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17 二人は大人なんだなーと思いました

「……」

「……」


 で、マスターと私が取り残されたわけなんだけど。

 えっと、何この奇妙な間は。


 よく喋る翔子さんがいなくなったせいか、リビングが沈黙に制圧されていた。キッチンの喧騒を少し分けてほしい。

 何か話さないと、なんだか気まずい。これで相手が莉那ちゃんだったらいい雰囲気に持っていけるんだけどなあ……って、そんなこと考えてる場合じゃない。


「あの」

「ん、なんだい?」


 突然の呼びかけにも動じず、マスターは落ち着いた声で答えてくれた。


「マスターって、昔からずっと喫茶店で働いてたんですか?」


 気になっていたのはそこだった。翔子さんの話では、出会った当時のマスターは若かったようだし、女性で喫茶店をやっているというのも珍しい。

 喫茶店のマスターで一般的にイメージしやすいのは、髭を蓄えたダンディなおじさまという姿だろう。それは固定概念に過ぎないのだろうけど、やっぱり好奇心はあった。


「そうだよ。だけど、実家が喫茶店をやってたってだけの話。簡単でしょ?」


 なるほど。それなら納得だ。何事も単純が一番って誰かも言ってたし。


「小さい頃から親の真似をしてコーヒーメーカーをいじっててね。自分からやり方を教えてほしいって頼んだんだ。それが十三歳くらいのことかな」


 その年齢だと中学一年生くらいか、と逆算してしまう自分の思考を投げ捨てて話の続きに耳を傾ける。


「あの頃は学校から帰ったらすぐに店の方へ行って、親がコーヒーを淹れるのを眺めてた。忙しくない時には近くに寄って親の動きを穴が開くほど観察してたね。今思えば、なんとか技術を盗んでやろうと意地になってたのかな」


 幼くして熱中できるものに出会ったマスター。一方私は百合に夢中である。天と地ほどの差ってやつじゃないか。


「初めて親以外に自分の淹れたコーヒーを出したのは十六歳の時だった。と言っても、飲んでくれたのは常連の人だから、半分練習みたいなものさ。それでも、私のコーヒーを飲んでおいしいと言ってくれたのは嬉しかったよ」


 三年の修業を積んで、ようやくそこまでのレベルになれたんだ。私だったらもっと期間が必要かも。十年とか。


「高校を卒業したら、本格的に店に出るようになった。それこそ朝から夜まで毎日ね。コーヒーだけじゃなくて、紅茶の淹れ方も教わるようになっていたし、私も早く覚えたくてがむしゃらだった。無茶なこともいっぱいやったよ。若気の至りだね」


 苦笑する姿も様になっている。なんでアクアリリィにいる人って、こうしてみんなキレイなんだろう。


「そして十九歳の時に、ようやくコーヒーや紅茶とかのドリンク類を私が全部やるようになったんだ。料理は父が、接客は母という三人体制で店を回すようになった。一人で任されるってことがとても嬉しくて……ここだけの話だけど、ちょっと泣いた」


 マスターは静かに目を閉じた。私もマスターが話してくれた思い出の余韻に浸ることにしよう。私の脳内に妄想世界が展開されていく。

 キッチンの音も今では程良い伴奏だ──。



          *



 ある日、店内にいるお客さんが少なくなった頃。両親が一緒に休憩を取り、マスターは一人で店番をしていた。

 カランコロン、というドアベルの音が、新しいお客さんが来たことを告げる。「いらっしゃいませ」と言いながら見れば、そこにはラフな格好に身を包んだ女性がいた。

 彼女こそ、若かりし頃の翔子さんである。

 案内されるまでもなく、翔子さんは一直線にカウンター席へと向かい、華麗な動きで座った。おしぼりと水を受け取りながら、翔子さんはぶっきらぼうに告げる。


 ──お勧めのコーヒーを、と。


 実は翔子さんには趣味があったのだ。それは、喫茶店巡りである。噂や評判をどこからか聞きつけてはそこへ赴き、コーヒーだけを頼んで店の味と技術を確かめていた。

 今日ここに来たのもそれが目的だ。若い女性が淹れるコーヒー。たったそれだけの言葉でも、翔子さんを動かすには十分だった。

 マスターもただならぬ雰囲気を感じたのか、いつも以上に力が入っている。コーヒーを淹れる手つきも慎重だ。豆の分量、お湯の温度、蒸らす時間。長年の経験で体に刻みつけた勘を総動員して、最高の作品を完成させる。


