魔王を倒して五十年、今も変わらず君に恋をしている 〜伝説の英雄夫婦は、今日も庭先でのんびりお茶を飲む〜
やわらかな朝の光が、木造の平屋にそっと差し込んでいた。
レオンはゆっくりと目を覚ますと、隣で穏やかな寝息を立てている妻――エリスの顔を見つめた。
目元には年齢相応のしわが刻まれ、かつて艶やかだった髪には綺麗な銀糸が混ざっている。
(……ああ、駄目だな。今日も愛おしすぎて、胸が痛い)
レオンはそっと手を伸ばし、エリスの頬に触れようとして、途中で照れくさくなって手を止めた。
五十年も隣で眠っているというのに、朝目覚めて彼女の顔を見るたび、胸の奥がキュッと締め付けられる。幼なじみの彼女に初めて恋を意識したあの瞬間と、何も変わっていない。
静かにベッドを抜け出し、毎朝の日課である庭の手入れをする。
冷たい朝露に触れながら、レオンはかつての苦難を思い出していた。
ある日突然「勇者」として魔王討伐に駆り出された。
討伐の旅から帰還したとき、王国は熱狂に包まれていた。
王からは爵位と広大な領地を提示され、周囲からは「世界を救った英雄には、共に戦った美しい聖女様こそがふさわしい」と持て囃された。
どこにでもいる普通の村娘だったエリスは、その熱気に気後れし、静かに自分のもとから去ろうとしたのだった。
『レオン様はもう、雲の上の人だもの。私みたいな普通の人間が隣にいたら、ご迷惑になってしまうわ』
泣きそうな顔でそう言ったエリスを、レオンはなりふり構わず抱きしめた。
名誉も、爵位も、聖女との婚姻も、すべて断った。
ただ、初恋の相手であり、ずっと自分を待っていてくれたエリスの笑顔だけが欲しかったのだ。
「俺にとっての聖女は、無事を祈って待っていてくれた君だけだ」と叫び、手に入れた報奨金のほとんどを返上して、生まれ育ったこの小さな村へ連れ帰ったのだ。
あの決断を後悔したことなど、一度だってない。
「あら、レオン。もう起きていたの?」
かちゃりと音を立てて縁側の扉が開き、エリスがお茶を持って現れた。
朝日を浴びてふわりと微笑むその姿に、レオンの心臓がドクン、と大きく跳ねる。
七十歳を過ぎた男の反応としてはあまりに青くさいが、事実なのだから仕方がない。
「ああ。……今日も、綺麗だな」
「もう、朝から何言っているのよ」
少し頬を赤らめてお茶を差し出すエリス。
その指先がレオンの手触れそうになった瞬間、レオンは思わず息を呑み、そっと包み込むように茶碗を受け取った。
触れた肌から伝わる温もりに、まるで恋を知ったばかりの少年に戻ったかのように耳たぶが熱くなる。
「ねえ、レオン……実はね、ちょっと困ったことがあって」
エリスが心苦しそうに見せた左手。
長年はめられていた銀の指輪が消えていた。
「昔、あなたが買ってくれた大切な指輪が見当たらなくなってしまって……ごめんなさい」
落ち込むエリスを見て、レオンの目つきが変わる。
かつて魔王の首を狙ったとき以上の鋭い集中力が満ちていく。
大切な妻の悲しむ顔など見たくない。
「心配いらない、エリス。俺が必ず見つけてくる」
元・勇者の五感をフル活用した捜索が始まった。
風の向き、土の凹凸、二人の動線。途中で村人に「魔物の捜索ですか?」と驚かれようと、
「妻の指輪だ。世界の一大事より優先される」と本気で答えて呆れられた。
――そして、夕暮れ時。
庭の大きな木の根元で、夕日を受けて輝く銀の指輪を見つけた。
「……あった」
レオンは手ぬぐいで汚れを丁寧に拭うと、待っているエリスのもとへ駆け戻った。
「エリス、あったぞ」
「レオン……! よかった……!」
安堵の涙を浮かべるエリスの手を、レオンはそっと取り上げた。
小さな手。
シワが増えても、レオンにとっては世界で一番愛しい、触れるだけで愛おしさが溢れ出す手だ。
五十年前と同じように、膝をつき、不器用な手つきで薬指に指輪を嵌め直す。
「少し指が細くなって、緩くなったな。……町に行って、新しいものを買い直そうか?
