エピローグ ここが私の桃源郷!
一般的に、八月となれば世の学生や生徒たちは夏休みを満喫しているものである。それは私や智香も例外ではない。
「あつーい……」
「口に出すな。余計に暑くなるだろ……」
「もっちゃんだって言ってるじゃーん……」
「わかった。もう言わないから、いい加減に呼び方を統一してよ……」
では、なんで八月なのに制服を着て学校へ向かっているかと言うと、今日が登校日だからである。
誰か登校日を作ることで生まれるメリットを教えてください。ただし学校側の利益になる内容の場合、その答えは却下します。認めません。暑い。
「あともう少し、あの横断歩道さえ渡れば学校だよ……」
「ああ、学校には神が作りし秘宝、冷房があるからね……」
「ともちゃん、生きて学校に辿りつこうね……」
「ごめん、あたしもう帰る」
いやいや、なんでいきなり素に戻るかな。しかも本気で引き返して歩き出してるし。冷たさを帯びた真顔が怖い。
「ちょ、ちょっと待ちなさいって」
腕を引っ張って歩みのベクトルを変えさせる。
あ、智香の腕ってひんやりしてて気持ちいい。暑がってるくせに、肌の表面はこんなに冷えてる。もうしばらく触ってたいなー。
……智香には悪いけど、もうちょっとだけこの茶番を続けよう。
「──でさ、どうなのよ。バイトは」
教室に入って落ち着いたと思ったら、智香がそんなことを訊いてきた。
どうって、そんなの決まってる。
「もうバッチリよ。私の天職かもしれない」
「そりゃよかった。そのうち時間作ってあたしも行ってみようかな」
「いやいやいや待ってよ! それはないって!」
そんな行動は未然に防がなくてはならない。来たるべき大惨事に備えて防波堤を建築する。
「なんでさー。いいじゃん別に」
突貫工事では智香という荒波に対応できなかった。
「よくないよう……」
友人に仕事風景を見られるのは、さすがの私もちょっと遠慮したい。
「それにさ、同人誌の参考にもしてみたいし。ほら、そういうの描いてくれって言ってたじゃない。百合百合した絵、見たいでしょ?」
「うぐ、そういう弱点を突いてくるのはやめてくれないかな」
「ふふふ。弱みに付け込むのは戦いの必勝法だよ」
智香め……しかし、私にはまだ最終防衛ラインがある。
「ほらほら、いい加減お店の場所と名前を白状しなさいよ」
そう。私はアクアリリィについての詳しい情報を何一つ教えていないのだ。これで智香も簡単には踏み込めないだろう。
「残念だけど、お断りします」
「あっそう。ならネット検索に頼るからいいよ。紗希と瑠璃って名前もあるし、百合とか喫茶店とかと合わせて検索すればなんとかなるでしょ」
「ごめんなさい許してください智香様なんでもしますお願いします」
教室の床とランデブーする勢いで頭を下げた。
私のあらゆる抵抗は何もかもが無意味だった。そもそも、智香に勝とうだなんて思ったのが間違いだったのだろう。あんな完璧超人に敵うわけがない。
「ふむ。顔を上げたまえ」
「ありがたき幸せ」
だから、こうして智香のペースに合わせて反応を見ることにする。
「とりあえず安心していいよ。言ったでしょ。そのうちって」
「うん……」
「じゃあ言い直すよ。行けたら行く。これでいい?」
「うん!」
行けたら行く。こんな言葉を告げられて嬉しくなったのは生まれて初めてだ。貴重な体験だね。
「気が向いたら招待してよ。期待しないで待ってるからさ」
「オッケー。そのうち、ね」
やっぱり智香は私のことをわかってる。だからこそ、こうしてお互いバカなことをやり合えるんだろうな。
ありがとう、智香。心の中で感謝の言葉を呟いておく。
「ところで椿、夏休みの宿題なんだけど」
「自分でやりなさい」
「なんだよーケチ。店に押し掛けるぞー」
……感謝の呟き、取り消そうかな。
私の気持ちがあれこれ迷走したり、様々な人の背景を知ってしまったり。なんやかんやあったけど、ようやく明日で私の研修が外れる。
外れるわけなんだけど……。
「ね、ねえ瑠璃ちゃん?」
「なーに?」
「そ、その……」
これからもパートナーでいてね! って言いたいんだけど、なんだか恥ずかしい。
別に愛の告白ってわけじゃないんだから、照れる必要なんてないんだけどさ。
でもこんなかわいい笑顔向けられたら直視できないしこれじゃまたいいようにおもちゃにされちゃうしそれも悪くないって思うし首を傾げて見つめてくる仕草がかわいすぎて頭が空っぽになりそうだしああもうどうしよういい匂い。
「ふふっ。変なの。百面相してるよ」
「ふぁえっ?」
そんなに私の顔が面白かったのだろうか。むう。複雑な気分。
さて、そんな私たちは控え室にて休憩中。お昼ご飯も済ませて、午後の仕事が始まる時間までまったりしていたところだ。
「そういえば、明日で紗希ちゃんの研修終わるんだよね。なんだか、あっという間だったなあ」
おっ、これは話の流れが向いてきたかな?
