2 二人きりで生着替えだって!?
それから私のアクアリリィ・ライフが始まった。
そこで待つのは、狂おしいばかりの甘美で切ない恋模様。性別という壁を超え、清らかな想いを確かめ合う。見るだけでもお腹一杯なのに、私はさらに奥へと踏み込める。百合好きな乙女というのは、その存在自体が勝ち組みたいなものなのだよ。わっはっは。
「じゃ、そこ終わったらカウンター拭いてね。あとテーブルと椅子も」
はぁ……現実は厳しいね。百合の園かと思ったら掃除の園だったよ。掃除園。略すとなんだか辞書みたい。そのココロは分厚く終わりが見えません。
即興だからイマイチなのは仕方ない。
「はーい、わかりましたー!」
元気よく答えておかないと、あの人(めぐみさんといって、この店では古株。キッチン担当で店の料理は大体めぐみさんが作っている)は怖いからなー。料理の腕前は凄いし色々な物が作れるのに、裏ではこんなだから。
そう。私は奥に入りすぎた。入口だけ見ていればよかったものを、あろうことか裏側から見てしまったのだ。そこに転がるのは衝撃的な現実。食べ残しが散らばっていた事務所を見た時に理解するべきだった。ちょっとがっかり。
ちなみに、あれはオーナーの私物だったらしい。帰りがけに「食うかい?」と差し出されたが、やんわりと断っておいた。なんか、食べる気になれなかったし。
今日は日曜日。これまで数回出勤しているが、私はまだお店に出ていない。こうしてオープン前にお店の掃除をしたり、裏で雑用をしていたり、そんな日々が続いている。まだ働き始めて日も浅いから仕方ない。ここのやり方があるのだろうから、それに従うだけだ。
でも私は負けない。めげずに働いていれば、きっと私にもかわいい天使ちゃんが見つかるはずだから。そのことを考えるだけで表情筋がだらしなく歪みそうになるけど、めぐみさんに見つかったら何を言われるかわからないから今はぐっと我慢。
「おはようございます」
おっと、この声は。聞き間違えるはずもない。
「おはよう。今日も瑠璃はかわいいねえ」
「ありがとうございます。めぐみさんもセクシーですよ」
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
瑠璃ちゃん、今日もぽわぽわした空気を振りまいてるなあ。頭ナデナデして、ほっぺスリスリして、体全体をハグハグしたい。ちなみに私がされるのも大歓迎。
「紗希さん、おはよう」
「おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」
「う、うん」
あれ、気合いが入りすぎたかな。瑠璃ちゃんがちょっと引いてるぞ。まあいいか。これくらい元気がないとここで働くにはふさわしくない。
てか、やってけない。いつになったら私は女の子とあれこれできるのだろう。
「それじゃ、行こうか。めぐみさん、また後ほど」
瑠璃ちゃんに続いて、私も頭を下げる。
「失礼します」
「ん、またね」
プラプラと手を振るめぐみさんは、なんだか咥えタバコが似合いそうな雰囲気をまとっていた。余裕とか憂鬱とか、色んな感情を凝縮したようなその表情からは、人生経験の豊富さが滲み出ている。
とても砕けた言い方をすれば、二十代を軽く超えそうな雰囲気だ。出入り禁止になりかねないから絶対に言わないけど。
「今日からお店の方にも出てもらうことになったよ」
歩きながら、瑠璃ちゃんが今日の予定を告げてくる。それを聞いて、私は心の中で天井にぶつかるくらいの勢いでガッツポーズを繰り出した。
ついに来た。私が待ちわびていた瞬間が、ようやく……。長かった裏方作業もマニュアル座学もおしまいだ。
店に出られるということは、つまり女の子とコンビを組めるということ。イチャイチャできるということ。私が求めていたこと。努力が報われた瞬間はやっぱり爽快。
「えっと、瑠璃ちゃんは一緒にいてくれるの?」
