『邂逅――極寒の冬(7_years_ago)』-10-
「く……やっぱり寒いな。おい磐木、お前ちゃんと防寒対策してきたか? 大丈夫か?」
「……は」
「その顔は、甘く見てただろ。言っただろ? 『ビスタ』の冬は想像以上だぞって。毛糸のパンツ貸すか?」
「それは、結構です」
――磐木と白河が『ビスタチオ』にやってきたのは、年が明けて間もなくだった。
ジンと別れて1年後の事であった。
「それにしても、随分と時間がかかってしまったな」
降り立った『リリ・フイ』飛行場にて。白河は胸の内からすべてを吐き出すようなため息を吐いた。
ジンが『蒼』を発ち、2人もすぐに後を追おうと試みたが、彼らの前に立ちふさがったのは風の壁であった。
魔の空域である。
飛行禁止地区となったその場所を飛び越える事ができず、かといって『蒼』からのジン輸送の際『ビスタ』がとった航路と同じように、『黒』の領空を飛ぶ許可も出ず。
行きたくても飛ぶ事ができない状態になってしまったのである。
その飛行禁止措置がようやく解除されたのが去年末。
魔の空域の風が多少緩む冬場、とある一点の道ならば現行の旅客機でも抜けられるという事が判明したからである。
その道を指し示したのは磐木であった。
(あの男に教えられた道)
かつてジンによって導かれた〝風の抜け道〟。
後にそう呼ばれるようになるその飛行ルートの発見により、飛行禁止措置が暫定的に緩和され。
その最初の交易艇に乗って、2人はここにやってきた。
「今ジンがいるのは……『ア・ジャスティ』の北東、『ゴルダ収容所』か」
『リリ・フイ』から大陸横断鉄道に乗り換えてさらに6時間。『ア・ジャスティ』へ。
そこから車で『ゴルダ収容所』まで向かう。
案内は事前に、現地の『蒼国』大使館の者に連絡を入れ、頼んだ。
「すいません、いきなり来てこんなお願いをして」
「いえいえ。白河さんのお坊ちゃんならば。お父さんにはお世話になりましたから」
運転をする大使館の職員と白河とは知り合いらしく、彼を「お坊ちゃん」と呼んだ。改めて磐木は、白河の家柄を実感させられた。
後にその事を話すと白河は「いやいや、家は別に良家じゃないから。ただのサラリーマンだよ」と苦笑して言った。その大使館の者は白河の父の学生時代の後輩という事らしかった。
「坊ちゃんは空軍の総監でしょう? 『ア・ジャスティ』空軍には寄られないので? 何なら案内しますが」
「うーん……」
白河は苦い顔をして磐木と目を合わせ、「まぁ、今回はちょっと内々なんで」と言葉を濁した。
「時間が取れたら顔は出します」
「出すぎた事を言いました」
「いえ。ところで……最近の『ビスタチオ』の情勢は? 確か首相が変わりましたよね?」
『ア・ジャスティ』の駅から『ゴルダ収容所』までは車で30分ほど。
世間話を始めた2人の傍らで、磐木は目を閉じ別の事を考えていた。
ここに来るまで、時間はかかった。
もどかしい時の中で、それでも磐木は、遠い土地からやってくる小さな情報をも逃すまいと、懸命に目と耳を凝らし続けた。
そして入ってきたのは。ジンが孤児だという事。【ケルベロス】とは、彼が育った孤児院の子供たちによって結成された組織だという事。
今回のジンの逮捕は、彼が自ら進んで捕まったのではないかという事。
『ビスタチオ』の世論はジン、そして【ケルベロス】の助命を願っている事。それにより裁判が遅延している事。
そんな中、先月ジンが仲間の手を借りて逃走を試み。それにより関わった【ケルベロス】メンバーは射殺。投獄中の他の面々も順番に処刑されているのだという事。
(ジン……)
磐木の脳裏には、最後に見た彼の姿が過ぎる。
「今度の首相は、前の首相の体制を変える事で必死ですよ。前首相が容認してた事を次から次へとバッサリ切ってる。まぁ最初だけだとは思うんですけどね。どんな奴でもそう。張り切るのは最初だけ。後はどんどん腑抜けになってく」
