『絶対の翼(zettaino_tubasa)』-3-
エンジン吹かす。
足が、アクセルを突き抜けそうだ。
(もっと早く)
瑛己は歯を食いしばる。
風に混じる冷気が、さっきよりもずっと鋭くなっている。
それと同時に濃く、重く。
露出した肌は切り裂かれ、血が噴出しそうな感触すらする。
だが構ってはいられない。
たとえ空気にこの身が引き裂かれようとも。
(今は)
走らなければならない。
左の側部からガタガタと、いつもはしないような音がする。
エルロンの状態は見た。その銃痕も目に焼きついている。
ギリギリなのはわかっている。
止まっていれば凍ってしまうほどの冷気の中で。だが瑛己の額に浮かぶのは汗。
(どこまで)
翼はもってくれるのか。
だが。もし例え途中で羽根が折れる事になったとしても。
走らなければいけない、飛ばなければいけない。
まだ残されてる時間、残されてるこの翼、そして命でもってして。
「――」
この感情を何と呼ぶべきか、瑛己はわからない。
ただ一つだけ言える事があるとしたならば。
「……間に合ってくれ」
――冷気とは違うピリピリとした気配が瑛己の頬を掠めた。
だが彼の表情は動かなかった。違う想いに眉間にしわが寄り。
双眸は真っ向正面。
睨み見据えた空の果てに、いつか見えてくる、黒い群集の像。
急降下。
スピードに手加減はない。
一気にまっすぐ、地面を目指す。
その姿、まるで白い鳥が、地面に自らを叩き付けんとするがごとく。
それに続き数機の【虎】が、食いかからんばかりに全力疾走で追いかけた。
だが寸前、尻尾を捕まえようとした最後の最後で。
白い鳥は一気に左へ進路を変えた。
――このスピードで。
普通の機体がこの速度で、地面激突を避けられる物ではない。
【虎】が地面と口付けしたのはほんのほんの一瞬。
だがそれは死の接吻。
すぐに、燃える火の粉とその身は変化する。
操縦桿をいっぱいに引き起こし、転がりながら体勢を立て直しつつも、射撃は忘れない。
弾が飛び立った瞬間、その白い機体も風を捕まえスピードがまた跳ね上がる。
直角に上昇していく様を見ながら、【虎】の乗り手は思った。
あり得ない。
あのスピードで落下からの方向転換、そしてこの立て直し。こんな事あり得ない。
ましてこの反応速度。
「こんな、」
人が成せる技じゃない。
だがその言葉は、最後まで音として繋がれる事はなかった。
代わりに後を続けたのは、機体の悲鳴。そして断末魔。
誰もがもう言葉を失う、その飛行。
ドドドドドドドド
連射しても連射しても、風に打ち込んでいるかのように。捉える事ができない。
速度、反応、切り替えし、そして銃撃。すべてにおいて。
彼女の動きは、もう、操縦という域を超えている。
本当に人が乗っているのか? それすら疑いたくなるほどに。
その鳥は自由で。
そして残酷に。
「ぅ、ウァァァッァァァアアア、た、たすけ」
ドドド
逃さない。
《12小隊、一気に撃ち込めェェェェェッェェエエエエ!!!》
ドドドドド
集団は意味を成さない。
何十、何百という弾がその身に降りかかろうとも。
彼女が操る360方向の変化、動きに、その1つとして着いてこられない。
連射は無意味。代わりに自滅を早めるだけ。
耳に木霊する爆音に、彼女は表情一つ変えない。
ミラーもレーダーも見ず、チラと肉眼のみで周囲を確認する。
「あと少しか」
そう思って息を吐くと、安堵と同時に別の感情がこみ上げてくる。
黒く、重い感情。
だがそれが表情に浮かぶ事はなかった。
彼女に出された命令は、ただ一つ。
――【白虎】全機撃墜。
(命令)
それは絶対。
世間から〝絶対〟と謳われる彼女の心の中で、自分の翼の価値など知った事じゃない、そんな事よりももっともっと重要な事。
一機も取り逃がすな。
それを望まれるというのなら。
ドドドド
スピードの感覚はわかってる、照準は意味を成さない。すべて予測での射撃。
思い描くタイミング、機械と彼女の間にあるのは2秒半のズレ。
下腹部をさらすように、上へと反り上がる。
そこから天地逆転のまま、さらに射撃。
ドドド
さらに足元のレバーを、触れると同時に撃ちこむ。
それで奥にいる機体が沈む。傍にいた機体、進路上にそれがあった物5機が、避けようなくぶつかり巻き込まれる。
ポロポロと、墜ちていく。
それはまるで、虫のように。
ここに至り初めて、彼女はそんな機体に目を向けた。
「……」
その瞳に何かしらの感情が浮かびかけたその刹那。
横合いから弾が飛んできた。
視線はそのまま、体が勝手に動く。右下へと機体を滑らせる。
そしてようやく彼女は、今撃ったその機体を振り返った。
目が合った。機体に描かれた虎の双眸。
その瞳は怒っているんだろうか? 猛っているんだろうか?
