『邂逅――ジンの章(7_years_ago)』-7-
住む場所を失った少年たちは、近隣の『ビスタチオ』の町に身を潜めていた。
ジンが通っていた飛空艇工場の社長が、使っていない工場を彼らに貸してくれた。
そこに寝泊りしながら、全員で必死に働いた。
早朝の配達から、土木、商品整理、工場の手伝いまで。
小さい子も懸命に働く。
自分のためというよりはすべて、仲間のため。皆のため。
子供たちのその姿勢は、シスターや皆のために働いたジンの姿を見てきたからに他ならなかった。
『ねぇ、ジン。あの子の事なんだけどさ』
仕事から帰ってきたジンを捕まえたのはミナミだった。ミナミは女子の中で一番年上で、ジンはあの少女の面倒のほとんどを彼女に頼んでいた。
あの少女――焼け野原になった町から連れてきた少女である。
『医者は何て言ってた? 今日来てもらったんだろ?』
『うん、多少煙を吸ってたみたいだけども、数日寝てれば大丈夫だろうって。ヤケドもそれほどひどくないって』
『そうか』
『ただね、あの子……』
『どうした?』
『その…………、肩に、刺青が入ってて』
『刺青?』
『うん、あの…………赤い薔薇の』
ジンの横で話を聞いていたリョウが『うわっ』と声を上げた。
『それって、まさかあれ?』
『何だよ』
『あれ? ジンは知らないの?』
『??』
『娼婦じゃん』
『――』
『『蒼』の娼館って、娼婦に薔薇の刺青させてるって聞いた事あるよ』
『ねぇ、リョウ兄、ショーフって何?』
『ん、だから、金もらって男と寝るの』
『リョウ!!!!』
『痛ってーなーミナミ、本当だろ?』
『バカ!! 子供に何言ってんのよ!!』
『……』
『あ、ジン、どこ行くの?』
『顔洗ってくる』
(……娼婦?)
『殺して』
最後に言葉をかわして以来、まだジンは1度も彼女と話した事はなかった。
彼はミナミたちに告げたとおり、工場の脇にあった手洗い場で顔を洗った。いつもより念入りに洗った。
……そうしなければ会いに行けない。そんな気がしたから。
――工場の2階に、彼女は横になっていた。
そこは元々は倉庫になっていたが、片付けて、何とか彼女用に1つ部屋を作った。まさか怪我人を雑魚寝の群集の中に入れるわけにもいかない。
多少誇りっぽいが、それでも床は、子供たちが一生懸命磨いたために淡く光っていた。
天窓になった部分から光が差し込み、照らしていた。
『……』
顔を覗き込む。寝ているようだった。
少し安心して、ジンはその枕元に座った。
あの時はススに汚れていたからわからなかったが、彼女はとてもきれいな顔をしていた。
歳は自分とそう変わらないだろう。
けれど。
(娼婦……)
肩にあるという赤薔薇は、今は布団に隠れて見えない。
髪は黒に近いような褐色である事から、『ビスタチオ』の人間でないのは確かだ。
……殺してと言った、あの言葉の意味もそこにあるのか?
『……』
見ていると、何だか不思議な気持ちになった。
形のいい唇が艶やかに桃色に染まっている。
少し心臓が跳ねた。
触れたら、どんな感じがするんだろうか?
思わずそっと手を出して、その指で触れようとした刹那。
『ん』
声が漏れた。驚いてジンは手を引っ込めた。
鼓動が一段と跳ねる。
そしてゆっくりとその目が見開かれて行くのを、ジンは食い入るように見つめた。
その目は薄い茶色。
だが光の反射を受けて、ほんの少しだけ青を溶かしたような不思議な色に染まっていた。
彼女はジンの存在に気づき、目を見開いた。
『ここは……?』
『ここは俺たちの、』言いかけジンは言葉に詰まった。何といえばいいんだろうか? 家? ねぐら? 工場? アジト?