「『蒼』から赴任しているのは……確か山瀬 彰文大使でしたね」
「ああ。あの人は前首相とも懇意で。重宝されてましたからね。……ただ、あの人だけは特例。今回の首相は『蒼』との交易を前にも増して重視してますから。技術面・資金面、共に『蒼』の援助が欲しいと。そのためのパイプに、山瀬さんを使おうとしている。その重宝っぷりと言ったら、前以上ですよ」
「ほう」
「……ここだけの話ですが、内内ではもう、山瀬さんには従えないという声は多い。あの人の独裁ぶりは大使館内全員が辟易している。……それこそ、今話題の【ケルベロス】の件だって」
「?」
「館内では知らない者はいない。【ケルベロス】の壊滅、裏で糸を引いているのは山瀬さん。あの人がご執心の娼婦がらみの話だって。『英雄、色を好む』とはよく言いいますが、それは英雄ばかりではない」
ジンを取り巻いているのは、巨大な黒い物。
人一人では振りほどけないほどの。人の世が築き出だした、虚構の物。権力、物欲、独占欲、支配欲、そして嫉妬。
そんな黒い感情の塊が、一人の男と、その周りにいる少年たちを闇の中へと葬り去ろうとしている。
「ところで、坊ちゃんたちは『ゴルダ』のジンに何用で?」
「その件はちょっと内密で。国内での取調べ漏れと言いますか、」
(ジン……)
寒い。この土地は冷える。
でもそれは、気温のせいだけではなさそうだと、磐木は思った。
駅から走り、深い森にたどり着き、その坂を上り走った末。
2人は『ゴルダ収容所』にたどり着く。
大使館から連絡を入れてもらってあったので、2人は思ったより簡単に中に入る事が許された。
案内役の大使職員には入り口で待っててもらい、2人で、収容所の者に案内してもらいその奥へと向かった。
ジンは一番奥の部屋にいるのだという。
警備の数は厳重だ。これは朝も夜もない状態なのだという。先日の脱走劇が影響しているようだった。その際職員の何人かが【ケルベロス】メンバーによって撃ち殺されていた。
地下の奥深く。
見知らぬ土地の見知らぬ建物なだけに、磐木は地下への階段が、まるで地獄までも伸びているかのように思えた。
そして出た、最後の扉。
開けた、その向こうにいたのは。
「……」
「……」
「ジン、面会だ!!」
白河と磐木は、彼の姿を見た途端言葉を失った。
元々細身ではあった。だが、もはやその姿は。
「……ジン君……」
骨と皮。
そんな比喩がまさに当てはまる。
1年前とは、変わり果てていた。
「すまん、3人にしてくれ」
大使館の威光はハッキリしていた。白河が言うと、すんなりと収容所の職員は出て行った。
それには彼のこの姿も影響しているのだろう。
今のジン、どこをどう見ても、逃走できるような状態ではなかった。
ましてこれほど厳重な警備の中では。たとえ今、磐木と白河が何らかの手引きをした所で。
「……ジン君、覚えているかね、私だ、白河だ」
かつて会った際、唯一、顔を向けた白河の声。
それに今度もジンは反応した。
だが顔を上げた彼の目は、この前とは打って変わり。虚ろそのものだった。
「おじさん……?」
「ジン君?」
「あ、ああ…………」
誰か別の人物と間違えた様子で、相手が白河と知ると、ジンの目に一層の闇が広がった。
だがすぐに、
「あんた、は……」
「『蒼』で会った。白河と磐木だ」
「シラカワ………イワキ………」
イワキ、イワキ……。
何度かその名を口ずさむ。
その姿に磐木は、言葉が出なかった。
「ジン君、1年ぶりだ。元気にしてたかね」
愚問だった。
でも白河には他に言葉が浮かばなかった。
笑いかけるすべが。見つからなかった。
「『ビスタ』は寒いなー。空港に降りてびっくりしたよ!」
「……」
