『氷雪の国へ(Vistatio)』-2-
「へぇ、『ビスタチオ』ねぇ」
―――夜。
瑛己は再び、『海雲亭』に顔を出した。
ひとえに、兵庫の様子が気になっての事だった。
磐木と飛同様二日酔いになった兵庫は、結局、瑛己が現れる夕方までずっと寝て過ごしていたらしかった。
「本当に世話が焼けるんだから」
瑛己と兵庫の2人、店の隅にあるテーブルに座っている所に、海月が飲み物を持ってやってくる。コツンと小突かれながらそう言われて、兵庫は苦々しく笑った。
とりあえず乾杯をして、「他の連中は体調、大丈夫なのん? 特に磐木」
「ああ……今日はかなりしんどそうだったよ」
今日は2人、水である。
ごくっと一飲みしてから、兵庫はニヤリと笑った。「だろうなあ」
「あいつ、酒、昔から強くなかったもん。なのに昨日は白河が気を使ってジャンジャン注いでたから。あいつもそれに合わせてジャンジャン飲んでたし。死ぬんじゃないかと思ってた」
「……止めてあげなよ」
「いやそりゃもう、自己責任だろ。それに必死に飲む姿が見てて面白かったし」
ヒドイ元副隊長である。
「けど話戻すけど、『ビスタ』かぁ……もうあっちは真冬だよ? 防寒対策きちんとしとけよ。飛空艇の方も。きちんと装備しとかないと、エンジン凍るから」
「その辺は整備士に任せてるけど」
「ダメダメ。最終チェックは自分でしないと。いざって時に頼りになるのは自分だぞ? 飛空艇の全性能を知り尽くしてこそ、その力を本当に発揮する事ができる。あっちの国の飛空艇と、機械、気象についても調べておいた方がいい。操縦に関してもだ」
「わかった」
「出発はいつよ?」
「まだ正式決定は先になるらしいけど」
「ふーん、一度俺も見に行ってやるよ」
その間にも料理が運ばれてきた。
兵庫は料理そっちのけで、ポケットから葉巻を取り出した。
瑛己はとりあえず手近のサラダを取り皿に分けた。
「しかし」一度葉巻をくゆらせ、兵庫は天井を見ながら呟いた。
「見つかったのか、あいつ……」
「……」
『日嵩』元総監、上島 昌平。
……海に墜としたのは自分たちだ。
あれから数ヶ月。瑛己は、正直もう見つからないと思っていた。
あの時死んだのだと……瑛己は内心思っていた。
(生きていた)
瑛己たちを『日嵩』へと呼び寄せ、昴を使い彼女と共に墜とした。【天賦】の人質にするために。
上島 昌平は【サミダレ】という別の空賊の関係者であったと、あの時小暮が言っていた。
そして今度は【白虎】―――。
「おじさんはあの人と……同僚だったんだよね?」
「……」
兵庫はチラと瑛己を見て、その後静かに目を伏せた。「まあ」
「仲良しさんではなかったがね。隊も違うし。〝身分の差〟的な物もあったし。あいつの父さんは大臣補佐やってたくらいで、いい所のお坊ちゃんだ。田舎もんの俺やハルは一線置かれてたよ。そこ行くと白河は……あいつの父さんは国鉄の役員だったから。それなりに地位もあった。だからこそ、俺たちとつるんでるあいつに、イラっとくるもんがあったんだろうな」
「……そっか」
「昔からやたら張り合ってきてな……隊務や記録、その都度比較してきて、張り合ってくる。俺とハルは、上島は眼中になかった。それでも面倒臭いとは思ってた。白河がいなかったら、何度締め上げようと思ったかわからんかったな。あいつがさ、いちいち上島の事かばって謝るんだもん。仕方なく俺ら、許してたよ」
「……」
「でもな。根は悪い奴じゃなかったよ」
ボソっと言ったその言葉に、瑛己は顔を上げた。