『とにかく、大丈夫だから』
『……』
『倒れてる所連れてきた。大丈夫』
『……』
ジンは頭を掻いた。言葉が浮かばず、とにかく彼は『大丈夫』を繰り返した。
『どっか痛くないか?』
『あなた、誰?』
『俺はジン。……あんたは?』
『……』
『……、腹減ってないか? 何か持ってくるか?』
『……いえ』
それきり、彼女は黙りこくってしまった。
ジンはまた頭を掻いた。
――子供たちの世話には慣れたつもりだったが。
ジンは初めて知る。
こういう時どうしたらいいのかわからない。どう声をかけたらいいのかわからない。
『……』
口はもどかしいのに、心臓ばかりが急くように打ち付ける。
こんな感情初めてだ。
その日は逃げるようにその場所を後した。
翌日、ジンはまた彼女の元を訪れた。
理由はミナミが『あの子がご飯食べない。何とかして』と言うからだった。
二階までの階段は、妙に息が上がった。何度も深呼吸した。
『今いいか?』
一応声をかけてから顔を出すと、彼女は昨日と代わらず布団の中にいた。
『寝てるのか?』
彼女は起きていた。
ジンの姿を見ると顔を背け、そのまま背も向けた。長い髪が流れるように肩から滑り落ちた。
やれやれ。ジンはため息を吐く。
『メシ、食えよ。ミナミが心配してた』
『……』
『まだ温かいうちに、ほら。もったいないぞ』
『……いらない』
『何で? せっかくうまいのに。これ、昨日リョウが市場で買ってきた物で、今年初めて漁港で獲れたんだって。俺らも食べたけど、すごくうまくて』
『……』
『食え。でないと元気になれない』
その言葉に。彼女はボソリと『必要ない』と答えた。
『……どうしてなの?』
『え?』
『何で殺してくれなかったの……?』
ジンは言葉を失った。
『ねぇ、どうして?』
『……』
それきりまた、彼女は黙り込んでしまった。
ジンはとりあえず持ってきた膳を彼女の枕元に置いた。まだスープが湯気を立てていた。
『置いとくから』
『……』
それしか言えなかった。
その日も彼はそこを逃げるように後にする。
『どうしたの? 浮かない顔して』
その夜、仕事から戻ったゼンコーはジンを見るなりキョトンとした顔でそう言った。
『別に』
『彼女、どうなの? お前が拾ってきた子』
『……』
ジンは唇を尖らせて、そっぽを向いた。
ジンのその様子にゼンコーは苦笑した。
『あの子、きれいだもんな』
『……何の話だよ』
『ん? いやいや。こっちの話。昨日ミナミが、あの子がご飯食べないって嘆いていたけど? 食べたの?』
『……』
『まぁ、少し時間が必要なのかもね』
そう言ってゼンコーは、ポンポンとジンの肩を叩いた。そしてそのまま着替えるために立ち去ろうとしたけれども。
『ゼンコー』
『ん?』
『……何で殺してくれなかったんだ、って言われた』
『……』
ゼンコーは複雑な面持ちでジンを振り返った。
『あの子が言ったの?』
『ああ』
『……リョウに聞いたけど。薔薇の刺青があるって?』
『らしい。俺は実物見ていないけど。ミナミが言ってた』
『……娼館は主に、人民地区の北部にあるらしいよ』
『え』
『ちょっと、調べた』
『……』
『俺たちが爆撃したのは南部地区。なのに何でそんな所にあの子は倒れてたんだろ?』
『……』
ゼンコーはもう一度ジンの背中を叩き、そのまま去って行った。
ジンは彼が去った後もしばらくの間、虚空を睨んでいた。
――何で殺してくれなかったの?