だが、彼女にはそう見えなかった。
(あの虎は)
――機体の下へ回り込む。そこから半回転を加え、機体の背後を取ろうとしたが。
その【虎】はうまく身を転がし、それを避けた。
(私を見てた)
冷静な瞳。まるでそれは。
心の内を、見透かすように。
――アクセル踏み込む、ギアを切り返る。
そのまま左のエルロン縦にして、上へと上昇する。
そこにいる、【虎】目掛けて。
2弾、3弾。操縦桿を押し倒す。爆音が耳を。そのままの勢いでさらに、走る。
その目に映るのは、こちらに背を向け走り去ろうとする物たち。
「全機」
爆撃。
一兵たりとも、逃がせない。
右脇についた射撃ボタンに指を。
ドドドド
空から弾が振ってくる。かする事なく逃げ切ったけれども。
彼女は感情ない目で振り仰ぐ。
ああ、また。あの虎だ。
さっきと同じ双眸で。
「……」
あの虎は私を見て、何を思う?
それでも私は。
ぐっと操縦桿を握り締める。
「やらなきゃならない」
――あの目は似てる。
いや、あんな怖い目ではなかったけれども。
なぜだろう、思い出す。
あんな、まっすぐな目をした、一人の青年の顔を。
ドドドドドド
【虎】が吼えた。彼女は操縦桿を斜めに切った。
そこからダダと2発、明後日へと撃ち込みスピードを上げる。
チラとバックミラーを確認すれば、その【虎】の真正面の映像。
間髪、打ち込まれる。だがそれを彼女は見越してる。
上へ宙返りし、そのまま頭から下降、【虎】の機体中央目掛けて打ち込む。
だがそれを【虎】は寸前でギリギリかわした。
エルロンの一端は砕いたが。
「早い」
彼女は呟きギアを2、3度前後させる。
そこから風を巻き込むように空中、羽根を右と左で上下させる。
ドドドド
【虎】の背中を捕らえた、その2.5秒前に撃ちかける。
普通ならばそれで終わりだが、ここもまた、その【虎】は逃げた。
「……」
少し息を吐く。だがアクセルを踏み込み、左のレバーに手をかけている。
その間に【虎】は下へ空を切るように走る。彼女は追いかける。
ひねりこんで上昇をかける【虎】に、彼女も同じようにひねりこむが。
【虎】の回転が、1つ、早い。
ダダダダ
その弾丸は、白い翼を捉える。咄嗟に左へ切った事により、弾はその真横をすり抜けて行った。
が、避け切れなかった1つが、白い塗装を弾いて行った。
今日初めての、被弾。
その程度で操縦不能になるような装甲ではないが。
彼女の目に、光が灯る。
――否、闇か?
ダダダダ
尚も攻め立ててくる【虎】に、彼女は。
「……」
歌を、口ずさむ。
《ハヤセ副長!! 撤退命令を!!》
「馬鹿なッ!!!」
そんな事ができるかッ。ハヤセは機体を殴れない代わりに目一杯に怒鳴りつけた。
「撤退はない!! こいつを墜とす!! 撃ちかけろッ!!!」
《しかしもう、全軍》
「うるさいッ!!!」
ダダダダダダダ
銃の乱射を、その白い機体は器用にかわしていく。
なぜこんなふうに動かせるのか?
やはりこいつは、神なのか?
「神などいないッ!!!」
――総崩れです!! ハヤセ副長!!
――ご決断をッ!!!