「俺とハルはそう思ってた。うちの隊の他の連中は全員、あいつの事大嫌いだったけどな。俺たち2人は……上島 昌平の弱さを知ってたから。……まぁ、白河の影響があったからかもしれないけどな」
そう言って兵庫は、葉巻を噛んだ。「ただ、磐木はな……」
「? 磐木隊長?」
「あいつは……上島を相当嫌ってたから」
「……」
「あいつはホレ、ハルの信者だろ? だから、突っかかってくる上島が許せない……わかるだろ?」
「ああ……」
「まぁ、言葉にも態度にも出すような奴じゃないから。直接殴りに行くような野暮はしなかったけどな」
―――もし時が経てば。わからなかった。兵庫は少し思う。
もしもあのまま、ハルが〝空の果て〟に消える事なく。
あの日、あのまま帰還して。
あのまま〝ハル〟という道しるべがあって。
その元に磐木がいたならば。
上島も白河も、そのままそこにいたならば。
―――いつか。
あの頃の磐木では、上島には敵わなかった。それを彼自身も理解していた。
だけど彼が、本当に力をつけた時。
(磐木は上島に、立ち向かう)
それは、あの頃兵庫が思っていた事だった。
あの頃上島は、磐木を小物としか見ていなかった。だけど兵庫はもちろん晴高も、違う。
(磐木は越える)
上島も、そして俺たちをも―――。
「瑛己」
「ん?」
「もしも本当に、上島にまた会う事ができたなら。……伝えてくれないか?」
「え?」
言っておきながら、兵庫はパタパタと手を振って笑った。「万が一機会があったら、でいいよ」
「正直あいつに近づかない方がいいとも思う」
「……」
「でももしそんな機会があったなら―――お前の女神が微笑んで、そんな状況に立たされたら」
「……何?」
ガタガタと、隣の席に客が座る。
今日も店内は賑わしい。
その中で兵庫はボソリとその言葉を口にした。
「……わかった。覚えておく」
「ん」
兵庫は2本目に火を点けた。
瞼を伏せたその顔には笑みが浮かんでいた。
瑛己は空が眺めたくなった。
眩しいほどの蒼空を、無性に、眺めたくなった。
◇ ◇ ◇
昨日の今日だ。その夜は早めに引き上げる事にした。
兵庫はしばらく、『海雲亭』で厄介になるようだった。
「瑛己の部屋でもいいんだけど」と、今にも宿舎にきそうだったが、海月がそれを止めた。
「迷惑になるから、やめなさい」
「瑛己が俺の事、迷惑なわけがないだろ? なあ?」
「迷惑だよ」
「(T△T)」
今夜もまた海月によろしく言って店を出た。しかし今日は昨日よりずっと早い。
帰り道、何となく兵庫と海月の顔を思い浮かべる。
「……」
苦笑した。
おじさんももっと、素直になればいいのに。
―――そう思いながら裏口から基地に入り、宿舎へ向かう。
まだ早いので、人の出入りはそれなりにある。
瑛己の部屋は5階にある。階段を上がっていく。
と、部屋の前まで来た所で、
「瑛己!」
呼び止められた。
振り返るとそこに、飛が立っていた。
「何しとるんや。お前、探したやないか」
「あ?」
飛と秀一の部屋は、1つ下の階だ。距離はそれほど遠くない。
「ちょっとおじさんの様子見に」
「行くならそう言え。俺も行ったのに」
「? ……お前体調悪そうだったから」
「水臭いわ、阿呆」
それだけ言って、飛は瑛己の腕を掴んだ。
「明日非番や。今日はうちの部屋で飲み明かすぞ」
「は? お前、昨日の2日酔いがあるだろ」
「いいから! とにかくうちの部屋へこい」
「?????」
わけもわからず、引っ張って行かれる。
「……着替えたいんだけど」
「却下」
瑛己は心底嫌そうな顔をした。
一体何なんだ?
