1 教育係の子が可愛い件について
そんなわけで、私はこの百合喫茶「アクアリリィ」に入店したのだった。
正直言うと、結構ドキドキしてる。だって、初めて来たお店で「ここで働きたい!」と、ほとんど考えなしに言ってしまったのだから。
ネットで話題になっているのを知り、色々な情報を掻き集めた日々も今ではいい思い出。清潔で美麗な店内の画像。全国の同志(百合好き)による高得点レビューと詳細なレポート。そこで語られていた従業員同士のスキンシップ。調べるほどに想いは募り、実際にこの目で見たいという衝動が抑えられなくなった。
だからあの日、五月の平日ど真ん中にある創立記念日を利用して、私は開店前からお店の前に張り込んでいたのだ。変なパトロールの人とかに捕まらなかったのは、今考えるとラッキーだった。いちいち説明するのも面倒だし、簡単には信じてくれないだろうから。
トラブルを回避した私はオープンと同時に店内へ駆け込み、めくるめく百合の世界へと迎えられる。その中を見た瞬間、もう心は決まっていた。もしバイトをしたいと思っても、本当は日を改めるなりして事前に電話連絡をしておくのが礼儀ってものだっただろう。
それでも言ってみるものだ。あの後、なんとオーナーが直々に面接をしてくれたのだ。ちょうどお店に書類を取りに来ていて、さらに次の用事まで時間の余裕があったらしく、急な私の言い分はあっさりと通ってしまった。
その時は気分がハイになっていたこともあり、何を口走ったのかあまり覚えていない。私の百合に対する思いを熱く語ったような気がするが、確かではない。
とんとん拍子の展開になるけど、その場で私の採用が決まった。突然のことだったので、もちろん履歴書なんて持っていなかったのだが、後日でも構わないと言ってくれたのだ。私が強引に意見を通したような気がしなくもないが、他にも色々と取り計らってくれた。
感謝感激雨あられとは、この時のためにある言葉なんじゃないか。過程がどうであっても、とりあえずは結果オーライだ。私も晴れてアクアリリィの一員となれるのだから。
そして今日。記念すべき初出勤の日だ。意気込んでここまで来た私はお店の裏手にある事務所に通され、オーナーが来るのを待っている。ぽつんと座って一人きり。お店から少し離れているせいか、物音一つ聞こえない。
あの……すんごく寂しいんですけど。さっきまで一人で張り切ってたのがバカみたいじゃないか。どうしたらいいの、これ。
ここまで案内してくれた受付さん(確か翔子さんって名前だったよね)は、もう出て行ってしまった。いやに静かだけど、ここは本当に私が憧れた百合の楽園なの? 今が早朝とか深夜ってわけでもないし、いくらなんでも変じゃないかなあ。
視線がキョロキョロと動いてしまう。それほど部屋の中は広くなく、本棚とかデスクとか、いかにも事務って感じの家具が多い。一言で表すなら殺風景。ただ作業をするためだけの部屋というイメージ。なんだか、空気がちょっとひんやりしてる。
面接をしたのもこの部屋だったけど、状況が違うせいかあの時とは景色が違って見える。たとえばあれだ。壁に沿うように置かれた、長いテーブル。
そこには開封済みのお菓子の袋や紙パックジュースが置きっぱなしになっていて、私の理想を粉々にしてくれた。ついでに、テーブルに散らばるお菓子も粉々だった。
誰だか知らないけど、後始末くらいちゃんとしてほしい。お菓子を食べるなとは言わないし、むしろ女の子同士キャッキャ楽しくじゃれ合いながら食べさせ合ったりしてるのとか大好きだけど。
だけどさあ……これはちょっと、ね。
外から見るだけにすればよかったかな──ガックリきてそんなことを考えていた私の耳に、小さな足音が届いた。だんだんと近付いて来る。オーナーが来たのかな。ダメダメ。こんな落ち込んだ顔していたら採用取り消しとか言われちゃうかも。
よし、もっと違うことを考えよう。ここはあの有名な百合喫茶。女の子たちがいちゃいちゃしている楽園。手を繋ぎ、頬を寄せ合い、近付く唇──。
*
場に漂う独特の空気。無垢な乙女たちは、それに抵抗することもできずに流されてしまう。恥ずかしさと期待が織り成す二重奏。抱き締められた体は自由を奪われ、射抜かれた心は理性を飛ばされる。
誰が見ていようと関係ない。ここではすべてが許される。焦る必要もない。ゆっくりと、しかし確実に……ふんわりした髪は、いくら梳いても飽きがこない。
