『竜狩り士(Dragon_killer)』-1-
空を見ながら、瑛己は走った。
基地に続く砂利の一本道を外れ、ザワザワとわななく草原に飛び込む。
被弾した飛空艇のエンジン音が、いよいよゴォォと重く響いた。
高度はかなり落ちている。
瑛己はふと足を止め、空を仰いだ。
複葉機の上と下、2つの翼がフラリと左右に揺れ動く。
瑛己はゴクリと唾を飲み込んだ。
飛空艇は、基地に着陸しようとしている。
だが……無理だ、瑛己は思った。
スピードが落ちていない。このまま基地に降りたら……衝撃にギアが耐え切れない。
地面と激突する。
乗り手もそう思ったらしい。機体を少し上向けると、そのまま滑走路を突き抜けた。
ゴォォォ
低重音を響かせて、飛空艇は基地を越え、そして瑛己の頭上を横切った。
間近に見たその艇影に、瑛己はその姿を追いかけ走り出した。
「兵庫おじさ……ッ!!」
だがそれは、瑛己が再び走り出してすぐの事だった。
グラリと翼が揺れたと思った途端。一つ、火が散った。
そして次にズドンと翼が爆破した。
それが最後。機体は空で、花と散った。
瑛己はゆっくりと立ち止まった。
空が煙に黒く染まる。
だが残骸が降りしきるその中に、キラリと光る何かを見た。
そしてパッと開いた、水色のパラシュートと。
ブンブン手を振る、誰かさんの姿を―――。
「……まったく」
瑛己は地面を蹴飛ばした。
そして、そのパラシュートの元へと、全速力でダッシュした。
その顔には確かに、安堵の笑みが浮かんでいた。
4
「―――ッ!! 痛タタタッ!! おーい、瑛己―、もーちょっと優しくしてくれや」
情けない声を上げる兵庫に、瑛己は仏頂面で消毒液を塗りたくった。
きっと痛いだろうと瑛己は思った。いや、ひょっとしたら物凄く痛いのかもしれない。
だが、瑛己はそれで手加減するつもりはなかった……大きく溜め息を吐くと、問答無用に薬をベトベトに塗り、包帯をギュウギュウと巻いた。
それに彼は悲鳴を上げるが、それが妙に嘘っぽく聴こえ、瑛己は手を緩めなかった。
「ひでぇ……お前いつからそんな、問答無用な性格になったんだ……?」
「磐木隊長の所為だよ」
完了の印、最後に一発叩こうとして。さすがにそれは嫌だったらしい兵庫が、怪我人らしからぬ俊敏な動きを見せた。
「磐木か……ちくしょー、後で殴ってやる。俺のかわいい瑛己を、よくもこんな鬼のような冷血漢の、ポンポコリンにしたな!」
「……ポンポコリンで、悪かったね」
瑛己は散らかした医務室を見回し、ふぅと大きく息を吸い込んだ。
そして愛しそうに左腕を摩る目の前の人物を見て、その息は全部、溜め息に変える事になった。
彼の名は、原田 兵庫(harada_hyougo)。
歳は今年で45歳だが、童顔と柔らかな顔立ちから、いっていてもせいぜい30後半にしか見えない。ボサボサと揺れる猫っ毛は薄く刈り上げられ、鼻の上に丸い小さな眼鏡をチョンと引っ掛けていた。
穏やかな優しい目。だが、この目が時折少年のようにキラキラと輝く事を瑛己は知っている。
瑛己にとって兵庫は、兄のような存在だった。
そして何だかんだ言っても、瑛己は兵庫をとても慕っていた。大好きだったのである。
「まったく、人を心配させておいて」
それだけに、瑛己は兵庫を睨みつけた。
艇影を見て彼はすぐに、それが兵庫の飛空艇だとわかった。
爆破の瞬間など、どれだけショックだったかわからない。だが、兵庫は間一髪脱出していた。