 コトリ、と静かに置かれたコーヒーカップ。

 翔子さんは視線をちらりと向けただけで、すぐに手を伸ばそうとはしない。どんな行動を起こすのか気になって、翔子さんの姿から目を離せないマスター。店の明かりを反射して輝くコーヒー。

 マスター、翔子さん、コーヒー。奇妙な三すくみの状態が続く。

 立ち上るコーヒーの湯気が、二人の間を揺らして香りを放っている。カミソリみたいに鋭い空気。先に動けば負ける。そんな雰囲気に支配されたカウンターの一角。


 しかし、翔子さんは一味違った。緊張感に抵抗力でもあるかのように真っ直ぐカップに手を伸ばし、ブラックのままゴクリと飲んでしまう。そのまま飲み干すかとマスターは思ったが、その考えに反して翔子さんはカップから口を離した。

 どこかで失敗したのだろうか──マスターの心に不安が生じる。すべてをいつも通り、最高のコーヒーができあがるようにしたはずだ。それなのに、なぜ途中で飲むのをやめてしまったのか。口に合わなかったのだろうか。

 ポーカーフェイスの裏側でマスターが自問自答を繰り返す一方で、翔子さんは何も考えられなくなっていた。理由は簡単。このコーヒーが今までに飲んだことのない味だったからだ。

 もっと単純に言うなら、翔子さんは感動していたのだ。


 再び訪れる三すくみ。コーヒーからの湯気はさっきよりも少ない。けれど香りは強く感じられる。

 それを打ち破ったのも、再び翔子さんだった。カップを手に取り、飲み始める。今度はゆっくりと、少しずつ。一気に飲んでしまってはもったいないから。少しでも長くこの味を楽しみたいと思えたから。

 それを見てマスターも肩の力が抜けた。ほっと一安心といったところだ。

 洗い物がいくつか残っていることを思い出して、流しへと向かう。その姿を翔子さんが目で追っていることには気付かずに。


 それからというもの、翔子さんはちょくちょくお店に来るようになっていた。そのうちに顔と名前を覚えられ、いつの間にか常連さんだ。そんな翔子さんの目的は二つある。一つはもちろんコーヒー。

 そしてもう一つはマスターに会うことだ。

 いつものようにカウンター席へと座った翔子さん。コーヒーを傾けながらマスターの姿を眺める。あからさまに見ていると不審人物扱いされてしまうので、カウンターの奥にあるカップを見ているふりを交えながら。


 そうしていくつもの季節を経験し、二人とも成長したある日のこと。マスターがスカウトされそうだという話を聞かされた翔子さん。一番に感じたのは不安だった。マスターがいなくなったら、あのコーヒーを飲めなくなる。

 けれど、それ以上に大きかったのはマスターその人への想いだった。二人で会って遊ぶうちに、自然と翔子さんはマスターに惹かれていたのだ。

 いや、本当は一目惚れだったのかもしれない。初めてのコーヒーに衝撃を受けた、その瞬間に感じた電撃。味に対してだったのか、愛に対してだったのか。

 素直になれない翔子さんは、おこぼれが欲しいなんて偽りの言葉を並べてしまう。本当はマスターと離れるのが嫌だからだというのに。ただそばにいたい。それだけが翔子さんを突き動かす原動力だった。

 だからこそ、スカウトに来た人が社長だと知らなかったとはいえ、新プロジェクトへの参加を自分から言い出したのだ。そうすればマスターと同じ世界へ踏み込める。そんな愚直とも言える考えがあったから。


 初めてのこと尽くしで大変な日々が続く。それでも頑張れたのは、マスターという心の拠り所があったからだ。会いに行ける回数は前より減ってしまったけど、それだけ会った時の喜びは増えていた。

 日々の努力が実を結び、晴れて翔子さんは訓練をクリアした。そして配属先はマスターと同じ場所。そうなるように希望は出していたのだが、まさか叶うとは思っていなかった。二人でお店を引っ張っていくと思うと、胸が躍るのを抑えられない。

