『白い残痕(Snowy_footprint)』 -2-
「……」
布団に入ってわずか数時間後の事である。
瑛己はいよいよたまらなくなり、目を開けた。
……寒い。
きついとは聞いていた。身にこたえるとは聞いていた。だがまさか、ここまでだとは。
できる限りの重装備をして布団にもぐったはずなのに。それでも冷気が抑えられない。とても寝付けない。
枕元に置いておいた時計を見た。午前2時である。
「……」
暗い室内で瑛己はため息を吐いた。
どうやら自分は、この国の気候を甘くみていたのかもしれない。眠るために必要な何かが、決定的に欠けている気がする。
飛行服の上着はすでに着込んでいる。
……やはり毛糸のパンツを送ってもらうべきなのか……夜中一人で真剣に悩む聖 瑛己である。
「……」
とりあえず珈琲が飲みたいと思った。
自動販売機はなかっただろうか? そう思い、瑛己はノロノロと布団から這い出した。
ホットがいい。できれば舌が焼け付くほどの。そう思いながら部屋を後にする。
◇
キシワギ大佐の部屋を出た瑛己たちは、すぐに、この数日寝泊りをする事になるこの場所へと案内された。
大佐の執務室からそれほど離れていない別館。そこに用意されていた部屋は、各完全に個室となっていた。
しかもそれぞれにバストイレもついている。内部もそれなりに広い。
豪華ホテルとは一緒にならないものの、充分にくつろげる。勿体無いくらいの広さだった。
白河は瑛己たちの部屋の並びとは別の所へと案内された。地位を考えれば、当然の事である。
「よいのですか? 我々一兵卒に、このような個室を」
磐木が念のために、案内役のアガツに聞く。
「いえ。こちらこそこのような部屋しかご用意できず申し訳ありません」
クラ・アガツはむしろ彼らに申し訳なさそうに頭を下げた。
「客人には最高のもてなしを。それが我『ビスタチオ』の民の慣習、しいてはドゥーラ神の教えでございます」
そう言ってニコリと笑ったこの女性。瑛己でさえも一瞬、その神々しさに見惚れたほどである。
夜食は彼女の案内のもと基地内にある食堂で済ませ、そのまま各自部屋にて就寝となった。
その際、夜の街に繰りだそうとする新を磐木が念を押して止めたのは言うまでもない。
「今日は基地から一歩も出るな。絶対だ!!」
だが、今日は磐木が言うまでもなく。一歩建物から出れば誰もが足を止めただろう。
夕方から降り始めた雪が豪雪となり、降り注いでいたためである。
『蒼』も雪は降る。まして瑛己の故郷は山の麓である。雪は慣れている。
それでも目の当たりにした物は、今まで見た事もないほどのものだった。
大きさがまず違う。瑛己が実家で見た雪が、これほど大きいと思った事はない。塊である。それが音なく無限に落ちて、空気、そして世界を斑に染める様は、ある種恐ろしい物がある。
夜にかけ、そこに風が加わった。もうそうなると、一歩先も見えない状況である。
疲れもあって、汗だけ流してすぐに瑛己は布団に潜り込んだ。
……だが、眠れたと思ったのは一瞬の事。
寒さに何度も目を覚まし、最終的には、今である。
布団から出た瑛己は明らかに眉間を寄せた。
床は一面カーペットが敷き詰められている。そのおかげでこれでも多少は冷えは抑えられているのだろう。
窓辺を見る。瑛己は嘆息した。カーテンを閉め忘れて寝てしまった。これでは寒いに決まってる。
分厚いカーテンを引く前に見れば、窓は真っ白だった。
開けて外の様子を伺う気にはなれず、瑛己は、一気にカーテンを閉めた。そして部屋を出た。
外はなお一層寒かった。
「……」
廊下にも敷かれている絨毯が、足音を消す。ようやく瑛己は合点がいく。建物のどこにも廊下にまでこのような絨毯が敷き詰められていたのは、寒さ対策のためであったのか。
廊下に窓がないのも、同様の理由だろう。
灯りはついているが、もちろん、こんな時間に歩いている者などいない。
どこかに自動販売機はなかっただろうか? そもそもここは『蒼』ではない。そういう物が存在するのだろうか? そう思いながら瑛己は辺りを伺った。
珈琲じゃなくてもいい。何でもいい。温かければこの際何でも。
いっそ食堂に行ってみようか? しかし夜中の2時に開いているとはさすがに思えなかった。
