『邂逅――ジンの章(7_years_ago)』-5-
それからわずか2日後。
【ケルベロス】のジンは『ビスタチオ』本国に、身柄を搬送される事になる。
「お願いです、どうかもう一度だけ面会を!」
「くどい! 何度も言っている通り、もうジンに会わせるわけにはいかん。諦めろ」
「戸森総監、そこを何とか。ご迷惑はおかけしませんのでどうか」
「白河君、君まで何を。なぜそこまで奴にこだわる? いいか、お前達のしている事はすでに懲罰に値するぞ!? 私が軍部に報告すればどうなると思ってる!? いい加減にしろ。これ以上は容認できん」
「……」
「お前達が何を考えているのか知らんが、ジンはもう『ビスタチオ』に戻って刑を受ける身。待つのは死だけだ。磐木、お前妙な事言っていたな? ジンを仲間に? 不可能だ。それに奴は……もう無理だ。誰の言葉にも反応せん。食事も一切手をつけなくなった。我々が何をどう言っても石のように動かん。奴に会っても無駄だ。諦めて帰りなさい」
「――」
「死に際の準備をしている者を乱してはいかん。苦しめる事になるぞ」
ジンを迎えにきたのは『ビスタチオ』の空母艇。
空母と言ってもその規模は今ほど大きくはない。飛行技術が躍進を遂げるのはこの数年後の事である。
しかしそこに囚人を1人乗せ、警護を数人つけるくらいは充分な規模であった。
――『沫咲』の地下収容施設から彼が連れ出されたのは、正午を回った頃だった。
その日は初冬のわりに暖かく、秋の名残を思わせるような日であった。
風が枯れ枝のにおいを運んでくる。その中に、時期を外れた金木犀の淡い残り香が混じっていた。
だがジンは顔を上げなかった。
空母艇までの道、彼はずっと前を歩く警備兵のかかとを見ていた。
日差しの暖かさもにおいも、何一つ心に入ってこない。
目に映るのは暗闇。
自分の周囲に何人の兵士がいるのか、その者たちが一様に銃を装備している事だとかも。
何一つ。
元々細い面差しが、日差しを受けて一層、こけて見えた。
――そして磐木と白河は、そんな彼の姿を遠くからじっと見ていた。
「ここから動く事も、声をかける事も一切許さん。これが、俺にできるギリギリの情けだ」
磐木たちの必死の懇願に、戸森が出した結論は1つ。滑走路が見渡せる時計台の下から見送る事。
もう、話しかける事は叶わない。
――ジンは俯き歩いて行く。いや、その足取りは歩いているというよりは、ただ〝動いている〟。
「磐木……」
白河が呟く。
痛いと、磐木は思った。
遠目にもわかる、ジンの体から出ている感情は。絶望。
『死に際の準備をしている者を乱してはいかん。苦しめる事になるぞ』
昨日戸森に言われた言葉が磐木の脳裏を刺した。
もう無理なのか? 磐木は歯を食い縛る。
いや、元々が無茶な話だ。
空賊を仲間にしようなど。
たった1度助けられただけで。
……いや違う、それすら本当は口実にしようとしただけだ。
隊長なんかになりたくなかったから。断る口実にするために、あいつを利用しようとしただけ。
(自分は)
隊長などふさわしくない。磐木はそう思う。
晴高という絶対的な存在があった。
二度と会う事できない人。その人が立っていた場所に、自分が立つなど。
(嫌だ)
晴高の時間は止まった。だが磐木の時間は流れている。
(変わりたくない)
越えられない――そして何より、〝越えたくない〟。
晴高の前へと、彼が知らない場所へなんか。
(進みたくない)
ずっとこのまま、思い出の中で。
下っ端のただの一兵として。
(俺は)
ただ、進みつつある今を否定するために。新しい未来を刻むのが怖くて。
そのための口実に、あの男を使おうとしただけだ。
――今は?