ただ触れ合っているだけ。過剰な進展もない。それだけで十分過ぎるほど満足できる。頭を撫で、胸に顔を沈ませ、相手の香りに鼻腔をくすぐられる。
思わず抱き締める力を強めたら、それがまた鼓動を速めていく。互いに求め合い、密着する肌は熱を帯び始める。吐息は熱っぽいものへと変わり、瞳は潤んで光を放つ。まともな思考などできなくなった二人は顔を近付け、桜色の唇を──。
*
はうー、そんな場面リアルでも見てみたいよー。
考えられる限りの幸せな妄想を頭の中で展開していると、小さく軋む音を立てて扉が開いた。はっとしてそちらを見れば、そこに立っていたのは私が待っていたオーナー……ではなかった。
数秒間の見つめ合い。あっけに取られたような表情のまま、最初に口を開いたのは向こうだった。
「あ、あの、こんにちは」
一目見て、かわいい女の子だなと思った。事務所の中を窺いながら入ってくる。理由は知らないけど、なんだか緊張してるみたいだ。
ふわふわしたウェーブのかかった髪に、くりっとした二つの目。扉の高さと比べると、背は私よりいくらか低めだろう。年齢はいくつなんだろう。私と同じ女子高生かな。いや、これなら中学生だと言われても疑う要素が見当たらない。
でも、それだと労働基準法とかに引っかかるんじゃないかなあ? 私が首を傾げていると、女の子は部屋の中へ一歩入り込んでくる。
「あの、どちら様ですか?」
おどおどする様子が、なんだか小動物みたいだ。後ろからぎゅってして頭をなでなでしたい。今すぐしたい。うずうずする。頬が緩む。
ああ、これ私の悪い癖だ。
「えっと、もしかして日本語が通じないのかなあ……どうしよう」
ところで、この子はなんで困った顔になっているのだろう。
こんなところにいるってことは、この子もアクアリリィの従業員なのだろう。事務所の横には控え室や更衣室があるらしいから、休憩の合間にこっちで何か用事でも済まそうとしたのかもしれない。
「あー……きゃん、ゆー、すぴーく、じゃぱにーず?」
なぜに突然英語? たどたどしい発音に、つい吹き出してしまう。この子のかわいさポイント一点追加。
「えっ、なんで笑うの? 英語、間違ってたのかなあ……」
この子、言うことが色々と突き抜けてるなあ。意外と、何か輝く物を持ってるのかも。度が過ぎてなければ、そういうのも私は好きなんだけど。
「ううん。日本語話せるよ。日本人だもん」
私が喋ると、それだけで彼女の曇っていた表情が驚きに染まる。いい反応をしてくれて、ちょっと嬉しい。
「で、ではもう一回訊きますけど、あなたは一体──」
「──今日からここで働くことになった新人の子だよ」
小動物ちゃんの言葉を引き継いだのは私ではない。声がした方を見ると、扉の近くに今度こそオーナーが立っていた。左手に鞄を持ち、右手を腰に当てている。ショートで切り揃えられた髪とスーツ姿のコンボは、何かのオーラを感じさせるようで直視しにくい。
「あ、オーナー。おはようございます」
くるりと振り返り、その子はオーナーにちょこんとお辞儀をした。そんなちょっとした動きも、やっぱりかわいい。
「はい、おはよう。呼んでおいて遅くなってすまないね、瑠璃」
「ええ、構いませんが、新人の子というのは……」
小動物ちゃんの名前は瑠璃ちゃんっていうのか。名前もかわいいじゃない。
「すぐにわかるさ。──さて、まずは座って落ち着こうじゃないか」
オーナーに促され、私の隣に瑠璃ちゃんが座った。その向かいにオーナーが腰を下ろし、机に鞄を置いた。その中から書類を色々と出している。ちらっと見ただけでも文字がいっぱいなのがわかる。頭が痛くなりそうだ。
準備にもう少し時間がかかりそうなので、隣の瑠璃ちゃんに視線だけ向けてみる。太腿の上で手を重ね合わせ、お人形さんみたいに座っている。やっぱり、かわいい子って何をしてもかわいいんだなあ……なんてことを考えていると、瑠璃ちゃんと目が合った。
これは緊張をほぐすチャンス。さっきの変なやりとりをしたせいで、なんだかお互いにギクシャクした空気になってたし。よし、爽やかさ全開の笑顔を向けて、小さく手を振ってみよう。
ニコッ。ふりふり。
えっ、なんで瑠璃ちゃん苦笑してるの? 私、また何かやらかしたかな。間違って変顔とか作っちゃった?