脳裏に響くのは、あの日の声。
【天賦】と雌雄を決した、あの日。
配下の者達の叫び声。
あの日とかぶる。蘇る。
悪夢。
そして今あるのは現実。
《ハヤセ副長、離脱して体制をッ》
「……おめでたい連中だ」
思わず笑った。
そんな事、どの道無理。
こいつは。俺たちを全員ここで始末するつもりだ。
一人として逃がさない。
「悪魔め」
だから。やるしかないんだ。
生き残るためには、未来を刻むためには、願いを勝ち得るためには。
「やるしかないんだッッ!!!!」
――ひねり込み、角度浅めに。
そこから右へ突き上げる。【空(ku_u)】の反応は早い。逃げる逃げる。
ハヤセは連射する。その弾は【空(ku_u)】を捉える事はできない。
だが。
丁度そこにいた、【白虎】の機体を捉える事はできる。
その虎が操縦を失いもがけば。
〝彼〟の進路を妨害する事くらいは。
(いいぞ)
そこで右に切れ。
そうすれば〝彼〟の進路は。
――捉えた。
ダダダダダダダダダダダ
その連射に。
砕かれ舞う白い残骸は。まるで。
小さな、雪のようで。
「……」
歌う。
今日二度目の被弾。
塗装が飛んだだけ。胴体には入っていない。
だが。
「……」
彼女は少し目を伏せ、また、メロディーを口ずさんだ。
バックミラーの向こうからは、【虎】が牙を立てて襲い掛かってくる。
1機ではない、四方八方。襲い掛かってくる【虎】は、たった1つの目的を果たすために。
――生き残るために。
ここで、彼女を食らい潰して。その先にある未来を願っている。
信念こもるその弾をかわし、避け。
天高く、舞いあがる。
上昇への抵抗。だがその機体には関係ない。誰もが追いかけようと翼を立てるが、容易ではない。
一団から抜け出し、遥かなる上空へ。
(空が見たい)
青い空が見たい。
だけど空は雲が覆い隠している。
随分高い雲だ。
雪雲を突き抜けても、その向こうにもまだ、雲がある。
見えない。
ねぇ、どうして?
問いかけても、答える声もない。
彼女は初めて感じた。
ああ、私は1人だと。
この空において、私はたった1人。
仲間もいない。守る翼も、守られる翼も。
何もない。
1人。
ドドドド
操縦桿は動かさなかった。勝手に弾は、見当違いの方向へ走って行った。
(1人)
では、ない。
恵がいる。そして――。
(あの人だっている……)
だが、涙が出る。
何かがこみ上げてくる。
(雪になりたい)
消えてしまいたい。
だがその前に、今は。
空が見たい。
青が見たい。
あの色は自分を包んでくれる。
そして許してくれる。
この、業深き手を。魂を。
けれど拒む事なくいてくれる。
あの色が見たい。
巨大なあの空の、あの青い、無限の。
――目の前に、【虎】が躍り出る。
何機も。
その双眸に見つめられ、一瞬彼女は固まった。
空戦開始からここまで30分。
初めて彼女が見せた、タイムラグ。
捉えるならばこのタイミングしか。
彼らにチャンスは、なかった。
だが、次の瞬間彼女が見たのは。虎の双眸ではなかった。
青。
視界を覆ったのは、空の青。
否。
空の青を映した機体。
胴体に七ツの星を抱く、
――聖 瑛己のその機体。
ドドドドドドドド
吹き抜ける、風のごとく。
下から突き上げるようにその青い機体は【白虎】と【空(ku_u)】の間を突き抜けた。
空気が変わる。歯車が変わる。それにより【虎】が散る。【空(ku_u)】目掛けて放たれるはずだった弾が、淡く、方向をたがえて飛んで行く。白い鳥はそれをかわし上へと走る。
「追えッ!!」
ハヤセは叫んだ。
(あの青は)
ここに来る前、報告にもあった。空賊連合の先行部隊を撃破した、『蒼国』空軍。
確かその名は……と、胴体に描かれた星の模様を見、ハヤセは眉をしかめた。
「『七ツ』」
思いをめぐらせる。
ここにこの機体がいるという事は。
(〝ルー〟は)
「全機命令。その青を潰せ」
たった1機でここに現れたとは思えない。そうなれば。
後ろに続いているのは。
「青、【空(ku_u)】撃破後、予定進路変更。一気に南下。このまま当部隊は『黒』へ走る」
――予想以上に、ここの空賊連中は使えなかった。
数の暴力、世間にはそんな言葉すらあるというのに。
(盾はおろか、時間稼ぎすらできなかったか)
「時間はないぞ!! 一気に畳み掛けろ!!」
言いながら銃口を轟かす。
総攻撃が始まる。
青の機体へ一度に複数の銃口が。
光を放つ。
点と点、結びつけるその直線は。
破滅への導火線。
ドドドドドドドド
青の機体はそれを下へ逃げる。
しかし数が多すぎる。逃げ切れるものではない。胴体の一部に穴が開く。煙が空に残痕として残り。
だが右から斜めにひねり込み、【虎】の一機に撃ち込みをかける。
その脇腹はがら空きだ。
そこに狙い定めた何機もの【虎】。銃口から弾がまた、放射になって飛び立たんとしたその刹那。
ダダダダダダダ
横合いから白い鳥が切り込み、その間に割って入った。
彼女の連撃は火を呼ぶ。
「何で、」
呟きながら、彼女はその青い機体を振り返った。
(撃たれてる)
青い機体の左のエルロンは、
(もうもたない)
音を聞くだけでわかる。深手を負っている。
なのになぜ、そんな翼でここに。
こんな空に。
ここは、
「私が」
1人ですべて、終わらせるために。そのためだけに。
「あなたは」
関係ないはずなのに。
なのになぜいる?