「……」
磐木はじっとジンを見つめ続けた。
今まさにここから飛び立ち死に向かおうする、その姿を。
――そしてその瞬間、一際強い風が吹き抜けた。
あまりの突風に、白河が顔を背ける。磐木も目を閉じた。
「……」
そして再び目を開けた時。
ジンが、見ていた。
風など、普段なら気にも止めない。
だがその時ジンは思わず顔を背けた。それは体が成した勝手な反応。
あまりの突風に、列を成す警備たちもよろめいた。隊列が乱れる。
だがジンはただ顔を背けてそれを避け、ぼんやりと視線を上げた。
そして見たその先に。
時計塔と。
その足元からこちらを見つめる磐木たちの姿があった。
「……」
ジンは磐木を呆然と見つめた。
「――歩け」
警備兵が言った。
ジンは立ち止まったままだった。
「さっさと歩け!!」
それでも固まったままのジンを、警備は迷わず蹴飛ばした。
倒れこんだジンは数人の男に引っ張り上げられ、そのまま無理矢理引きずられるように歩かされた。
ジンはうな垂れた。
そしてそのまま後はもう振り返る事なく空母の中へと。
食われるように、飲み込まれていった。
――その姿を見届け、その扉が閉められたその瞬間。
「白河総監」
ポツリと、磐木は言った。
戸森が背を向け去って行く。
白河はジンが消えてもなおじっと空母を見つめていた。
「俺は」
「……」
――あの時俺が発した言葉、それは自分のための言葉だった。
だが今、この心を湧き上がる感情は。
「このまま……見捨てられません」
「……」
磐木は腕の時計を外し、白河に差し出した。
「お返しします」
「……」
白河はそれを見向きもしなかった。
――ジンがこちらを見たあの瞬間。
絶望の道の中、磐木を見たのはただの偶然。
だがその後にあったのは〝意思〟。
こちらを呆然と見つめるその目は訴えていた。叫んでいた。
「俺はあいつを見捨てられない」
助けを求めていた。
「どうする気だ」
「わかりません」
「……空軍を辞めて、1人で『ビスタ』に突っ込む気か?」
「……」
「受け取らんよ」
「総監」
「『湊』に戻るぞ」
白河は背を向けた。その時、空母のエンジンがゴッと大きな音を立てて燃え上がった。
「準備が整い次第、俺たちも『ビスタチオ』へ向かう」
空母艇が舞い上がる。
それに背を向け、2人の男が歩き出す。
さっきの突風よりも強い風が吹くが。
もう顔を背けない。
見据える現実、睨む未来。
構ってられない運命が。
もっと大きなうねりとなり、彼らの背中を押している。
前へ、もっと前へ。
来るべき、運命のその時へと。
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
闇が誘う。
彼を、いつもの場所へ。
地獄のあの、灼熱の中へ。
『……ジン、笑って。どうか最期に、笑顔を見せて』
〝ジン〟。彼にその名を与えたのは修道女。
そして彼女が最期に望んだのは、他の何物でもなく、ジンの笑顔だった。
彼女は、「あなたの笑顔が好きよ」と言い残し、笑ってこの世を去っていった。
その体切り刻まれ、炎に焼かれても。
ジンに芽生えた憎悪を、少しでも拭い去ろうとするかのように。
いつものその優しい笑顔で。
最期まで、自分以外の誰かの事を気遣って。
だが。
彼女だって気づいていたのだろう。
居場所を失った子供たちの心が、そんな事だけではもう、止められない事も。
そして何より。
もう彼らは、子供ではないという事も。
だから彼女は言えなかったのだ。
怨むなとは、憎むなとは。
悲しむなとは。
……彼女は決して、神ではなかったから。
「出ろ」
「……」
「聞こえないのか、出ろ!」
「……」
「山瀬大使が面会にきている」
ヤマセ。その名にジンの心が震える。この数日来、初めての衝動だった。
――『蒼』を出て何日経ったかもう、ジンにはわからない。
ただここが『ビスタチオ』である事は肌の感覚が教えてくれる。『蒼』ではありえない寒さ。
ここが内陸部のどの辺りかによっても体感温度は変わってくる。この寒さは、おそらく北部に位置するだろう。
土地によっては凍死する者も多いこの国。場所によって生死が左右される事にもなるのだが、ジンにとって今は、ここがどこなのかよりももっともっと重要な事があった。
『ビスタチオ』に着き空母を降りた瞬間から、ジンは言い続けた。
「『蒼国』の特命全権大使、山瀬 彰文(yamase_akihumi)を呼んでくれ」
特命全権大使とは、各国がそれぞれの国に派遣している人間である。外交交渉、国の代表としての調印・署名、そして自国民の安全・保護を主な任務としている。
山瀬という男は『蒼』から『ビスタチオ』に派遣された大使であった。
――その男が、ジンの元へとやってきた。
どこだかわからない牢獄、看守に従い歩く足取りの中、寒いはずの体にジンは汗をかいた。
「入れ」
通されたのは灰色の岩肌むき出しの部屋。
ただ一面だけガラス張りになった、その透けた壁の向こう側の部屋に。