「すれ違いコントはそれくらいでいいかい? 話を始めたいんだけど」
オーナーが半目でずっしりくる視線をぶつけてきた。瑠璃ちゃん共々姿勢を正して前に向き直る。私は最初から真面目にやってるつもりなんだけどなあ。
何枚かの紙を片手にオーナーが私を見る。
「今日から働いてもらうわけだけど、初日だしね。まずは仕事を覚えてもらわないと。これに色々と書いてあるから、後で読んで」
「はい、わかりました」
差し出された紙を受け取り、軽く目を通す。接客のマナーとか、レジの打ち方とかがまとめられてるみたいだ。表紙には項目がいくつか並んでいる。目次のつもりなのだろう。
「それでね、あなたの名前だけど」
オーナーが私に目を向けた。私の名前がどうしたっていうのだろう。確か、親が画数とか字面とか必死に考えて付けてくれたとか言っていた。気取った名前じゃないけど、実は自分でも気に入ってたりする。
そう、私の名前は──。
「──紗希。今日からこの店では紗希って名乗ること。それが最初の仕事かな」
「えっ」
漢字はこうだよ、と言いながら手帳に「紗希」と書いてみせるオーナーを前にして、自然にそんな声が出た。我ながら気の抜けた声だ。
いやいや、問題はそこじゃない。なんなのそのシステム。
もちろん私の本名は紗希じゃない。これってあれか。源氏名ってやつですか。そういう斜め上の知識を持っちゃうのは思春期特有の傾向ってやつだから、耳年増とか言わないでね。
「もしかして、他に名前決めてた? 本人の希望は優先するつもりだけど、どんなのだい?」
「いえ、あの、そうではなくて。紗希って私の名前と違うんですけど……」
私が言うと、オーナーは理解したとばかりに何度も頷く。
「面接の時にも言ったと思うけど、まあいいか。ここではね、女の子はみんな喫茶名を使ってるのさ。つまり、仕事用の名前だね。なんでそんな風にしてるかと言うと、普通じゃない夢の世界を演出するためさ。お客様に、日常から離れたファンタジーを提供するのが仕事だからね」
まあ、その辺は後付けなんだけど──と、オーナーは最後に小さく付け加えた。
言われてみれば、そんなことを話していたような気もする。それに、メイド喫茶とか行けばキラキラした不思議な名前のメイドさんがいっぱいいるじゃないか。こんな大事なことを忘れるなんて熱くなりすぎだろ面接時の私。
「思い出したかい? じゃ、名前の件は終わりにして、次いくよ?」
「あ……はい、お願いします」
強引に進められた気もするが、考えてみれば仕事の間だけ名前が変わるだけだ。別に戸籍をいじるとかじゃないんだから、もっと軽く考えてもいいかな。
その代わり、女の子と思う存分イチャイチャできるわけだし。それくらいの代償は支払ってもいいよね。
……一応謝っておこう。お父さんお母さんごめんなさい。
「それでだね、紗希の教育係だけど、ここにいる瑠璃にやってもらうことにする」
オーナーが言うと、隣の瑠璃ちゃんが盛大な音と共に立ち上がった。突然のことだったので私はビックリ。これ以上ないってくらいの速度で首を動かして隣を見る。
「私が、ですか? 他にも長く勤めてる先輩がいらっしゃるのに」
瑠璃ちゃんが慌てたような顔してる。それでもやっぱりかわいいのは変わらない。
……って、さっきから勝手にちゃん付けにしてるけど、いくらかわいくても先輩なんだよね。年齢もはっきりしてないし、瑠璃さんって呼ぶべきなのかなあ。
「瑠璃もここに来て一年過ぎただろう? そろそろ後輩を付けてもいいだろうと思ってね。それと、接客時の相手役も頼むよ。研修ってことでさ」
「本当に私でいいんですか?」
「もちろん。あたしの第六感がそうしろって騒ぐんだ。こうなったら、それに従うしかないさ。大丈夫、瑠璃ならやれる。人気だって結構あるんだよ? お客さんからも、従業員からもね」
あ、瑠璃ちゃん照れてるみたい。褒められて嬉しかったのかな。