あの子の声が、何度何度も心に響いた。
それからまた数日が経った夜の事。
『これからどうするよ、ジン?』
夕食の時、リョウがそう口を切った。
食事は全員で、工場の中央に輪をかくようにして座って取る事にしていた。リョウの言葉に一同が一斉にジンを見る。
この日はジンが一番帰りが遅く、泥を落として着替えて座った直後だったため、一瞬リョウが何を言っているのかわからなかった。
『ずっとこのままここにいるってわけにもいかないだろ?』
『ああ、その話か。そうだな』
魚のアラと野菜がいっぱい入ったスープ。そのにおいにたまらず、ジンはまずそれをすすった。美味しかった。
『引っ越すとして、どこか当てがあるのか?』
『ないけど』
『ないのかよ』
『今探してる』
しかしそれはジンも考えていた事だった。
『あたし、広い所がいいなぁー。後、きれいな海が見える所』
『美味しい物がいっぱい食べれる所!』
『あと、皆で騒げる所がいいよね。ここ、あんまり騒ぐと怒られるもん』
『あんたたちねぇ、寝起きする所があるだけマシなの! 温かいご飯が食べられる事に感謝しなさい!』
ジンの隣でフズが、スープに入ったにんじんを取り出し、ぼんやりしているザの椀にそっと放り込んでいる。
『それは俺も探してるから。もうちょい待って』とゼンコーが言った。
『あとそれからもう1つ。ジン、あのさ……』
『?』
『この前さ、ジンとゼンコーが爆弾買った奴って覚えてる?』
『あん? ああ、ここの社長の知り合いの?』
『うん。この前会う機会があって。ちょっと話してきたんだけど』
『?』
『ジンさ、俺とかミナミとかが……飛空艇持つって言ったらどう思う?』
ジンは目を見開いた。しかしゼンコーは特に顔色を変えなかった。
『安くていい飛空艇流してくれるって言うんだ……戦闘機なんだ。何かその人、ザークフェレスに伝手があるらしくて。ザークって言ったらアレじゃん? 武器屋の大手っていうか』
『死の商人とも呼ばれてるね』
『うん……でも、……俺、ミナミとも相談したんだ。ずっと思ってたんだ。俺たち、いつもジンとゼンコーに頼りっきりで。何もかも任せてきたから。修道院にいた時から、仕事だってそうだし。それに……修道院が焼かれた時だって、『蒼』の町を焼く時だって』
『……』
『いつまでも頼りっぱなしじゃいけない気がするんだ。俺たちももっと、しっかりしなきゃいけないと思うんだ』
『リョウ……』
『待って! あたしだって同じ気持ちだし!! ミナミとリョウが持つなら、あたしも!!』
『僕も!!』
『僕だって!!』
『皆が乗るなら私も乗るー!!』
『待て、皆落ち着け』
全員が僕も私もと手を上げる。その中にはもちろんフズもいた。
『ジン兄!! 僕も乗る!! 僕もジン兄と一緒に飛びたい!!』
『お前ら……』
『機体の数はどうにかなると思う。交渉次第だけど。なぁ? 進めていいかなこの話?』
『……』
ジンは大きくため息を吐いた。
『お前ら……わかっているのか? これだけの数が飛空艇を持つ事がどういう事か。周りからどう見られる事になるか、その意味が理解できてるのか??』
総勢、25名。
――かつて、夢を描いた事はある。全員で飛ぶ事ができたならと。
だがあれから何年か経った。状況も変わった。
『わかってるよ』
『覚悟ができてるのか?』
『ああ』
『…………』
――空賊。
そう見なされる事への覚悟。
その日はジンは結論を保留した。
とても簡単に出せる答えではなかった。
全員の一生がかかっていた。
◇
それからまた数日後の事だった。
その日ジンは仕事がなく、買出しのためにフズとザの3人で一緒に町へ出た。
『お前ら、荷物持てるか?』
『もぉ、ジン兄、いつまでも子ども扱いしないでよ』
『はは、悪い悪い』
それでも、ジンから見ればまだフズは子供だった。
しかし、ジンは今のフズと同じくらいの時に生家である屋敷を飛び出した。
そう思うと、ジンはフズの姿に自分を重ねる。こんなに小さかったのかと。
(でも)
もう、決断できる歳だった。
――あれから誰も、あの夜の話をしない。全員で飛空艇を持つ話――しいては、空賊になるという話。
(昔は簡単に言えたのに)
皆で飛ぼう。空賊になろう。
しかし今のジンにはそれは、少し荷が重かった。
彼の中にはいつも、シスターたちの姿があった。
(俺がシスターたちの代わりに皆を守らなくては)
その思いがあったから。
空賊に身をやつす事。それが本当に正しいのか? いや、正しいわけがない。
(でもだったら)
この先俺たちはどうやって生きていけばいいんだ?