そんな最中だった。
「……」
前方にある渡り廊下になった場所に、よく知る男が立っていた。
風迫 ジンである。
夜中の2時にこんな場所で、彼は煙草を吹かしていた。
そして彼もまた、気配を察し瑛己を振り返った。
「……お前か」
「副長」
「何をしてる」
「……副長こそ」
「俺は、見ての通りだ」
と、彼は煙をくゆらせた。
その姿を見て瑛己は苦笑した。
体にまとわりつく冷気の一端が、ふっと少しだけ抜けたような感覚を覚えた。
「何か温かい物が飲みたくて」
「寒くて眠れんか」
「……はい」
嘘を付く理由も、虚勢を張る理由もない。瑛己は素直に頷いた。
「この下に自販機はあったが……ホットがあったかどうか」
「わかりました。見に行ってみます」
ジンは無言で虚空に視線を戻す。
その視線の先には、今来た道で唯一の、大きな窓がしつらえてあった。
ただそこに見えるのは夜の雪景色というよりもむしろ、反射して映った瑛己とジンの姿。
「……」
「……」
瑛己は思う。327飛空隊に配属されて早8ヶ月あまり。
事件だけなら色々起きた。怪我もたくさんしてきた。渡った空戦の数は知れず。
だがそれを共に乗り越えてきた327飛空隊の面々。まだ知らない事は多い。
磐木の事も小暮の事新の事も――そしてこの副隊長・風迫 ジンの事も。
いや、瑛己は目を伏せる。
普段よく一緒にいる秀一が女だったという事でさえ、ついこの前知ったばかりだ。
飛だって、あの剣幕とは別の一端を心に持っている。
「……」
そう思って、瑛己は心の奥底で小さく苦笑をした。
隊員の事をわからないと言う前に、自分こそ、誰に理解されているとも思えない。
語らないのは自分も同じだ。
いや、もっとなのかもしれない。
昔友人に言われた言葉を思い出す。瑛己には見えない〝壁〟がある。確かだと、瑛己は口の端を歪ませた。
「副長」
「何だ」
「……」
何となく声を掛けた。だが言葉が続かず、瑛己は自分で言っておいて困った。
「雪が、凄いですね」
ようやく搾り出した言葉はそれだった。
「そうだな」
答えた声は、どこかつまらなさそうにも聞こえた。
瑛己は小さくため息を吐き、一つ頭を下げてジンの横を抜けようとした。
その時不意に「聖」。
振り返るとそこに、パッと何かを放られた。
慌てて掴むと。
カイロだった。
そのままジンは煙草を消し、瑛己に背を向けた。
その背中に瑛己は「ありがとうございます」と頭を下げた。
ジンはそれに特に返事をするわけでもなく、自分の部屋へと帰っていった。
朝まで、そのぬくもりは消えなかった。
◇
翌日。
食堂で顔を合わせた327飛空隊の面々は、一様に同じような顔をしていた。
「瑛己さん、眠れました?」
秀一に聞かれ、瑛己は小さく首を横に振った。「いや」
「夜があんなに寒いなんて……僕、完全に油断してました。もっともっと防寒具持ってこればよかった」
肩を震わせる秀一を見て、何となく瑛己は笑いたい衝動を覚えた。もちろん本当に表情に出るほどではなかったが。
「飛は?」
「あれ? そういやどこ行ったんだろう? さっきまでいたのに?」
朝、彼らに用意されていたのはスープとパン、そしてサラダ。
「うめーっ! このスープ、マジうまい」
味付けは『蒼』より少し濃い目だったが、その温かさからか、新が涙をこぼしながらスープをすすっている。
「ああ、温かいっていいな……凍ってた内臓が、溶ける感じがする」
「内臓が凍ったら、死んでるだろ」
「だから、気分だって気分」
小暮はいつもと同じ平然とした顔である。
同じくジンも無表情で煙草を吹かしている。
そんな2人の様子に、あの磐木でさえ、呆れたような表情を浮かべていた。彼も昨日の夜の寒さは身にこたえたらしい。
「白河総監はどうされたんですか?」
小暮の問いに、磐木は唸りながら答えた。
「朝一番に、入国手続きの書類を持って行くと言っておられた」
「そんなの、朝メシの後でいいいだろうに」
「総監は律儀だからなあ」
「済み次第合流するとの事だ」
「そんで今日の予定は?」
「この後キシワギ大佐から、今後の詳しい事を聞く。朝食後、集合は0900。遅れるなよ」
「了解」