 そして二人は新たなる道へと踏み出すのだった──。



          *



「紗希は、さ」


 色々と考えていたらマスターに話しかけられた。どうやら、またやらかしてしまったようだ。


「は、はい!」


 いや、だってさ、そういう関係じゃないって否定されるとその裏を考えてみたくなるじゃない。だから仕方ないことなの。これでもほんの一部なんだから。


「女の子のことが、好きなのかい?」


 鋭く流された目は、私の奥底を見抜くかのようで、身動きが取れなくなる。

 どんな答えを返すべきなのだろう。正直に……いや、そもそも私の奥底には何があるのだろう。百合の妄想は好きだけど、実際に私がそれを体験することはどうなのか。

 台所では、翔子さんがこちらに気付くこともなく鼻歌混じりに料理をしている。野菜を切っているのだろう。包丁がまな板を叩く音がリズミカルに響く。


「え……っと」

「気にすることはない。私もああいう店で働く身だ。そちらへの理解は持っているつもりだよ」

「その、なんと言うかですね」


 うう……実際に言うとなると恥ずかしい。

 答えは当然イエスだ。

 けれど、女性しか愛せないってのは違う気がする。性別など関係なく広い視野を持っている、と言うべきだろうか。好きになった人が女の子でした。たったそれだけのこと。


「私もね、今まで色んなカップルを見てきた。店でコンビを組んだ二人がそのまま……というのもあったよ。それが彼女たちの幸せだったんだろうね」


 マスターはポツポツと話し始めた。時折コーヒーで喉を潤しながら。


「恋とか愛とか、そういうのって一体なんだろうね。私はこの歳になってもわからないよ。人生最大の問題なのかな」


 私はただ頷いて相槌を打つ。


「科学的な専門家に言わせるなら、結局は脳内ホルモンが引き起こす幻覚だって意見なんだろうけど、そんな難しいことは考えなくてもいいと思うんだ。本人が良ければそれでいいんじゃないかって」


 他人に迷惑をかけないことが前提だけど──そう結論付けてマスターは口を閉ざした。

 そうか。そうだよね。私だって元々そんな風に考えてたわけだし。マスターも同じ考えを持ってて、なんだか私も自信が出てきた。

 自分の人生なんだもの。やりたいようにするべきだよ。やらないでする後悔より、やってする後悔だ。


 でも、どうしてマスターはそんなことを私に話したのだろう。私なら話を理解しそうだと思ったから? それとも、ただ誰かに聞いてほしかっただけ?

 あるいは、自分に言い聞かせるため──そんな考えが頭をよぎった。

 マスターは、何かを秘めているのではないだろうか。今話した内容、つまりは恋愛に関する感情を。

 もしそうだとしたら、その相手は翔子さんに他ならない。


 ──私たちは別に付き合ってるわけじゃないから。


 翔子さんは、そう言っていた。

 では、マスターはどう考えているんだろう。それに関しては一言も聞いていない。マスターが翔子さんのことを、どんな目で見ているのか。

 他人に迷惑──その他人というのは、マスターの一番身近にいる人なのでは。他人と呼ぶには付き合いが長すぎる、そんな女性のこと。


 これは根拠なんて何もない、ただの推察だ。だけど、おせっかいとも言える心配が止まらない。

 翔子さんが自分を恋愛対象として見ていないから、今の関係を壊したくない。そう考えているんですか? マスターはそれでいいんですか?

 やらない後悔を選んでしまうんですか?

 いくら観察しても、マスターのポーカーフェイスを見抜くことはできなかった。


 こんなのは私のくだらない妄想だ。だから、思い違いもどこかにあるだろう。

 でも、もしマスターが本当に翔子さんへの想いを秘めているのだとしたら……どうしてもその考えが拭えないのだ。


 ──いつの間にか、辺りはいい匂いに包まれていた。頭を使ったせいか、お腹の虫が栄養を求めて暴れ出しそうだ。


「お待たせー。特製たらこパスタだよ」


 やった。たらこパスタは私の好物だ。もう少しだから鎮まれ私のお腹。

 盛り付けられた三つのお皿を、翔子さんが器用に持ってくる。

 オイルできらびやかに光るパスタに絡み付く無着色のたらこ。薬味の刻み海苔がアクセントになって、きっと飽きのこない仕上がりを演出していることだろう。

 空腹を誘う香りを胸一杯に吸い込みながら、私はフォークに手を伸ばす。


「いっただっきまーす」


 んーっ、空きっ腹に染みる。

 なんだかご馳走になっちゃって悪いなあ……せめてもの感謝を込めて残さず食べ切ろう。それこそお皿を舐めて、張り付くたらこをキレイにするくらいの勢いで。


 あれっ? そういえば、さっき切ってたはずの野菜はどこにいったんだろう。トントンって音してたよね。まさか隠し味に何かが入っているとか……。

 いくら探しても、そんな物は入ってなかった。なんだったんだろう。謎の多い女性は魅力的だけど、これは少し意味が違うんじゃないかなあ。

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