと香澄さんだ。ここに来た最初の日に見たから覚えている。あの二人に見惚れてしまったのはいい思い出。
その二人が私の視線の先で静かに佇んでいる。手をしっかりと繋ぎ、当然のように指が絡められていた。肩を寄せ合うその姿からは、互いを信頼しているのが離れていても伝わってくる。許されるなら、このまま何時間でも眺めていたい。そんな気分にさせられてしまう。
「紗希ちゃん、見過ぎだよ」
くいくい、と袖を引かれて我に返る。そういえば仕事中だった。
「ごめんね、つい」
「もう、私が隣にいるのに……」
ん? 今のは幻聴? なんか瑠璃ちゃんが史上最高にかわいいことを言ったような……。
「あの、瑠璃ちゃん?」
「でも、そういうところも紗希ちゃんらしくていいんだけどね」
そう言ってクスクスと笑う瑠璃ちゃん。むむ、私はいいように扱われたのか。
「いやー……あはは」
でも、そうやって小悪魔的なことをしてくる瑠璃ちゃんもかわいいから許しちゃう。むしろ、もっとして欲しいとか思ったり思わなかったり。
「紗希ちゃん、そこのお客様を見て。気付かれないように横目でね」
「う、うん」
言われるかまま、示された方を見てみる。顔は瑠璃ちゃんと向かい合わせたまま。なんだか奇妙な気分。
えっと、あのお客さんかな。一人で来ているようで、チェック模様の服を着ている。足元に置かれたバッグには、本やら箱やらの戦利品と思われる物がギチギチに詰まっていた。
それはさておき……ふむ。私たちを見て、とっても満足そうに表情を緩めているね。妄想している時の私があんな顔をよくしているからわかりやすい。
「どう、わかった?」
「なんか、幸せそうな顔してた」
私の言葉に、瑠璃ちゃんが深く頷く。
「そうなの。あのお客様はね、私たちを見て楽しんでくれたんだよ」
つまり、私たちで百合妄想をしたってことか。なるほど。あのお客さんの脳内では、私と瑠璃ちゃんがどんな風にイチャイチャしているんだろう。どっちがリードしているのやら。
──客観的に見ると、これはくるものがある。いや、別にキモイとか言うつもりはないし、何を考えようと個人の自由だし、私自身も頭の中身は同じだからいいんだけど。
なんと言うか、自分のしてきたことを悔い改めさせられるような、そんな感じ。妄想する癖、ちょっと控えた方がいいのかなあ……。
「だからね、紗希ちゃん」
私が一人で悩んでいると、瑠璃ちゃんがずいっと顔を近付けてきた。そこでようやく気付いて、体が変にビクンとなってしまう。
そんな私を余裕の眼差しで見つめながら、瑠璃ちゃんはこう囁いた。
「私たちが仲良しだってとこ、もっと見せつけちゃおう?」
押し潰されそうなほど眩しい微笑みを向けられた。私にできることは、おずおずと返事をすることだけ。
「そ、そうだね」
普段あんなに妄想してたのに、いざ実際にそうなると予想通りの切り返しなんてできなかった。予定ではここで私が瑠璃ちゃんの顎を取って「そうだね。じゃあ、まずは寂しがってるこの唇を塞いであげようか」とか言うはずだったのに!
……ん? なんだかやけに視線を感じるな。横目で周囲を伺ってみよう。
「あの、瑠璃ちゃん?」
「どうしたの?」
「私たち、ものすっごく見られてるよ……」
そう。さっきの人はもちろん、他のお客さんもこっちを見ていたのだ。それもみんな同じように幸せそうな顔しちゃって。私もあの輪に加わりたい。
「みたいだね。今日は新人の初出勤ですって告知してたからかな」
「そ、そうなの?」
「みんな常連さんだから、紗希ちゃんがその新人だってわかってるんだと思うよ」
うわ、うわー。やっぱり新人ってだけで見られるんだ。それに瑠璃ちゃんは前から人気だったみたいだし、そんな二人がいたら見るのは必然、みたいな?
ベテランと新人のドキドキ初コンビ。そんなの私だってガン見するよ。
「ねえ……これでいいの?」
こうやって小声で話している姿も想像力をかきたてられてプラス要素になっているんだろう。話している内容が聞こえないからこそ、妄想が好き勝手に捗るというものだから。
そんなことを考えていたら、瑠璃ちゃんが私の耳に手を添えてきた。続けて感じる温かい吐息と小さな声。
「そうだよ。いい感じ」
耳元で囁かれて、私の体は一気に強張ってしまった。客席に和やかなオーラが漂っているのが見なくてもわかる。私だって同じようにポケーっと頭の中を空っぽにしたい。今も空っぽみたいなものだけど。
なんだか、初日なのに瑠璃ちゃんに振り回されっぱなしだ。さすがは先輩ってだけのことはある。私にこうして色々と教えてくれるんだから。
そう。こうやって瑠璃ちゃんが引っ張ってくれるのを、私は本当にありがたいって思ってる。だって、初めてで何もわからない私に身をもってお店のことを教えてくれているんだから。その思いやりがわからないほど私は鈍感じゃない。
「瑠璃ちゃん」
だから、私は呼びかけた。その空気を壊したくないから。
「なあに?」
首を傾げる瑠璃ちゃんに向けて精一杯の笑顔を作り、私は囁く。
「呼んでみただけ」
「もう、紗希ちゃんったら」
最高の笑顔を返してくれた瑠璃ちゃんを見て、私は心が澄み渡っていくのを感じていた。私の相手が瑠璃ちゃんで良かった。そんなことを考えながら、瑠璃ちゃんと繋いだ手を握り直す。
あ、今更だけど手は最初から繋いでたよ。正確にはオープン前に瑠璃ちゃんが私の手を取ってくれてからずっと。注文を受ける時も、私がハンディを持って瑠璃ちゃんが入力していたから離すこともなかったし。瑠璃ちゃんの利き手が右だったから、左手はずっと私のものだった。
手を繋ぐって、やっぱりいいよね。見て楽しむのもそうだけど、実際に体験するのも。