「このスープおかわり自由かな? もう一杯欲しい。ジンさんもどうです?」
「俺はいい」
「新、行くなら俺の分も頼む」
「んもー、隊長は年寄りだから、動くのが億劫なんですね」
「何だと!?」
「うわっ、隊長、ほら、『ビスタチオ』の軍兵さんが見てる見てる! ここで暴れて、『蒼』の人間は野蛮人だと思われたら困りますよ!? 国際問題にもなっちゃうかも!?」
「うむむ……」
会話が進む中、秀一が1人落ち着かない。
「瑛己さん、飛、探した方がいいかな」
「そのうちくるだろ」
「でも」
迷子になってるかも――と言いかけたその時。
問題のその男は食堂に現れた。
秀一が一瞬顔を明るくするものの、すぐに訝しげな顔をする。「飛?」
現れたその男は、なぜか顔面蒼白であった。
「どうしたの?」
寒さで凍ったか? と瑛己はもちろん他の面々は一同に思った。だが。
「ジンさん、大変ですわ」
「……どうした」
「煙草、あらへん」
「……?」
「煙草の自販機に、マルボロがあらへん」
「……」
「ど、どないしましょう! あれがないと俺、生きていかれへん!」
「……ヴァージニアスリムはあるんだろうな?」
「さあ、見てへんけど」
「……」
ジンが無言で立ち上がる。そのまま確認に向かった。
ガックリと項垂れ、瑛己の隣に座る飛に、間髪入れずに秀一が言った。
「この機会に禁煙しなよ」
この時、瑛己には飛の気持ちが痛いほどよくわかった。
彼もまた、夜中に自動販売機で同じ状況に直面したからである。
この基地の自動販売機にはブラックの珈琲はなかった。
あったのはにこやかに笑う牛のイラストが描かれている物で。
しかも、缶ですらない、瓶タイプの物だったのだ――。
◇
「やあ、昨晩はどうでしたか? 『ビスタチオ』最初の夜、よく眠れましたか?」
金髪に碧眼の紳士はあり得ないほどさわやかに微笑んだ。
それに瑛己たち一同、苦々しく口の端を歪める限りである。
「やはり、寒さ厳しいですな」と言ったのは白河だった。「中々寝付けず苦労しました」
「昨日はあれだけの雪でしたからね。仕方がないでしょう」
今日は昨日通された執務室ではない。会議室である。
長机に、キシワギを前に白河と327飛空隊の面々が顔を並べ腰掛けている。
キシワギの背後にアガツもいるが、彼女は立ったまま控えている。
丁度真正面に大きな窓がある。外を見れば今日もまた、小雪がちらついている。しかし昨日のような塊雪ではない。
「我々からすればこの寒さは普通で、むしろ『蒼』の冬など春のように思えてなりませんよ。羨ましい限りです」
「『蒼』にいらっしゃった事が?」
「何度か。仕事ですがね」
ハハハと笑い、そしてキシワギ大佐は「さて」と目を細めた。
「憂慮の件ですが」
「はい」
白河も居住まいを正す。
そして彼らの前にキシワギは、B5までに引き伸ばしてある一枚の写真を置いた。
「それが問題の写真です」
キシワギは目を細めた。
白河がそれを手に取り、彼を一瞥する。そしてそれを、磐木に渡す。
「この写真は先月こちらの特殊機関で撮影した物です。どこからどう流れて、『蒼』に向かったのか。その点は現在調査中なのですが、」
磐木が渋い顔を一層険しくした。眉間のしわの深みが増す。
「写っている3人の人物のうち、1人は【白虎】の幹部として我々が長年マークしていた人物です。そしてその隣にいるフードをかぶった者こそ、【白虎】賊長・テギ(tegi)」
写真はジンの元へ渡る。彼は一瞥だけしてすぐに隣の小暮に渡す。
小暮から新、飛と渡り、睨み凝視され尽くした果てに、瑛己の元へとたどり着いた。
秀一がそっと覗き込む。
「そして最後の1人が誰なのか。それを我々も探っていました。先日連絡をもらうまで、まさか思いも寄りませんでした。『蒼国』で手配中の男だったとは」
白黒だ。そして引き伸ばした事により、多少ぼけてもいる。
フードの者と、長髪の異国人。
上島だとすれば右側に写る男であるが。
瑛己は眉をひそめた。
何とも言えない。それが率直な感想だった。
やはり、瑛己はそれほど上島を知らない。
そして今写っている写真は斜め上からの角度である。顔のすべてが捉えられているわけではない。
口元と、主な輪郭のみ。
だがそれすらも……記憶にある上島よりも、随分細いような気がした。