「……わかりました。やらせていただきます」
「うん。いい返事だ」
深く頷き、オーナーが私に視線を戻す。
「と言うわけで、だ。紗希、まずは瑠璃に色々と教えてもらいなさい。あたしはしばらく席を外すからさ、二人で仲を深めあってくれたまえ」
一方的に言い放って、オーナーは出て行ってしまった。扉が閉じる音を最後に、部屋の中に静寂が満ちる。瑠璃ちゃんが座る音すら聞こえなかった。
えっと……一言で済ませるならば、今の状況は気まずい。だって、私たちまださっきの微妙な空気引きずってるんだもの。
チラチラ視線が向けられてるのを感じるし、私のコミュニケーション能力は残念ながら高い方ではないし、もうちょっとオーナーはお膳立てをするべきだったとか考えちゃうし、こうやって頭で色々考えても意味なんてないし。
えーっと……とりあえず挨拶だよね。全ての基本だし。
「あの、今日からここで働くことになりました。紗希、らしいです。よろしくお願いします」
なんだこの挨拶。らしいってなんだ。
「あ、はい、瑠璃です。こちらこそよろしくお願いします」
向かい合って頭を下げ合う二人。さぞかしシュールな光景だろう。そう思うと、なんだか笑えてくる。
「な、なんで笑うんですか?」
焦った顔もかわいいなあ。やっぱりちゃん付けがしっくりくる。
「ごめん。なんでもない。簡単に自己紹介しとくね。高校三年生やってます。大学までエスカレーターで受験の心配がないので、空いた時間に何かしたいと思ってバイトを始めました」
百合が好きだからという本当の理由はもちろん秘密。そんなこと初対面の人に言えるわけないし。
「えっと、瑠璃です。私も高校三年生です。衣装がかわいいし、色んな子と仲良くなりたいと思って、ここで働くことにしました」
めでたく瑠璃ちゃんの情報ゲット。こんなかわいらしい子を見逃すはずがないので、きっと学校は別のところだろう。瑠璃ちゃんが同級生だったら授業どころじゃないだろうから、嬉しいような悲しいような。
「同い年なんですか。それじゃ敬語は変かもしれませんね。少なくとも瑠璃さんが話す分には」
口に出してちゃん付けはなんとなくはばかられた。かわいくても先輩だし、そこはしっかりしておかないといけない気がする。
「そう、ですか? じゃあ、お互いに敬語はなしにしませんか? 年も同じだし、先輩とか後輩とか抜きにして、紗希さんとは仲良くしたいなって思うから」
付け加えよう。瑠璃ちゃんは見た目だけじゃなく、中身もかわいい。真剣な顔でそんなこと言われたら、イエス以外にどんな返事をすればいいのか私はわからない。
「うん、ありがとう。なんだか嬉しいな。これからよろしくね」
「よろしく。よかった。紗希さんが話しやすそうな人で」
「私ってそんなに人を寄せ付けないオーラ出てる?」
冗談めかした私の質問に、瑠璃ちゃんは真面目に首を傾げている。
「と言うより……美人さんだから、なんだか近寄るのが恐れ多かった、みたいな」
なんだそれ。私が美人?
いやいや。瑠璃ちゃんの方が魅力あるに決まってる。きっと世の男共は一発で骨抜きにされて表情をだらしなく溶かしてしまうだろう。どうか、そんな不埒な奴らはそのまま全身まで溶けて消滅しますように。
「いやいや、そんなことないって」
「でも、その黒くて長い髪はきれいだし、目は二重でぱっちりしてるし、クールっぽい感じがするよ」
「そ、そうかな」
まじまじと観察されて、とても恥ずかしい。けど悪い気はしない。私だって瑠璃ちゃんをじっと見つめてお返しだ。
「……私の顔、何か付いてる?」
「ううん。べっつにー」
「そんなに見られたら恥ずかしいよ……」
照れる仕草もやっぱりかわいい。こんな子が私の教育係だなんて、正直色々と期待しちゃうじゃないか。
よし、今日は帰ったら妄想……じゃなくて、イメージトレーニングから始めよう。