それはいい。
だが人を散々心配させておいて、駆けつけた瑛己に兵庫はこう言ったのである。
「よっ、瑛己―! ハッハッハ、相変わらずクソ真面目な顔してんなぁ」
「……」
瑛己はその瞬間、心配などするんじゃなかったと思った。
幸い兵庫の怪我は、左腕と左脚に軽く火傷しただけですんだ。
それから放っておこうかとも思ったが……それもできず。仕方なく、手当のために基地に戻った。
基地は、突然現れた飛空艇とその爆破に、ひっくり返ったようにパニックになっていた。そのため兵庫のたっての要望で、できる限り人目につきにくい所を選び、どうにか医務室にたどり着いたのである。
2人がきた時、医務室には誰もいなかった。
よって不承不承、瑛己が、兵庫の傷の手当てをする事になったのだが……。
瑛己は薬を棚に戻しながら、ふと兵庫を振り返った。
「……おじさん、磐木隊長を知ってるの?」
すると兵庫は、ハッハッハと大きく笑った。
「あの磐木がタイチョーねぇ? 知ってるも何も、あいつの初フライトは、俺が補佐しましたよー?」
「え」
思ってもみなかった言葉を聞き、瑛己は目を丸くした。
兵庫は元・空軍のパイロットだった。
12年前、ある事件をきっかけに空軍を退役。今では〝自称・郵便屋さん〟となったが、今でも空軍に顔は広い。
「そりゃもう、ひでぇ飛行でさぁ? 2人乗りの『葛雲』で出たんだけど……俺、途中で酔っちまって。下ろせーって言ったら、自分は着陸が苦手なので上手くできるかわかりません、とか言い出すわけ。俺はあの時ほど、今死んだら、くっだらねーよなぁと思った事はなかったね」
「……」
瑛己は苦笑した。あの磐木隊長が初フライトで、そんな事があったとは……。
しかし……待てよ、それじゃぁ……瑛己はハッと目を見開き、兵庫を見た。
兵庫ははにかみながら笑うと、「あー、そういえば」
「俺らの前飛んでたのは、ハルだったような気がする」
ハル。その言葉に、瑛己はピタリと手を止めた。
原田 兵庫の口から「ハル」という言葉が出た時。それは、たった1人の人物の事を指す。
「……父さん……」
聖 晴高(hijiri_harutaka)。
兵庫は胸元から葉巻を取り出すと、グルグルに巻かれた左腕で器用に火を灯した。「なんつーか」
「正直、俺もびっくりしたよ……お前がここに異動だっつって聞いた時は」
「……」
それは俺だって同じだよ、瑛己はふっと目をそらした。
『湊』空軍基地。その名前は、瑛己にとって他の基地とは違う意味合いを持つ。
ここはかつて、自分の父が飛び、
―――消えていった場所だから。
「変わってねーなぁ、この医務室も。ほんと、俺なんかしょっちゅう出入りしてたって。無茶ばっかしてたもんなぁ」
感慨深げに部屋を見回すと、兵庫は葉巻を吹かした。
ここへも、赴任したばかりの瑛己は場所どころか存在も知らなかった。兵庫が瑛己を案内したようなものだった。
「懐かしいな」
「……そう?」
「ああ」
瑛己は兵庫の横顔を見た。
その瞳には、なんとも言えない光が灯っていた。
懐かしい、楽しかった思い出、辛かった思い出、色々な出来事……ここで起ったすべての事が、今、その瞳に映っているのだろう。
兵庫おじさんはここで、何を見て、何を感じてきたんだろうかと、瑛己は思った。
そして12年前、その空で。一体何を見たのか……。
父が消えたその日、その時。兵庫はそこにいたのだと言う。