「その予定だよ。だって私は教育係だもん」
控え目な胸を張る瑠璃ちゃん。誇らしげに言ったつもりなんだろうけど、かわいさしか出てないよ。それで十分だけどね。
あ、気付いたかもしれないけど「瑠璃ちゃん」と呼べる仲になっているんだな、これが。そう呼びたいとお願いしただけなんだけど、恥ずかしそうに了承してくれたあの時の顔を思い出すだけでお腹いっぱい。
「じゃ、じゃあさ。瑠璃ちゃんが、私の相手役になるの?」
「そうなるね」
はい来ました。今日は私の最高に幸せな日になることが確定した瞬間。
瑠璃ちゃんとイチャイチャできる。しかも堂々と。お客さんの目はあるけど、見られながらというのもなんだか刺激的でおもしろいじゃないか。
あ、別に危ない趣味とか持ってないから誤解しないでね。私はいたってノーマルで平和的な思考の持ち主なので。
「そしたらさ、その、どんな風にしたらいいかな」
興奮冷めやらぬ私に向かって、瑠璃ちゃんはしれっと言い放つ。
「初日だし、マニュアルの例題にあった感じでいこっか」
「……あ、そうなんだ。ふうん」
テンション直滑降。マニュアルの例題と言えば、あの漫画形式になっていたやつのことだろう。あれはただ隣り合って立っているだけだった。それより先は二人の息が合ってからのお楽しみ──なんて煽り文句が小憎らしかったのが印象的な絵。
それでも、見る分にはそれだけで色々と妄想できる。いや、本当は少し妄想した。あの女の子二人、初々しい感じが良かったなあ。イラストレーターさんは誰なんだろう。私が見るに、あれを描いた人も百合好きに違いない。絵の構図から、そういうのもなんとなくわかる。
……っと、話が逸れちゃった。
今の問題は、こんなにかわいい子が隣にいるのに手も握れないなんて生殺しにも程があるってことだ。あ、でも腕とかさりげなく当てちゃったりしてみようかな。自然に触れた感じを装って、ちょっと照れ笑いなんかしちゃったりして。
「まだ開店まで時間あるし、もう一回マニュアルの復習しよっか」
そう言って瑠璃ちゃんは控え室の扉を開けた。ここは従業員の休憩室みたいな扱いになっている。十畳ほどの広さで、簡素な机と椅子がいくつかある憩いの場だ。いつも何かしらの自由に食べていいお菓子があるので、私もお世話になっている。
ちなみに、初日に私がいた事務室はオーナーや翔子さんなどが事務作業をする場所らしい。だからと言って、あの散らかり具合を納得する理由にはなっていないけど。
控え室には何人かの女の子がいた。見知った子もいれば、初めて見る人もいる。私たちは空いている机を選び、向かい合って座った。
マニュアルを開き、上がりそうになる目線を頑張って机に下ろし、瑠璃ちゃんの指導を受ける。何かを指摘されるたびに、甘いソプラノボイスが私の耳をくすぐった。
瑠璃ちゃんは見た目や中身だけじゃなくて、声までかわいいなんて反則だと思う。神は二物を与えずって誰が言い出したの。それ間違ってるよ。
「注文の取り方は覚えた?」
「うん。ハンディの使い方もバッチリ」
「レジはどう? ボタンの場所とかわかる?」
「もちろん。練習もしたからね」
私は事務所の隅にある練習用のレジを思い出した。あそこで教えられていた時は一日でも早くお店に出たいがために、受験勉強の時以上に集中していたっけ。その甲斐あって、今があるんだから頑張らないと。
「それじゃあ……あとはお店に出て、必要なことをその都度言っていけばいいかな」
「実践で、ってやつだね」
ワクワクするなあ。暴走しないようにブレーキはしっかり踏んでおかないと。頭の中で考えるのは自由だけど、それを行動に移しちゃったら大事件だからね。
「あ、そうだ」
瑠璃ちゃんが何かに気付いた顔をした。なんだろう。問題発生かな。とりあえず訊いてみよう。
「どうしたの?」
「あのね……これから、紗希ちゃんって呼んでもいい?」
深刻で重大な五文字の問題が発生した。サキチャンって、一体なんの呪文?