部屋には秀一がいてくつろいでいた。「あ、瑛己さん」
2人の部屋を訪ねるのは初めてではない。何度かきた事はある。
作りはほとんど同じだが、こちらは3人用なだけあって、少しだけ広い。
バス・トイレの間取りも大きさ一緒だ。『湊』の宿舎はその2つが別々なのが嬉しい。
見ると部屋の中央に、カードが散らばってる。
「瑛己さんも一緒にやろ、ポーカー」
「ほれ、座れ瑛己。秀、カード配れ」
「……」
勝手に席を作られ、カードを渡され、横には飲み物が置かれる。ジュースだ。
つまみ用の菓子も渡される。
何だかわけもわからずポーカーを始める事になった。
その後しばらくすると、ゲームに飽きた飛が飛行新聞を広げ始めた。しかし瑛己は秀一にせがまれ、今度はチェスの相手をする事になった。
「瑛己さん強い! 僕じゃとても敵わない! 小暮さん並!」
「……そうか?」
ハハハと笑って、瑛己はチラっと飛を見た。その様子に変化は見られなかった。
それから時計を見て、「ボチボチ部屋に戻るかな……」と言い出した瑛己に。
飛が途端瑛己を、上から押さえ込むようにして引き止めた。「待て」
「お前、今回の作戦、どない思う? 上島総監についてもや」
「は?」
「秀!! 茶ぉー持ってこい!! 瑛己、こっから一晩語り明かすぞ!!」
「お前、今、新聞読んでただろ?」
「もうええんや!!」
「飛ー、飲み物なくなったよー」
「ほんなら、自販機や!! いっちょ買出ししてこい!!」
「仕方ないなあ」
と、玄関へ向かいかけた秀一に。
瑛己は咄嗟、立ち上がった。「待て」
「俺が行く」
「大丈夫ですよ。瑛己さんは飛と話してて」
「いや、お前に重い物を持たせ」
その瞬間。飛の蹴りが見事に瑛己の腹に決まった。
「ごはッ」
「? どうしたの? 瑛己さん?」
「まーた風邪か? 薬ちゃんと飲んだんか? あかん、大丈夫か?」
「ぐほッ、ごほっ……」
「秀、はよ飲み物買ってきたって。こいつ死にそうや」
「うん。ちょっと待ってて」
激しくむせる瑛己の姿に、秀一は慌てて部屋を出て行った。
扉が閉まるなり、飛が大業にため息を吐いた。
そこへ、瑛己はすかさず殴り返した。
「どほっ」
「……誰がっ、風邪だっ……」
「せやかてっ、お前」
殴られた頬を抑えつつ、飛は瑛己の胸倉を掴んだ。
「おまん、今何言おうとしたっ」
「何が」
「秀一に重いもん持たせるのがアレやから、自分が代わりに行くとか言おうとしたやろ」
「……した」
「馬鹿かお前はッ! 男が男をかばうか、普通!!」
「……」
「昼間もや、お前、デコぶったあいつに、顔を大事にしろとか言おうとしたやろ!」
「……した」
「阿呆ッ!! お前、しっかり女やて意識しとるやないかぁぁ!!」
「……」
瑛己はムッと眉を寄せた。
「……そんな事言われたって、やっぱり、気を使うだろ」
「ド阿呆ッ!! 今朝と言うとる事が違うやないかぁぁぁ!!!」
「……っ、仕方ないだろ! やっぱり知った以上は気を使う!!」
「何だとボケ、ジェントルマン気取りやがってぇぇ!!」
バシっと瑛己を投げ放ち、飛はバンと壁を叩いた。「いいか瑛己!!」
「あいつを女や思うなッ!! あいつは男や!! 男だと思え!!」
「しかし」
「あいつは男同然や!! 胸もぺったんこや!! 板や板、何にもあらへん!! ××××はついてへんが、それだけや!!」
「……」
「よもやお前、あいつの裸なんぞ想像しとらへんやろうな!!」
「んなっ!?」
「何度も言うぞ、胸なんぞあらへんからなっ!! このドスケベが!!」
「お前が言うなっ!!!!!!」
瑛己が今度は赤面して掴みかかる番だった。
……こうなるともう、ただの醜い争いである。
「あーもう、今朝お前を欠片でも凄い奴や思った自分が情けないわっ!! 俺のカンドーを返せボケ!!」
「知るかそんなもん!! お前に好かれたって気持ち悪いだけだッ!!」
「言うてへん人の地の文、読むなアホンダラ!!」
殴りあう2人は、それゆえに、気づかなかった。
ドアを開ける音も。
背後から近づく足音も。
その主が思いっきり足を振り上げ。
2人の背中を。
―――蹴飛ばすまでは。
「ごへッ!!」
「ぐはっ!!」
何事かと振り返った2人は、その場で硬直する。氷の国に一足先にたどり着いたかのように。
もちろん立っていたのは、秀一であった。
彼……いや彼女は青いオーラを漂わせ、2人を見下ろしていた。拳を握り締めて。
「あ、は、ははははは」
意味のわからない笑いを飛がこぼした。
「しゅ、しゅぅー。は、早かったなぁ、ははははははははは」
「……」
「え、えーき君。だ、だからね。北国の空賊事情はそういうわけで……じょ、女性空賊もいるくらいなもんよ。男女平等なもんでね。あは、あははははははは……」
