【短編】だから私は負けてない。 〜逃げ続ける少女の無敗録〜
世界には二種類の人間がいる。勝つために戦う者と、負けないために逃げる者だ。
そして私は、後者だった。
――いや、違う。選んだのではない。そうでしか、生きられなかった。
「また逃げるのかよ、臆病者」
背後から投げられる言葉は、もう聞き慣れていた。振り返る必要もない。振り返れば、きっと足が止まる。足が止まれば、捕まる。捕まれば、終わる。
だから私は走る。
街の路地を縫い、段差を飛び越え、息を切らしながらも、ただ前へ。逃げる。それだけを選び続けてきた。
幼い頃からそうだった。喧嘩になれば逃げ、怒られそうになれば逃げ、期待されれば逃げた。逃げて、逃げて、逃げ続けた結果、私は気づいてしまったのだ。
――逃げれば、負けない。
勝てなくてもいい。評価されなくてもいい。ただ、負けなければ、それでいい。
その価値観は、ある日を境に決定的なものになった。
「君、才能があるよ」
突然現れた白衣の男は、そう言った。意味がわからなかった。何の才能だと聞き返す前に、視界が歪んだ。
次に目を開けたとき、世界は変わっていた。
そこは“競技場”だった。無数の観客、巨大なスクリーン、そして――殺し合い。
「ここでは勝つか、死ぬかだ」
アナウンスが響く。周囲には武装した参加者たち。誰もが殺意を隠そうともしない。
その瞬間、私は理解した。
ああ、これは無理だ。
勝てるわけがない。
だから――
逃げる。
私は即座に踵を返した。背後から怒号が飛ぶ。銃声が響く。弾丸が頬をかすめる。
だが、止まらない。
逃げる。逃げる。逃げる。
そのとき、不思議な感覚があった。
――捕まらない。
どれだけ追われても、どれだけ狙われても、決定的な一撃だけが、どうしても当たらない。
まるで、世界が“私を見逃している”かのように。
「なんで当たらねぇんだ!?」
誰かの叫び声。知らない。関係ない。
私はただ、出口を探す。
競技場の裏手、閉ざされた扉。普通なら開かないはずのそれに手をかける。
――開いた。
迷う理由はなかった。私はそのまま外へ飛び出した。
気づけば、森の中だった。ざわめく木々、湿った空気。追手の気配は、もうない。
私はその場に崩れ落ちた。
「……はは」
笑いがこみ上げる。
勝ってはいない。何も倒していない。称賛もない。
それでも――
「生きてる」
それだけで、十分だった。
それから私は、“逃げる”ことを徹底的に極めた。
足の運び、視線の切り方、気配の消し方、危険の察知。すべてを“逃げるため”に最適化する。
やがて人は私をこう呼んだ。
“捕まらない奴”。
皮肉でも、蔑称でもない。ただの事実。
戦場に放り込まれても、追われても、囲まれても、私は逃げ切る。決して捕まらない。
あるとき、誰かが言った。
「それって勝ってるのか?」
私は少し考えてから、こう答えた。
「負けてないよ」
その言葉の意味を、誰も理解しなかった。
でもいい。
勝つことに意味を求める人間には、一生わからないだろう。
私は立ち上がる。風が吹く。どこかでまた争いの気配がする。
関係ない。
関わらない。
逃げる。
それだけだ。
そして私は、静かに呟く。
「――逃げるが勝ち。だから、私は最初から負けない。」
その言葉とともに、私はまた世界から姿を消した。
逃げることをテーマに書いてみました。