「んにゃ? うぇ?」
なんだこの声。出した自分でも不思議で仕方ないけど、それは一旦置いておく。おかげで少し正気を取り戻せたし。
えっと、私のことをちゃん付けで呼びたいだって? そりゃもちろん顎と鎖骨が激突するくらいの勢いで頷いて大歓迎しますとも。
「ほら、私もちゃん付けで呼ばれてるし、それなら紗希ちゃんって言った方がお揃いだし、そうしようかなって」
そんな澄まし顔で照れ隠しみたいなこと言っちゃって。瑠璃ちゃんのかわいさポイントは、とっくにメーターが振り切ってるのに。
こうやって言い訳しながら墓穴掘っちゃうような子、ツボなんだよね。それに、お揃いだって? いいじゃない。共通点を持つってのは重要なポイントだよ。
ぬふふぇ。あ、私今すんごく気持ち悪い笑顔しちゃってるかも。ダメダメ。
「いいよ。好きなように呼んじゃって」
「ありがと、紗希ちゃん」
微笑みとちゃん付けのコンボは破壊力抜群。それを今、身を持って知らされた。だから、頭のネジが一本吹き飛んでしまった。
そのネジには私の本名は紗希じゃないってことが書いてあったけど、この際どうでもいいや。
「瑠璃ちゃん」
「なに?」
「呼んでみただけー」
「もう。紗希ちゃんったら」
あらあら、うふふ、あはははは。
溶けて蒸発して世界と一体化しそう。まさかこんな鉄板妄想シチュエーションを実際に経験してしまうなんて。やっぱりここは天国だった。
「じゃあ、制服に着替えようか」
瑠璃ちゃんが立ち上がったので、私も続いた。向かう先は隣の部屋、更衣室だ。私の制服は少し前に完成していたのだが、お店の方に出られないので着るのは今日が初めてだ。
ちなみに制服は特注品らしく、身長やらスリーサイズやらを参考のために測られた。そうやって大がかりに準備したものだから、さぞ素晴らしい仕上がりになっているのだろうと心が躍る。
隣なので、すぐに移動できた。中に入ってみるが、更衣室には誰もいないようだ。つまり、瑠璃ちゃんと二人きりで生着替え。
……ゴクリ。
「紗希ちゃんのロッカーはここだよ」
自分のロッカーの前に立ち、すぐ隣を示す瑠璃ちゃん。ふむ、ロッカーまで隣同士とは奇遇だこと。つまり間近で一緒に着替えられるというわけか……なるほど。
神様ほんとにありがとう。今だけ無神論者でいるのやめます。
頭の中でまだ見ぬ瑠璃ちゃんの素肌を想像しながらロッカーを開く。そこには予想通り、私の制服がかけられていた。今まで見るだけだった制服を、ようやく着られるわけだ。
ワインレッドのワンピースと、それに重ねられた白いエプロン。喫茶店にふさわしく、清潔感溢れる仕上がりだ。
憧れの制服が私の目の前にある。実は、サンプルを見た時からずっと待ってた。やっと着られる……わけなんだけど。
さて、これはどうやって着たらいいのだろうか。マニュアルには書いてなかったよね。リボンで結ぶのかな。それともこのボタンで? いや、まずは袖を通すのが先かな。
「この制服、ちょっと複雑だから着替えるの手伝ってあげるね」
な、なんと。瑠璃ちゃんに着替えさせられちゃうとかどんなご褒美、じゃなくて素直にお願いしよう。
「えっと、じゃあ、お願いしていいかな」
興奮を隠すことを意識したら、なんだかそっけない返事になってしまった。瑠璃ちゃんはそんなの気にしてないみたいだからいいけど。
「じゃあ、まずは上着を脱いでくれる?」
「ちょっと待ってね。今から脱ぐから」
実を言うと私は、見るのも好きだが見られるのもいけるクチだ。オールマイティな雑食なので、大体の状況を楽しめる。服を脱げって命令されてるみたいで、ちょっとイケナイ気分。なんちゃって。