『ジン兄、あそこ、何か皆集まってるよ』
フズに服を引っ張られ見た先。町の広場に人だかりができていた。
『何だろ?? ザ、見に行こ』
『うぃ』
年下のザを引っ張って駆け出そうとしたフズを。
『待て』
ジンは何となく嫌な予感がしてその肩を掴んだ。
そして2人を隠すようにしてそっと近づいた。
人だかりの一番後ろにつく。周りには背の高い者が多く、一体何者がその輪の中心にいるのかはわからなかったけれども。声だけはハッキリと3人の耳にも届いてきた。
『逃げ出した娼婦の娘は、年齢16歳!! 黒髪に薄茶の瞳、肩に赤い薔薇がある。名前はメグミ!! この町に逃げ込んだ可能性がある!!』
『ショーフって、』
『ジン兄、』
と言いかけたフズとザの口を塞ぐ。
『その娘は『蒼国』の管理下にある者だ!! 心当たりがある者は直ちに名乗り出よ! 隠し立てした者は厳罰に処されるぞ!!』
『……』
『加えて、ここに我々『蒼』の人民地区を空襲した犯人が潜伏しているという噂がある!! この件も付して、何か知っている者は速やかに名乗り出よ!! こちらに関しても隠した者は『蒼』の刑罰により、その者も罪人と同様の罪を問われる!! すべては『蒼国』大使・山瀬 彰文の命によるぞ』
『行くぞ』
フズとザと手を取り、ジンは歩き出した。
2人は何となく不安そうな面持ちで、ジンと、背後の群集を比べ見た。
――決断が迫っている。
迷っている暇は、なかった。
工場の社長に書き置きを残して。
ジンたちは明朝、まだ日が昇る前に町を出た。
突然の事に子供たちは戸惑ったが、これ以上ここにいる事はできなかった。
着の身着のまま町を出る一団。
そしてその中には、あの少女の姿もあった。
家をなくし、町を追われた少年たちが行き着いた場所は。
『……型はいいよ。離着陸の抵抗はかなり薄い。素人でも楽に持ち上げられるよ。操縦もシンプルな構造になってる。あと、装弾は』
『払いは出来高でいいよ。いやね、お前たちが『蒼』がらみの孤児で、奴らの町に火を点けたって聞いたザークの上層部の連中が随分と喜んじまってね。ひひひ』
『面白いじゃねぇかよなぁ? こんなガキどもが回す空賊だぜ? 坊主、弾の撃ち方教えてやるよ』
25人の子供たち。一番下はまだ、10歳。最年長のゼンコーですら、この時まだ22歳。
『ここ押すと弾が出るの??』
『ああ。当たれば花火が見えるよ』
『花火? それなぁに?』
『とってもきれいなものさ』
『ジン兄! 花火見えるって!! わぁ』
12歳のフズが操縦席に入り、弾の撃ち方を教えてもらっている。
そして17歳のジンは、
『安全装置解除はこれな? ここ引っ掛けて手前に引く。後で試し撃ちしてみるか?』
黒塗りの銃を渡され、撃ち方を習っていた。
『さぁガキども!! 暴れまわれ!!! 世の中をひっくり返してやれ!!!』
――世の中の、歪んだ部分に翻弄された子供たちは。
その黒い歪みの力を得て。
運命の分岐路を歩き出す。
その道は茨の道。
わかっていたけれども。
他には道がなかった。
彼らを守るのはもう、神でもなく、シスターたちでもなく。
銃と弾と、暴力とも言える力。
『……さて。どうする』
『新しい家を探さなきゃ』
『アジト?』
『南部に無人島があるらしいよ。その辺でも当たってみる?』
新しい力を得た子供たちは嬉しそうに騒いでいたが。
ただ1人、無表情のままでいる者がいた。