「紗希ちゃんはさ、誰かパートナーにしたいって人、見つかった?」
「まあ、ね」
「へえー。誰?」
頑張れ私。負けるな私。
……自分を応援するのって変な感じ。と言うか空しい。
こんなんじゃだめだ。思いきって、本心を曲げずに伝えないと。
「それは、さ。瑠璃ちゃんに決まってるじゃない」
「……私? ホントに?」
「うん」
「……」
「……」
なんで黙るんだろう。もしかして、紗希ちゃんなんて願い下げだーとか言われるのかな。そんなのイヤだよう……。
「やっぱり、紗希ちゃんって変わってるね」
予想外だったけど、これはこれで心に突き刺さる返事だった。
「えー、なんで?」
「なんでも。……これからもよろしくね」
「うん」
握手を交わす。それが私へ対する答えなのだろう。返事がノーならこんなことはしないはずだから。
嬉しくて柔らかくてあったかくて、つい余計に握ってしまう、何度も、そこに手があることを確かめるように。
「もー、紗希ちゃんったら」
あきれ顔だけど、その裏では笑っているのがわかる。だから私も存分に甘えてしまう。
「瑠璃ちゃん」
「ん?」
「これからも仲良くしようね」
「うん!」
微笑み合う私たちは、ほんわかした色の幸せオーラを出していることだろう。もちろん当事者である私は誰よりもその影響を受けており、頭の中では花吹雪が舞っている。
「るーりちゃん」
「なーにっ?」
「呼んでみただけー」
「うふふっ」
「こういうのって、なんだかいいよね」
「だよねー。あ、ねえねえ紗希ちゃん」
「うん?」
「呼んでみただけ」
「なーに、もうー」
ああ、私は今なら天の彼方までも昇れそうです。
「紗希ちゃんのほっぺ柔らかいね」
「ええー、瑠璃ちゃんだってそうじゃん」
「今は休憩中なんだし、莉那って呼んでほしいなぁ……」
う、なんだその上目遣い。不覚にもキュンときた。
「りーなちゃん」
「つーばーきちゃん」
つんつん。ぷにぷに。
まるで世界に私たちだけが存在しているかのよう。ああ、ここが桃源郷だったのですね。私は今、世界の真理に触れています──。
*
晴れて正式なパートナーとなった私と莉那ちゃん。だからといって何が変わったわけでもない。お店では普段のように触れ合いとスキンシップをして、自分を含めたみんなを幸せにしている。
だけど、そんな日々を繰り返すうちに物足りなくなってしまうのも事実。新しい刺激を求めてしまうのだ。それは莉那ちゃんも同じようで、そんな雰囲気が感じられる。
打ち合わせなんて必要ない。展開が分からず、何がおこるかも不明な方が萌える……いや、燃えるからだ。実行する瞬間は少しだけ緊張する。だけど、その先に待つであろう大きなドキドキを求めて、私は踏み出す。
隣に立つ莉那ちゃんの腕に手を回し、体までも密着させた。今までは、こんなこと自分からはしなかった。こうやって少しずつ距離を詰めて、いずれは結衣さんと香澄さんみたいになれたなら。そんな野望を秘かに抱えながら、莉那ちゃんの反応を待つ。
莉那ちゃんは私の顔を見上げて、かわいく微笑んだ。そして、小さな頭をちょこんと私の肩に預けてくれる。
至福の瞬間。全然重くなんてないのに、大気圧がそこだけ何倍にも膨れ上がったかのように感じてしまう。
これで私が莉那ちゃんの頭を撫でたりしたら最高なんだろうけど、与えられる幸せが大き過ぎて身動きが取れない。動いたら、この時間が壊れてしまうから。こうして外界から切り離されたままでいたい。