「久しぶりだね、ジン」
その男は立っていた。
「山瀬」
フラリと、部屋に入る。
ジンのその両手には手かせが付いている。
それにより均整が取れず少しふらつきながらも、ジンはその男に向かって歩いた。
「おやおや、痩せたかね? 顔色が悪いね」
丸々と太ったその男の額は脂汗で照々《てらてら》と光っていた。
「……約束は果たしたぞ」
久しぶりに言葉を発した。声がかすれた。一瞬喉に、血が吹き出るかと思うような痛みが走った。
「なのに、どういう事だ」
震えるようなその声に、山瀬は顎の肉を揺らしながら笑った。
「約束? それは『蒼』で捕まれなんて物だったかね?」
「……」
「それこそ約束が違う。違えたのはお前の方だろう?」
「……そんなのどうでもいいだろう。とにかく、あいつらはどうした?」
ジンの口からは、音よりも、ヒュゥヒュゥという無音の息が漏れる方が多かった。
「ゼンコーは、リョウは、ミナミは、フズはザは……あいつらはどうした? あいつらには手を出さないと約束したはずだ。その代わり、俺はどうなっても構わないからと。それに恵は」
「はっはっは」
山瀬は懐から葉巻を取り出すと、おもむろに火をつけた。
「【ケルベロス】副長・ゼンコー他、メンバー面々は、各地の収容所に散り散りにぶち込まれてるよ」
「騙したのか、貴様」
「騙した? 馬鹿な、お前、自分の立場がわかっているのか? そもそもお前とわし、対等に話ができる立場だと思っているのかね?」
「山瀬」
「空賊は死刑。あれだけ世間を騒がせた【ケルベロス】、まさか賊長だけを生贄にその他を無罪放免になどできようか? 愚問。わしが許しても『ビスタ』空軍が許さんよ」
「……貴様ッ」
ジンの目に、炎が宿った。
「恵もか、恵も……最初からお前は」
「気安く呼ぶな、愚か者。あれはわしの玩具だ」
「……何ッ」
「落籍したのはこのわしだ。あれをどうしようと、わしの勝手」
ジンは目をむいた。
「落籍……!? 何を、もう、あいつがいたあの場所は、」
「お前が焼いた。まぁ確かにそうだ。町はお前らが火をかけ、今は焦土だ。恵がいた娼館もその主人も、もうこの世には存在しない」
「ならば」
「残念ながらあの前日、わしはあの女を買い取った。契約は成立しておる。お前が何を言おうが元々、あの女はわしのもんさ」
「……嘘だッ、そんなのでたらめだ」
「ははは、恵はなぁ、今はわしの館におるよ。多少反抗的だが、時間の問題さ。何せ時間はたっぷりある。いい薬もたくさんあるからなぁ、心も体も自我も、何もかも全部わしの思うままに作り変えてやるさ。いずれはわしなしでは生きられぬように、泣いて懇願するようになる。ひひひ」
「貴様――――ッッッ!!!」
体ごとガラスに打ち付ける。だがヒビ一つ入らない。
「仲間の命と引き換えに? 恵にも二度と手を出すな?? ははは、愚か者め。世間知らずの青二才が」
何度も何度も体を、腕を、頭を打ちつけ。看守たちにその体を羽交い絞めにされても。
「ウォォオオオオオオオオオオ」
もがき、もがき、もがき。
吼えるジンを、山瀬は笑って見ていた。
「お前はこのまま、ここで死ぬんだ」
「ウァァァァアアアアアァァァッッッ」
「恵にもそう言ってある。お前は死ぬ。お前は死ぬ。ひひひひひひひ、悔しかったら助けにきてみろ。俺を殴れもしない、太陽すら二度とまともに見る事できないお前にできるか? うひゃひゃひゃ」
「――――ッッ」
「朽ちて死ね。自分の身分もわからぬ愚か者。その身でもってすべてを悟るがいい」
ジンは狂ったように暴れた。
薬を打たれ、眠らされるその時まで。
もがき、抗い、
叫び続けた。
――【ケルベロス】賊長・ジンの逮捕。
ならびに【ケルベロス】構成員全員捕獲。
当時『ビスタチオ』の新聞は連日この話題が見出しを飾る。
そこにはこう書かれてあった。
『ジンの裏切り』
『賊長ジン、自ら出頭』
『【ケルベロス】を道ずれに』
奇しくもそれと同じ内容を、捕縛された【ケルベロス】の面々は無遠慮に聞かされる事になる。
「嘘だ」
もちろん、その男にも。
「ふざけんな」
前髪を無造作に垂らした垂れ目の少年は、彼にそれを話して聞かせた取調官にそのまま踊りかかった。
両手は手械によってふさがれている。だから彼はその口で、その取調官の喉元に食らい付いた。
血潮吹く。
「カシラが裏切るなんて、ありえるかッッッ!!!」
【ケルベロス】のフズ。その男にとって、ジンという男は絶対。
暗闇の中、ジンは思う。どこで何を間違えたのかと。もう取り返しはつかんのかと。後はレールが落ちるまで走るしかないのかと。その時を待つしかないのかと。
――顔を上げろ、ジン!!
「……」
磐木の声が脳裏に掠めた。幻聴である。
けれどもジンは何となく顔を上げ。
「……」
ぎゅっと目を閉じた。
もしも過去をやり直せるとして。
どこまで戻れば、すべてがうまくいくのか?
――蘇る、絶望と灼熱の過去。
そして笑い合った日々。
間違えたのは俺か?
それとも――?