「ああ、魔の空域の封鎖は解かれたよ。まだ暫定措置だけど、いずれ正式に渡航は復活する。君のおかげだ。君が磐木を助けてくれたその道が、〝風の抜け道〟と呼ばれるようになってな。そこがあの暴風の中で唯一の通り道とされたんだ。君のお陰でまた行き来ができるようになった。ありがとうな、ジン君」
必死に。白河は笑いかけた。
そんな白河の顔を、ジンはぼんやりと見つめていた。
意味が通じているかはわからない。
でも、向けられているのが笑顔だという事はわかるはず。
そこには感謝と、愛がこもっている事はわかるはず。
「……、」
「今度差し入れ持ってくるよ。何が好きだ? ん? ああ、俺たちこっちに着いたばっかりだから、郷土料理はよくわからないけれども。食べたい物ないか?」
「……あ、」
「ん?」
ジンの目から、光る物が零れ落ちた。
「あ、あ、……」
白河はハッと口をつぐんだ。
そして。
「あ、あの……お願い、お願いだから……」
ジンはその場に、涙を流し。
「俺は、どうなってもいい。仲間を……仲間を、助けて…………」
地面に叩きつけるように頭を下げ、何度も何度も言った。
「お願いします、お願いします……仲間を助けてください、殺さないで、もう殺さないでください……どうかあいつらを、あいつらは……ッ」
「ジン君、」
「俺はもう、どうなってもいいから、助けてください、仲間を助けてください……」
何度も何度も彼はそう言った。
頭と体を、何度も地面にこすりつけ。
その姿に磐木と白河は言葉を失い……絶句した。唖然とした。愕然とした。
何も言えなかった。
1年前、捕らえられても余裕そうに笑っていたジン。
搬送の折、その道で彼は磐木たちを振り返ったけれども。
「お願いします、お願いします……」
変わり果てた姿。
彼がこの1年で見た物。
そして負ってしまった物。
その姿が今、2人の目の前にあった。
「俺はどうなってもいいから……どうか、あいつらはもう……殺さないで、殺さないでください……」
言葉失い、磐木と白河は『ゴルダ収容所』を出た。
施設を出ると空は、夕に赤く染まっていた。
「『蒼』とはまた色が違うでしょ?」
待っていてくれた大使館職員はにこやかにそう言ったが。
2人の目にそれは、残念ながら何の感慨もなく通り過ぎて行った。
どこかで食事でもと言われたが白河は丁寧に断り、礼を言い、近隣のホテルに案内してもらった。
「また御用があったらいつでも」
職員はにこにこと笑いながら、2人を下ろし去って行った。
車が消えていくのを見届け、白河は顔に貼り付けていた仮面のような笑みを消し去った。
「磐木」
「……」
磐木は返事をしなかった、できなかった。
「大丈夫か?」
「……は」
「辛かったな」
「……」
まだ磐木は若かった。
ジンのあの姿、容易に受け入れられるわけがない。白河にはわかっていた。
「なぁ、磐木。俺はこのままちょっと、『ゴルデミ』まで行ってくるよ」
「――」
『ゴルデミ』、そこは『ビスタチオ』の首都だった。
「総監、」
明らかに不安そうな顔を浮かべた磐木に、白河はその肩をポンポンと叩いた。
「ジン君の事、任せるよ」
「……でも、」
「何かあったら、何とかして止めてくれ。どうにかするから」
すべて曖昧な言葉だった。白河はこういう言葉が多い。
だがその時は、今までとは意味合いが違った。違って聞こえた。
「ジンを頼む」
「……」
「大丈夫だよ。何とかなるから」
「……」
「任せとけって。な? 俺は〝白河のお坊ちゃん〟だぞ?」
「……はは」
「何だよその笑い、柄じゃないって?」
「いえ」
「ははは、まぁ俺もその言葉、好きじゃないんだけどな」
今回だけは。
「使わせてもらうよ」
その権限。
それが元に得た物を。
「頼むな」
そう言って白河は、そのまままた汽車に飛び乗った。
残された磐木は空を見上げた。
国は変われど、土地は変われど。
「……ああ、ここにも」
七つの星は見えた。
光っていた。