空に星を抱く機体。
あの機体、そしてあの飛行。
「何で」
そこに乗っているのは恐らく。
脳裏に浮かぶ、あの瞳。
強く、まっすぐな目をしたあの青年。
聖 瑛己。
「何で、あなたが」
銃射が青の機体を向く。それを感じ、彼女は顔を歪めた。
ドドドドドドドドド
連射から、アクセルを踏み込む。
当たる、当たらないを構ってはいられない。
とにかく、注意を引かなければいけない。
「その人は、」
関係ない。関係ないから。
あなた達の相手は、私1人だから。
――青い機体が上空にひねる。
それを見て、彼女は思わず叫んだ。
そのひねりはダメ。風が抵抗する。
「右切ってッ!!!」
羽根が追いつかない。
(千切れる)
金属の軋みが、この風とプロペラ音の中にも聞こえてきた。
そこへ、明後日から現れた【虎】が、4方向から。
「ッ!!!」
銃撃を。
「逃げて――――ッッッ!!!!!!!!」
ドドドドドドド―――――――。
《青、撃墜》
《パイロット、脱出確認》
「よし」
下にあるのは、だだっ広い小麦畑。
「念のために乗り手も殺せ。残りの部隊は白を」
人には羽根は生えていない。
パラシュートさえ撃ってしまえばもう後は、引力が地面に吸い込んでくれるだろう。
命を。
死の懐へ。
グズグズしている暇はない。後はこの白い機体を潰して『黒』へ。こうなったらもう、残った部隊だけでいい、そのまま『黒』へ亡命を。
そうすれば――そう思ったその刹那。
ハヤセはハッと顔を上げた。
(空気が)
上空には雲が。太陽は出ない。
天候に変化はない。
だが。
(風が変わった)
切り裂くようなこの感触は。
殺気。
――彼女はギアを切り替える。
それは、普段決して使う事ない最終の。
4番目のギア。
そこから足元に隠れるもう一つの、射撃用レバーに手をかける。
その眼光は。
「――」
アクセル踏み込む。エンジンが吹く。
そのマフラーから、紅蓮の光が飛び立つ。
ドドドドド
【虎】の射撃はもう追いつかない。
そういう次元のスピードではない。
足元レバーを押し倒す。
放たれたのは、あまりに重い弾。
このスピードと重量が加算に加算を呼び込んで。
撃たれた機体は。
音を立てて飛び散る。だがそれは、爆破なんて生ぬるい言葉では追いつかない。
閃光、木っ端、白き光と赤い熱気と、怒りと悲しみと絶望と粉塵の。
大爆発。
「なッ」
目の当たりにした【虎】の面々は、その場で凍りついた。
「まさか、一撃で」
あんな、弾が。
――だが、誰にも、凍りつくような暇もないはずなのだ。
彼女は次の機体を狙う。純白の機体から放たれるその弾は、すべての装甲を撃ち砕く、
流天の光。
だがその力、あまりにも強大ゆえに。
通常、使う事はない。
普通の機体では、この弾の前にはあまりにも無力。こういう爆発が起こるから。
轟く、神の怒り。
(嫌)
こんな事、嫌。
でももっと嫌なのは。
「早く散ってッ……!!」
放つ。そしてまた空に赤い閃光が飛び散った。
「もう行って………ッッッ!!!」
見れば、パラシュートが風の影響を受けて流されている。
彼女は目を細めた。
「早くッ……」
もう、どうでもいい。
全機撃墜、その命令もどうでもいい。
今はもう。
一刻も早く。
(あの人を)
墜ちていく彼を、放って置けないから。だから。
「行って……お願いだからッ………!」
《ハヤセ副長!! 撤退命令をッ!!》
誰かが叫んだ。鼻で笑ってやりたい。
しかしハヤセの顔は固まったままでいる。
《副長!! テギ様を1人にするおつもりですか!!》
誰が言ったものか、その言葉。
殺してやりたい。だが、それが決定打になった。
「………」
唇をかみ締める。血が滴る。
また逃げるのか? あの時のように?
だが、相手が悪すぎる。
――これもまた、あの時と同じように?
数秒後。渋々、苦渋と共に、ハヤセは残った【白虎】へ向け撤退を命じる。
(おのれ、いつか)
空戦開始時150あった機体が、この時点で残っていたのは。
38機。
背を向ける【白虎】の群集を、彼女は追いかけなかった。
去っていくその姿を眺め、深く息を吐く。
初めて、命令を違えた。
淡く広がるその罪悪感よりも。
彼女は操縦桿を切り返す。
行かなければならない所がある。