9 あれが……瑠璃ちゃん?
「おーっす、さっきー」
背中をポスンと叩かれた。振り向けば、そこには見知った顔。
電車を使う私と違って徒歩通学の智香とは、いつもこの辺りで会う。待ち合わせなんかしなくても、時間通りに行けばいい。
「あー。ともっち、おはー」
「ともっち……誰それ」
自分だって私のことを「さっきー」と呼んでるくせに。私は紗希じゃなくて──。
「まあいいや。どうしたの、元気ないぞ」
「えーそんなことないよー」
強がる言葉に力が入らない。我ながら今すぐ大根役者になれそうな棒読みだった。
智香はそんな変化も見逃さない。すぐに何かを察したような目になる。そうやってマメに気付く性格だから、言い寄ってくる子が減らないんだぞ。
「そう。言いたくないならいいよ」
そのくせ引き下がるのも早い。そういうサッパリしたところも人気の秘密だ。押しても駄目なら引いてみる。単純だけど難しいことを、智香は簡単にやってのける。
だから私は話してしまう。自分の中に溜め続けると悪い結果しか生まないのは明らかだから。そしてもう一つ、私自身が揺さぶりに弱いのもある。智香もその辺をわかっているから、あえて一度引いたのだろう。
「……バイトでの、ことなんだけどさ」
「うん」
私は先日のことを智香に話した。瑠璃ちゃんが違うパートナーと組んでいたこと。その仕事ぶりが私と組んでいる時とは違っていたこと。その雰囲気に勝てる気がしないと思ったこと。今日もバイトなのにどんな顔をして会ったらいいかわからないこと。
智香は適度かつ単調でない相槌と返事を交えながら聞いてくれた。今までのスペックに加えて聞き上手とか、どれだけ完璧超人なんだろうと嫉妬しかけて中身が薔薇色に腐っていることを思い出して留まった。
天は二物を与えずって本当なんだね。この前は間違ってるなんて言ってごめんなさい。
「──ふーん。つまり、その瑠璃ちゃんが自分の知らないキャラを作ってるのが嫌だってこと?」
「嫌ってわけじゃ……なんか、変な気分だなーってだけ」
自分でもうまく言い表せない。靴を左右で履き違えた時に出てくるような、漫画特有のグルグルとした糸クズみたいなものが脳内に漂っている気分。
「しょうがないんじゃないの? 仕事でキャラ変わるってのは珍しくないし、その場の空気に影響されたりもあるんじゃない?」
「確かにあそこは独特の空気あるけど」
「それにさ、誰だって少しはキャラ作るもんでしょ。素の自分なんてそうそう出せないよ」
「そうかもだけどさー」
「百合オタやってまーす、って声高く言える?」
「無理」
「あたしだってできないよ。そんなもんでしょ、人間って」
やけに達観した考えを持っている。こういうところも智香の魅力なんだろうな。
その日の帰り道、ちょっとした事件が起こった。と言っても犯罪とかそんなのじゃない。言い換えるなら発見だ。
電車に乗り込んだ私は、何気なく視線を車両の奥へとやっていた。そこには他校の女子生徒が集まっており、キャピキャピワイワイと何やら話を沸かせて楽しそうにしている。
髪を染め、手の込んだメイクをして、制服を着崩している。言ってしまえばギャル集団だ。ちょっと悪ぶった、自分の姿に酔っている女の子たち。彼女たちなりに青春を謳歌しているのかな。
ああいう子が百合に染まっていくとしたら、どうなるだろう。
やっぱり、正反対で真面目な委員長タイプの子とくっつくと映えるよね。服装の乱れは心の乱れだとか注意されて、最初のうちは無視してたのに何度も言われているうちに意識するようになって、今では注意されたいがために制服をわざと着崩していたりして──。
そこまで妄想したところで、集団の一人に目が留まった。
ああいうのに私は全然興味がないから、普通なら見落としても仕方ないけど、今日は違う。ずっと瑠璃ちゃんのことが頭の中にあったからこそ気付いてしまった。
あそこにいるのは瑠璃ちゃんじゃないか。
メイクと服装で印象が変わっているけど、あの目元と口の形。ふんわりとした特徴的な髪型と、少しだけ聞こえてくる声。どう考えても瑠璃ちゃん……だと思う。
与えられる情報はどれもが瑠璃ちゃんであることを示しているのに、心のどこかで信じたくないとブレーキが作動している。
きっと、認めたくないんだ。これ以上、私の知らない瑠璃ちゃんが存在するということを。
そのまま目を離すことができなくて、ついつい尾行していたら、乗り換えの駅に着いてしまった。ここはお店の最寄り駅でもある。瑠璃ちゃんも今日は出勤のはずだから、あれが本人なのかどうかはここでわかるはずだ。見失わないようにしないと。
電車から降りた集団が動き出した。私はその後を追う。階段の前で何やら話し合いをしたかと思うと、瑠璃ちゃんっぽい人は一人で下の階へと向かった。残った集団は別のホームへ行くようだが、そっちはどうでもいい。私も下の階、改札階へと向かう。
その少女は女性用トイレに入っていった。中まで追いかけて鉢合わせしてもマズイので、近くにある柱の陰に隠れて出てくるのを待つ。
周囲の人が、やけに私を見ているような気がする。それも「ママ、あれなにー?」「見ちゃいけません!」って感じの視線で。
……なんで私はこんなことをしているんだろう。これじゃ変質者一歩手前じゃないか。隠れてコソコソと、まるで私が何かやましいことでも抱えているみたいだ。
そんなこと、ない……よね? やましい気持ちなんてこれっぽっちも……ない、って言いきれるかなあ。自分のことなのに、よくわからない。
やがて出てきた人物を見て、私の喉から溜息とも呻き声とも取れない奇妙な音がこぼれた。なぜだろう。肩の荷が下りたのに、まだ別の何かが私にのしかかっているような気分。
そこにいるのは、今度こそ確実に間違いなく瑠璃ちゃんだった。
厚いメイクを取り去り、さっきまで乱れていた制服をきちんと身に着けている。私が今までイメージしていた通りの瑠璃ちゃんがいた。
瑠璃ちゃんが改札の外へ出て行ったのを見送って、私はトイレへと入った。個室はどこも空いており、中に誰もいない。さっきまで追っていたギャルの姿はどこにもなかった。
やっぱり、あれは瑠璃ちゃんだったのだ。もう否定する材料が残っていない。
思えば、プライベートの瑠璃ちゃんを見るのは初めてだった。一緒に帰ったことはあったけど、あれは仕事の延長みたいなものだ。一緒にお店へ出勤したこともないし、休日に遊んだりもしていない。
改めて考えてみると、なんて薄っぺらい関係だったんだろう。所詮、仕事だけの付き合いしかできないのだろうか。
そんなの、なんだか悲しいよ。
トイレの中で、一人ただ立ち尽くす私。みじめなんて短い言葉じゃ、とても今の心境は表現できない。かと言って、長く連ねても正しい言葉は出てこないと思う。
……ううん、今だけでも気持ちを切り替えないと。私もお店に行かなくちゃ。もうこんな時間だし、急がないと遅刻する。
頭の中ではそう思っているのに、お店へ向かう足取りはひどく重たかった。