脱いだ服を畳みながら横目で瑠璃ちゃんを見る。うーん、あまり動じてない。女の子の肌は見慣れてますってことかな。経験豊富な瑠璃ちゃん……それはそれでアリだ。
「まずはこれを着てね。そしたら次にこれを──」
なんという手際の良さ。あんなに複雑そうに見えたのに、あっという間に私は制服を着せられていた。
「──はい、これでオッケー」
おお、我ながらいい感じに着こなせてるんじゃなかろうか。長めのワンピースが、膝下までを完全に覆い隠している。無駄な露出を抑えたこの気品さ。清楚な感じがして大変結構です。
「ありがと。へへ、どうかな?」
その場でくるりと回ってみせた。瑠璃ちゃんは小さく拍手しながら答えてくれる。
「かわいいよ。さすが紗希ちゃん」
「そ、そうかな」
こんな照れ笑いを浮かべている私だけど、その内側では湧き起る嬉しさを抑えるのに必死なんです。
今すぐ「瑠璃ちゃんこそかわいいよ!」って叫びながらムギュって抱き付きたいけど、まあ待て。お楽しみは後に取っておくのがいい。私はそんなタイプの人間だ。楽しみに取っておいた給食のプリンを取られたことは数知れず。
「私もすぐ着替えるから待っててね」
そう言うと、瑠璃ちゃんは大胆にも私の目の前で上着のボタンを外し始めた。それとなく眺めようとすれば、身長差のせいで見下ろす形になる。同い年なのに、瑠璃ちゃんが小さいから私がお姉さんになった気分だ。
姉妹か……血縁関係があるというところがポイントだね。たとえば、こんなのはどうだろうか──。
妹の着替えを見守る姉。いつの間にかこんなに成長してたんだなあと感慨深く頷く。昔は一緒にお風呂も入ったのに、最近は一人で入るようになっちゃって……お姉ちゃんは寂しいよ。また一緒に洗いっこがしたいな。
そうした想いを秘めていた姉はある日ついに──。
バタン! というロッカーが閉まる音で我に返る。
むぐ、いつもの悪い癖が出てしまった。今はすぐ近くに瑠璃ちゃんがいるってのに。
「お待たせ。お店行こうか」
見れば、瑠璃ちゃんはとっくに着替え終わっていた。そのワンピースは瑠璃という名前を表すように青く、私の目は釘付けになった。今私が着ている制服とは色が違う。それぞれのキャラに合わせた色なのだろうか。
じゃあ、私はどんなイメージでワインレッドになったんだろう。情熱とか正義とか、そういうのかな? 鼻血の赤とかじゃないといいんだけど。
私の問題は置いといて、こんな制服に着替える様子を見逃すなんてもったいないにも程がある。妄想なんてしなきゃよかった。
いや、まだチャンスはある。制服から私服に着替える時、つまり帰りを狙えばいい。今日は一緒にいてくれるらしいから、どう考えても自然な流れで一緒に着替えられる。完璧だ。自分の発想力が怖いくらいに。
「紗希ちゃん、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。さっ、いこいこ」
咄嗟に取り繕って更衣室を後にした。
お店に向かう私は、瑠璃ちゃんの少し後ろを歩いている。
ふむ。歩き方もかわいらしい。歩幅を小さくして、直線上を歩くように意識しているのかな。なんだかモデルさんの歩き方みたい。
こうして見ると、やっぱり瑠璃ちゃんは先輩なんだなって思う。たとえば雰囲気とか。私みたいに緊張でガタガタしてたりしないし、これじゃ瑠璃ちゃんの方がお姉さんみたいだ。
背の小さい姉か……それもいいな。そういうギャップは大好物なので。