その後すぐ、空軍を退いた。そして今、その空を。
何を思って飛んでいるのか……。
「さっき」
瑛己はふっと思いついたように言った。「父さんを知っているって人に会った」
「……ほぉ?」
兵庫は目に浮かんでいた光景を消すように、一つゆっくりと瞬きをすると、瑛己を見た。
「『海雲亭』」
「海月か」
「……知ってるの?」
すると、兵庫はハッハッハと大きく笑った。「知ってるもなにも」
「常連。ハルと2人、毎日のように行ったからなぁ……今時、あいつの事を知ってるなんて言う女ときたら、海月くらいしかいないって」
「……俺、女なんて言ってない」
「バーカ。顔に書いてあるぜ? 何であの女の人、父さんの事を知っていたんだろう? って。まさか、よからぬ関係だったんじゃぁないか!? ってな」
「……」
瑛己はとてつもなく嫌そうな顔をしたが、兵庫は「安心しろ」と呟いた。
「ハルに憧れる女は結構いたけどな……結局、あいつは咲ちゃんだけだった。んで、お前の事を、何より愛していた」
「……」
……そんな事、別に聞きたくなかったのに。
あの時瑛己は9歳になったばかりだった。
だけど留守勝ちだった父の事など、よく、覚えていない。
だが……兵庫と、そして母に聞かされる「父」という存在の事。
けれど俺は……。思った言葉を、寸前で飲み込んだ。
「ところで、なぁ、瑛己」
ふと、兵庫が渋い声で言った。「さっきからず――っと気になっていたんだが」
「お前、どうして俺の飛空艇が、あんなふうになったのか……訊かないんだ?」
「……」
瑛己はギクリと顔をしかめた。
確かに。気にならないはずがない。
兵庫は元・空軍パイロットだ。それも、腕は悪くない。
それがあんな状態になった。
一番最初に訊きたい事だった。どうしたの? 誰にやられたの!? と。
だが瑛己には、訊けない理由があった。
「……聞きたくない」
「何で?」
「……飛にまた、〝運命の女神に惚れられてる〟って言われる」
つい昨日、輸送艇の護衛から帰ってきたばかりなのだ。
訊けばまた、何か厄介な事に巻き込まれるような気がして……わざとその話題を避けていた瑛己だった。
だが、兵庫はそんな瑛己の様子に小首を傾げ、呟いた。「聞けよ、お前も人事じゃないんだから」
「〝砂海〟で、ちっと横を通ったばかりに絡まれた……【蛇】の団体さんに」
瑛己は耳を覆いたい心境になった。頼むから、もうそれ以上言わないでくれ。
だが彼が本当に耳を塞ごうとする間際、兵庫が言った言葉に。瑛己はついに、そうする事ができなくなった。
「瑛己が『湊』にいるってんで、会いに行こうと走らせてたら―――空(ku_u)一機を取り囲む、20の【海蛇】ご一行様に。鉢合わせしちまってさぁ」
「―――」
瑛己は確かに、運命の女神がにこやかに微笑むのを見たような気がした。
「空(ku_u)が……20の、【蛇】……?」
【海蛇】。〝砂海〟を拠点とする、黄土色の空賊集団だ。
つい一週間ほど前、赴任の日。瑛己も彼らには遭遇している……その時の事を忘れてしまうには、まだあまりにも時間は経っていない。
あの時、3機の【海蛇】と対面した瑛己。だが、もしもあそこに空(ku_u)が現れ、助けられなかったら。間違いなく、自分は海の藻屑になっていただろうと瑛己は思った。
不意打ちだったとは言え、確かに空(ku_u)は3機の飛空艇を難なく墜とした。
だが、今度は桁が違う。20……!