もっと綺麗な宝石がついた指輪をプレゼントするよ」
するとエリスは首を振って、自分の薬指を愛おしそうに撫でた。
「いいえ、これがいいの。
……あなたが王様からの贈りものを全部断って、私を選んでくれた時にくれた、世界で一番大切な指輪だもの」
そう言って、上目遣いに悪戯っぽく微笑むエリス。
その瞬間の可愛らしさに、レオンはかっと顔が熱くなり、思わずエリスの手をぎゅっと強く握りしめた。
「レオン……?」
「……頼むから、そんな顔で俺を見るな」
「え?」
「五十年間、毎日見ているというのに……今でも君を見るたびに、胸が鳴って仕方がないんだ。」
情熱的な告白に、レオンは自分でも少し顔が熱くなるのを感じていた。
だが、真剣な眼差しで見つめ返すと、エリスはうっとりするどころか、
ハッと息をのんで青ざめた顔でレオンの胸元に両手を当ててきた。
「ま、待ってレオン! 『胸が鳴る』って……ドクドク言っているの!?
息苦しさや、左腕のしびれはない!?」
「……は?」
「だめよ、不整脈かも!心臓病かもしれないわ!
先週、村の薬草医のバドさんも『急に胸が脈打つんじゃ』って倒れたばかりじゃない!
すぐ横になって、深呼吸して!」
「ち、違う、エリス! そういう病気的な意味ではなくてだな……!」
「いいから! 昔みたいに無茶しちゃ駄目よ、
あなたはもう七十を過ぎたおじいちゃんなんだから!」
必死な顔で自分の胸をさすり、脈拍を確認するエリス。
元・勇者の鋭い洞察力も、愛する妻の過剰な心配の前には形無しだった。
レオンは大きく息を吐くと、狼狽するエリスの小柄な身体をそっと腕の中に収めた。
「落ち着いてくれ、エリス。俺の身体はどこも悪くない。
……ただ、君が可愛すぎて、昔と同じようにときめいているだけだ」
腕の中でぴたりと動きを止めたエリスは、ゆっくりと顔を上げた。
レオンの真面目な顔と、耳まで真っ赤になっている様子を見て、ようやくそれが「病気」ではなく「愛の告白」だったのだと理解したらしい。
「……もう。紛らわしい言い方しないでよ……本当に心臓が止まるかと思ったじゃない」
「紛らわしくなどない。妻に惚れ直していると言っているんだ」
「〜〜っ、おじいちゃんとおばあちゃんになってまで、そんな甘いこと言うなんて反則よ」
照れ隠しにレオンの胸をポカポカと叩くエリス。
その手には大した力もなく、ただ愛おしいぬくもりだけが伝わってくる。
「膝も腰も昔ほど動かんが、君を愛する気持ちだけは老いを知らんな」
「ふふ、上手いこと言ったつもり? ……でも、ありがとう、レオン。
私もね、あなたの隣にいると、ずっと胸が温かいのよ」
エリスは安心したように息をつき、レオンの肩にそっと頭を預けた。
「……でもね、レオン」
「なんだ?」
「ときめくのはいいけれど、明日の朝はちゃんと二人で薬草茶を飲みましょうね。
血圧にも良いって、バドさんが言っていたから」
「……ああ、分かった」
ロマンチックな余韻にしっかりと現実的な健康意識を混ぜ込んでくる妻に、
レオンは苦笑しながらも、深く頷いた。
すっかり日が落ち、空には星が輝き始めていた。
二人は繋いだ手のぬくもりを確かめ合い、
身体のあちこちに残る年齢の重みを感じながらも、変わらない愛しさに包まれて、穏やかな夜を迎えるのだった。
シルバーウィークですね~(#^^#)