ジンが焼け野原から連れ帰った、あの少女である。
彼女は飛空艇はいらないと言って受け取らなかった。
ただ、短銃を一丁。
それをもらうと、熱心に射撃の練習を繰り返していた。
――和気藹々とこれからの事を話している一同から、ジンは彼女を連れ出した。
声が届かない所までやってくると、ジンは彼女に向き直り、徐に聞いた。
『お前これから、どうする?』
彼女は不機嫌そうに顔を背け、明後日を見た。
ジンは少し気まずそうに、だがためらい勝ちに言った。
『俺たちと一緒に来るか?』
『……』
彼女はそれに小首を傾げ、少し考えた後に首を振った。
『私は戻る』
『どこへ』
『……』
『お前って、』
『娼館』
『――』
『知ってるんでしょ?』
『え』
『私が娼婦だって』
『……』
『戻るよ、娼館。あたしの事探してるみたいだし』
『……』
『町まで乗せて。適当に下ろしてくれたらそれでいいから』
『……戻ってどうするんだよ』
『……』
『お前、』
彼女はとても、きれいだ。
日の光を受けて茶色く光る髪も、淡い透けるような青の光をほんの少し持つ瞳も、桃色の唇も、少し団子になった鼻も。
華奢な体は、折れそうで。
けれどもその身にはふさわしくない、腰元のベルトには重い銃が収まっている。
『あの日、死のうと思ってあそこに来たんだろ』
ジンは、ずっと思っていた事を尋ねた。
彼が空爆したのは南部。彼女がいたのは北部。何のために彼女はそこにきた?
――死ぬために?
『……はは』
彼女は返事の代わりに少し笑った。
そしてそのままふわりと微笑んだ。
『いけない?』
『……』
『……死ねると思ったのに』
悔しくも、その微笑みもまたきれいで。
そして同時にジンの脳裏、記憶の中、シスターの最期の笑みとそれが重なった。
『想像できる? 毎日毎日知らない男の慰み者になるの。初めてお客の相手したの、12歳の時だよ。それから毎日。知らない男に抱かれて、そのたびに私は、1つずつ何か失ってく。どんどん心の大事なもんが、零れ落ちてく気がする。自分が嫌。嫌なのに体は反応する。それも嫌。もう嫌。何もかも嫌。こんな思いを繰り返すなら、この身を焼いてしまった方が。地獄の業火に突き落とされる方が」
マシ。
――そう言おうとしたその体を。
ジンはギュッと抱きしめた。
髪が香る。
肌のにおい。
甘い。
その首筋に顔をうずめる。
彼女の体も、心も、痛みも悲しみも何もかも、自分の中へと包み込んで溶かしてしまおうとするように。
ジンは強くその身を、抱きしめた。
『……はな、してよ』
『……』
『私は戻る……戻って、娼館も客も殺して、私も死ぬから』
『……させねーよ』
『あんたに何が、わかるってのよ』
『……かんねーよ』
『だから、離して』
『……せねーよ』
『ジン』
名を呼ばれた。
修道院にたどり着き、シスターにもらったその名前。もうあれから数え切れないくらい呼ばれた名前なのに。
初めてジンは、それが、自分の名前なんだと思った。
俺の名前はジン。
こんな音を持つ言葉が、俺の名前だったのかと。
『お前の名前、教えてくれよ』
『……』
『……』
『……………恵』
時島 恵。
小さな小さなその声で、そう呟いたその唇に。
ジンは口付けた。
『――置き土産をしてくぞ』
『ミナミ、操縦大丈夫か?』
『誰に物言ってんのよ。リョウこそいきなり墜ちたりしないでよ』