けれど、莉那ちゃんがそれだけで満足することはなかった。組まれた私の手を引いて、どこかへ連れて行こうとする。どこだろう。まさかお店から出るなんてことはないだろうけど、あまり持ち場を動くのはよくない。
莉那ちゃんがどこへ行こうとしているのかがわかった。その瞬間、主導権は私から完全に消滅した。もう二度と戻って来ることはないだろう。力が抜けた私は莉那ちゃんに引かれ、観葉植物の陰へと連れ込まれた。
こんなところに来る理由なんて考えるまでもない。梅干しを見たら唾液が出てくるのと同じ原理で、私の視線は当てもなくさまよってしまう。
それは莉那ちゃんの心をくすぐってしまったようで、私に触れる手つきが絡み付くようなものに変わっていく。わざと私に見せつけるような艶めかしい手の動きが、視覚に強い刺激を与えている。
だからといって目を閉じてしまえば、何をされるかわからない。不意に敏感な部分を突かれたら、変な声が出てしまうかもしれない。莉那ちゃんに触られたら、そんなことだってありえる。
思う存分私の体を堪能したのか、莉那ちゃんの手が最後に私の顔へと触れてきた。顎を撫でられ、頬を突かれ、唇をなぞられる。それらの行動すべてが、次に待つであろうことへのお膳立て。私の視線は自然と莉那ちゃんの唇へと釘付けになる。
気付けば、私は腰を低くして屈んでいた。言うまでもない。身長の低い莉那ちゃんが背伸びをする必要をなくすためだ。そうするべきだと、莉那ちゃんに導かれていたのだ。やっぱり、私は受け体質なのかもしれない。
莉那ちゃんは、よくできましたと言わんばかりに私の頭を撫でてくれた。それが心地良くて、私はつい目を閉じてしまう。一度そうしてしまうと、もう目が開けない。暗闇の中で、莉那ちゃんが何をしてくれるのか期待するだけ。
やがて、私の顔に温かい吐息がかかる。その意味を理解するより前に、柔らかい感触が右頬に訪れた。
本当に欲しいのはそこではなかったのに……焦らされている気分だ。けれど、もちろん悪い気はしない。
頬の感触が消えてから、ゆっくりと目を開ける。
そうして最初に見たのは、焦点を合わせるのに手間取るほどすぐ近くにある莉那ちゃんの顔だった。
不意打ちに思考が混乱する。息はかかってないのにどうして。そうか。息を止めていたのか。そういえば莉那ちゃんの香りがずっと強く感じられていた。だから。
そんな考えは莉那ちゃんの口付けで粉々に砕かれた。唇を重ねられた瞬間、私は今までにないほど大きく目を見開いた──。
*
これは妄想ではない。これから二人で描いていく未来図だ。
こんな思い通りにいく保証なんてない。だけど、目標は大きい方がいい。だから私は欲望を最大まで解放する。小さく細々としたのは性に合わないからね。
「ちょっとお二人さん。もうすぐ休憩時間おしまいじゃないかい?」
「うひゃあっ?」
不意に割り込んできた声に現実へと引き戻される。見ればオーナーが立っていた。久々の登場でこんな役目なんて、タイミング良すぎじゃないですか。
「やれやれ。紗希はもう少し研修期間伸ばした方がいいのかねえ……」
「そ、そんなことないです! ほら、そろそろ行こう?」
私はすぐ近くにある小さな手を掴んで立ち上がった。
あ、こうして自分から莉那ちゃんと手を繋ぐのって仕事中以外だと初めてかも。
「う、うん……大胆なんだから」
「何か言ったー?」
「ううん、なんにもー!」
「やれやれ、調子だけはいいみたいだね」
オーナーの溜息が聞こえる。だけど私は気にしない。やりたいようにやるって決めたんだから。私は信念を貫く乙女なんだから。
この、アクアリリィという居場所で働いていくんだから。