髪は整えられているが、一般的ゆえに元の髪型との比較はし得ない。着ている背広も、記憶中の何ともかぶらない。
「上島が起こした事件の事はお聞き及びで?」
「ええ。しかしまさかそのような輩がこの地にて【白虎】と通じているとは想像もできず」
「……あなただけではない。我々とて同じです。事件よりもう半年ほどが経ちました。正直言えばもう、上島の命はないものと思っていました」
瑛己は写真を秀一に渡そうとしたが、彼は「大丈夫です」と手を振った。来た道を返す。
「上島とは旧知の仲です。私がまだ飛空兵として隊務に従事していた頃、同じ釜の飯を食った仲でした。もう20年ほどになります」
――あの日、『湊』に襲撃を起こした彼を撃ったのは、瑛己たちだ。
同時に、秀一と白河を除く全員が、夜の海に墜ちた彼を見た。いや正確に言うならば、その機体が墜ちた様を、だ。
あれからどういう経路でこの地まできたのか。
あらゆる点を考慮して、上島が痩せた……元々細身のその体が、さらに細くなっていても仕方がないような気もする。
瑛己は考える。写真の男と、記憶の中の男。
「念のためにもう一度、はっきりさせておきたい」
キシワギは全員を見渡し聞いた。
「『蒼国』政府からは、この人物が上島 昌平であるという見解をいただいた。だが念のため。あなた方の見解はいかに?」
これは上島 昌平か?
瑛己は眉を寄せた。飛は他の面々を見る。新は小暮と視線を合わせ、ジンは最初から明後日を見たままである。
白河すらも表情を険しくする。
だがその中でただ1人。
「間違いないと思われます」
磐木だった。全員が彼を見る。
彼は写真をテーブルに静かに置き、目を伏せた。
「あの人は、そういう笑い方をする」
口元に歪んだ苦笑。
「磐木」
磐木は白河を見ず、小さく頷いた。彼の脳裏に浮かんだのはたった一言。
――これはあの日と同じ顔だ。
12年前のあの日。
後に〝空の果て〟と呼ばれるあの空に直面する前、基地を出る時、自分たちに向けていた笑いは。
こういう顔だった。
磐木は目を閉じた。
「これは上島 昌平です」
とにかく今、特殊チームが調査に向かっている。
その報告を待っている状態なのだとキシワギは言った。
「退屈させて悪いが。しばらく待機で願いたい」
誰もそれに異存はなく。
ただ、あの上島と同じ地に立っているのだという事を……初めて、複雑な思いで実感する瑛己たちであった。
◇
昼過ぎ、一度解散となった。
それから夕方もう一度集合して、『ア・ジャスティ』の街へと向かう事となった。
キシワギが、美味しい店へ案内してくれるとの事だった。
「きましたきました! やーっと夜の街へ繰り出せるぜい」
大喜びした新だったが、直後にクシャミを5連発させて。
「……初日だし、食ったら帰って布団にこもろうかな……」
珍しく気弱な発言が飛んだ。
「街に出るなら、何かいい防寒具ないかな……見たいなー」
秀一は早くも、自分の防寒対策の甘さを何とかしたいらしい。そこは瑛己も同じだったが、こちらは兵庫に連絡するか否かをまだ悩んでいる。
「どちらにしても、夜が楽しみですね」
ニコニコと笑いかけられたジンであったが。
「……」
彼は上の空で、窓の外を見た。
日が落ちるのが早い。
まだまだ夕方までに時間はあるのに。もう、世界を照らす光は弱くなり始めている。
雪はやんだ。この国に着いて初めて、空に雲の切れ間が見えた。
夜にはまた降るな……ジンはそう思った。
煙草に火を点ける。その間にも、隊の者たちは先を歩いて行く。
その背中をぼんやり眺めながら、ジンは1つ吹かした。
「飛びたいのか」
不意に声を掛けられ、ジンが珍しく肩を揺らした。
背後に、磐木が立っていた。
「……」
珍しく動揺を浮かべたジンに、磐木が苦笑する。
「お前の背中が取れるとはな」
「……はは」
ジンがこういうふうに笑う事は滅多にない。
彼は煙草に口付け、もう一度空を見た。
そんな彼を見、磐木はその背中をポンと1つ叩いた。
「上には掛け合っておく。夕方までには戻れよ」
「……」
雪はしばらく降らないだろう。
髪を一つ、掻きあげた。
「……お人よしが」
一つ呟き。歩き出す。
――滑走路へ。