『マホ、お前はトミテルのフォロー。フズはザに注意。実行部隊は俺、ゼンコー、リョウ、ミナミ、クズハ、ナタク、ソウ、ハナカ』
『え! 俺もやるよジン兄!』
『お前はまだだめだ。とにかく飛ぶ事に専念。目標は全壊滅。追撃が来た場合はただちに逃げろ。万が一の時は俺とゼンコーが相手をする』
『さてそれじゃ、我ら最初の仕事に取り掛かりますか?』
『それで、決まったの? 私たちの名前』
『それならもう』
『俺たちに待ち受けるのは地獄。そして俺たちが導くのもまた地獄。地獄の番犬【ケルベロス】だ』
『これより本作戦をもって、正式にジンを賊長とする。異論はないな? 副長はゼンコーが立つ』
『俺も今日からすべてを改め、賊長を立てる。全員、肝に銘じろ!』
『はいッ』
『全員、今後は賊長、ないしカシラと呼べ。話す時は敬語。いいな』
『ゼンコー……何もそこまでしなくても……』
『いいえ、カシラ。けじめです。私も本日より、言葉を改めさせていただきます』
『離陸準備!!』
『目標・『蒼』人民地区・北部!!』
『全壊滅!! 行くぞ!!!』
『作戦名・〝ゼロ〟。【ケルベロス】出陣する!!』
――そして。
町は焼けた。
これでもう、『ビスタチオ』の町が彼らに脅されるような事はないだろう。
修道院を襲った連中も。これで1つの遺恨は絶った。
そして、彼女の娼館も。
主人ごと、何もかも、焼き切ったから。
◇
『彼女も着いてくる気になったみたいですね』
『ん』
『よかったですね』
『……ゼンコー、2人の時くらいその口調は、』
『ダメです。俺は不器用だから。これは覚悟と、けじめです』
『そうか……』
濃紺の機体を前に、2人は煙草に火をつけた。
空は沈みきった太陽の余韻を残すのみで、機体と同じ色に染まりかけていた。
『バージニアスリム? 女煙草じゃないですか』
『ああ。でもこれくらいがちょうどいい』
『1本いいですか?』
『どうぞ』
『……ん、なるほど』
ジンとゼンコーの機体は、元々の物を改良する形で戦闘艇に仕立ててもらった。何となく捨てる事ができなかったのである。
【ケルベロス】の機体は一様に濃紺、そして黒のライン。
そしてジンの機体には他とは別に、白で一つ文字が刻まれていた。
『我道』と。
『なぁ、ゼンコー』
『はい?』
『俺たちは、間違ってるかな』
『……』
『俺たちが選んだ道は』
『――この道でも、正しい事はある』
『……』
『心のままに、カシラ。あなたが納得できる方向へ。空賊が悪しき物と誰が決めました?』
『……ゼンコー』
『我々はあの頃の願いのままに。ただ、皆で飛びたいという、その願いのままに』
『……』
『何も変わりません。カシラ。我々は何も』
取り巻く環境は、生きるためのすべは、変わってしまったけれども。
けれども、変わらないものもある。
胸にある、信念。想い。
そして守るべき、大事な仲間。
家族。
『あなたが信じる、新しい道へ。私はあなたに従います』
――永久に。
皆で飛ぼう。
その夢が叶ったその日。
彼らは世界と一線を隔した。
それは破滅への始まり。
でも。
ジンは思う。
……楽しかったのだと。
その夢は決して、安易なものではなかったけれども。
「楽しかったんだ……」
誰にともなく呟いて、彼は天を見上げる。
ごつごつとした岩肌の牢獄。
あの日から5年。
厳しすぎる寒さの中、ジンは目を閉じた。
闇の中で皆が、彼に笑いかけていた。