絶句する瑛己を見て、兵庫は何を思ったのかニヤリと笑った。彼はとにかく、この表情の少ない青年が顔色を変えるのを見るのが好きなのである。
「それで……状勢は。空(ku_u)は……?」
瑛己の中で何かが、ドクンと跳ねた。
「さて。俺ものんびり観賞している余裕はなかった。一発撃ったら、途端に軍勢が押し寄せてきたからな。逃げるので手一杯」
それに、と兵庫は葉巻を噛んだ。
「逃げる途中、雲の切れ端に嫌なモンを見た」
瑛己は眉をしかめた。
兵庫は腕を組むと、適当に髪を掻いた。
「セピアの飛空艇……その真ん中に」
その時。ガチャリと医務室の扉が開いた。
瑛己と兵庫はハッと戸口を見た。
そこには、飛が立っていた。
「お前……」言いかけた瑛己を制し、飛は、兵庫に向かって訊いた。
「セピアの飛空艇、真ん中に、―――ド・でかい、キスマーク」
兵庫は一瞬キョトンとしたが、すぐに「ああ」と頷いた。
途端、飛の顔色が変わった。
「【竜狩り士】、山岡 篤(yamaoka_atusi)……!」
◇ ◇ ◇
被弾した兵庫の飛空艇のエンジン音に目を覚ました飛(サイレンの音じゃないというのが、なんとも彼らしい)。
すぐさま宿舎を飛び出し、360度空を見回した途端、それが爆破するのを見た。
何事や!? 騒ぎ立てる連中には混ざらず、その足で爆破現場に向かおうとした。
だがその途中、瑛己と兵庫に出会った。
兵庫の様子からして、あの飛空艇の乗り手だという事はすぐにわかった。
それから、こっそりと後をつけたが……決して、立ち聞きするつもりはなかったと彼は言った。「話し掛けるきっかけがなかっただけや」と飛は不必要に連呼した。
瑛己は、思いっきり嫌そうな顔をした。
「そないな事よりも!」
飛は(まさか罪悪感からか)少し顔を赤らめ、兵庫に向かって身を乗り出した。
「おっちゃん、ホンマに見たんか? その飛空艇……本当に、そうだったんか!?」
兵庫は突然の乱入者に気を悪くした様子もなく、むしろ面白そうに目を輝かせた。
「間違いない。山岡だな。それもあの様子からすると、向かった先は」
恐らく、空(ku_u)……。瑛己は眉をしかめた。
【竜狩り士】、山岡 篤。
瑛己もよく知っている。フリーの〝渡り鳥〟で、その飛行技術は並の者じゃないという。
そして彼が【竜狩り士】と呼ばれる所以は。
彼は様々な仕事を請負う……だが、専門にしているのだ―――空軍を、墜とす事を。
空軍の戦闘機『翼竜』。それを撃墜する事を、彼は仕事……いや、〝趣味〟にしているのだ。
それがゆえに人は彼を【竜狩り士】と呼ぶ。
「空(ku_u)を狙うだろうか」
瑛己の問いに兵庫は苦笑した。「そりゃ、間違いないだろ」
「空(ku_u)の翼は、表の世界も裏の世界も、この空では一級の価値がある」
墜とした者は空の歴史に名が残るだろうよ。冗談とも本気ともつかない言い方でそう言うと、兵庫は葉巻を吹かした。
瑛己の中で、再び、何かがドクンと跳ねた。
20の【海蛇】。
そして―――【竜狩り士】。
何かを考えるまでなく、瑛己はスッと立ち上がった。
「俺」
兵庫はジッと瑛己を見つめた。
少し俯いて、何かを考えている瑛己。
その姿に、思わず苦笑がもれてしまう。
「あー、俺は、こんな腕だし……それに、ちょっとここに用があるから」
瑛己はハッと兵庫を見た。
「期待すんなー?」
―――すぐに追いかける。
「……ああ」
瑛己は大きく頷くと、医務室を出た。
格納庫に向かって走る瑛己の横に、不意に、誰かが並んだ。
「待て。俺も行く」
飛だった。
「……お前」
振り向くと、飛は呆れた顔して走っていた。
「お前一人行った所で、【海蛇】20と山岡相手に何するんや? 俺よかよっぽど、おまんの方が無茶やわ」
「……」
せやけど。飛は片方の眉を上げると、明後日を睨むように見つめた。
「俺も、山岡には借りがあってな」
絶対ゆずれん、借りって奴がな。
「……」
瑛己はしばらく仏頂面で飛の横顔を見ていたが、ふっと、苦笑を浮べた。
「……悪い」
「阿呆」
瑛己と飛、喧騒静まらぬ基地を2人、駈けた。
2012.5.16.表現変更