「そ、そうなのか……?」
「そうそう。あのね、【白虎】の族長は実は女だって噂もあるくらいなもんでよ」
「それは、怖いな、女」
「うんうん。怖いね」
2人はそっと、秀一を見上げた。
すると彼女はニッコリと微笑んで言った。「ねえ」
「もう一度、殴り飛ばしてもいいかな?」
「……」
「……」
震える声で飛は聞く。「ど、どっちを……?」
「両方」
待て、俺は関係ない。不可抗力だ―――と言う間もなく。
瑛己諸共、2人はゲンコツでぶちのめされた。
「……正直に言ってください瑛己さん。こいつに聞いたんですか? いつ?」
殴られた場所に、買ってきてもらったばかりのジュースを当てながら。瑛己は素直に頷いた。
「……この前の、お前がさらわれた時……」
「待て秀。これには深い深いワケがあるんや」
「……」
「大体秀、お前が悪いんや! あの時、お前時計をブラブラさせとったやろ!! それが落ちとったもんで、あれをこいつが見たんや!! だから話すしか仕方がなくなって。こいつも根掘り葉掘り聞いてくるし」
「……そんなに聞いてない」
「聞いたやないか、秀は女か、胸はあるんか、デカイんかって!」
「――ッ! そこまでは誰も聞いてないだろうがっ」
赤面して瑛己は飛に殴りかかろうとしたが、秀一に睨まれたのでやめた。
代わりに秀一が飛をぶん殴ったので、よしとする。
「……はあ、もう……」
大きくため息を吐いて、秀一はガックリ頭を垂れた。「部屋、防音になってますけどね。外にバタバタ音は聞こえたから。何やってんだって思って入ったら……」
「……」
「……」
「はあ、まぁ、瑛己さんには、機会を見て言おうかなとは思ってたんで」
「……」
「……そか」
「それで、他の人には? 小暮さんとかも?」
瑛己と飛は顔を見合わせた。
「他には誰も言うてない。……知らんと思うけど」
「そっか」
「……」
瑛己はジュースを外し、頭を下げた。「……すまん」
「いえ。……僕こそ何度も殴ってごめんなさい。動揺しちゃって」
「……先に言っておけばよかった」
「それは僕の方です」
そこで瑛己は初めて、秀一の顔が赤い事に気がついた。「何か、恥ずかしいな」
「……内緒にしといてもらえますか? 知れると色々、面倒なんで」
「ああ。そのつもりだ」
「すいません」
女性の軍人もいる。だがまだまだ数が少ないのは確かだ。
女性だという事で余計な厄介事に巻き込まれる可能性もある。気持ちはわかった。
もう一度瑛己はまっすぐ秀一を見て言った。「約束する。絶対に言わない」
「秀、こいつを簡単に信じたらあかん。今朝もな、こいつ、何にも意識せぇへん言うとったのに」
「飛は黙ってて!」
何度目かのパンチをくらい飛が鼻血ふいてぶっ倒れたのをきっかけに。
その場はお開きになった。
部屋に戻ろうとする瑛己に、「途中まで送ります」と秀一がついてきた。
断ったが、結局その勢いに押され、階段の所まで見送ってもらう事になった。
いつの間にかもう、日付が変わるくらいの時間になっている。
疲れた。明日は休みだ。ゆっくり眠ろうと瑛己は思った。
「ここでいいよ」
廊下は吹きさらしではない。それでも夜は冷えてきた。
それに時間が遅い。人の気配はないが、女性が1人でウロウロする時間ではない―――とまた、余計な事を思った。知る前には考えた事もなかった事だ。
(やっぱり無理か)
今朝飛に問われた時は簡単に即答した。秀一が女だろうと男だろうと、何も変わらないと。
でも今気がついた。今日の事もそうだし、これまで数週間……やはりそれなりに意識してしまう自分がいる事に。
怪我をすれば気を使うし、重い物を持たせるわけにもいかない。夜中にウロウロさせるのも然りだ。男なら思わない事を、確かに瑛己は思っている。
男だと思っていた、その頃と同じようには無理なのかもしれない。そう思った。
だが断じて秀一の胸がどうのとは思った事はない。それだけは自分自身に再確認して、心の中で飛を殴った。
「それじゃまた明日」そう言ってフラフラと階段を上がろうとした瑛己を、
「ねえ、あのさ、瑛己さん」
「……ん?」
秀一が呼び止めた。
一段目に足をかけた状態で瑛己は振り返った。
秀一が何となく気まずそうに、その目をそらした。
瑛己は小首を傾げ、「何だ?」と聞いた。
「これからも、」
「……?」
「これまで通りに接して……くれますか?」
「……」
「僕の事、これからも、今までみたいに仲間として……」
友として―――。
女と知っても、変わらず。
気を使うとかそういう事以上に。
「……」
瑛己は少しの間、秀一を見ていたが。
ふっと息を漏らした。
「当たり前だ」
「……」
「寝る、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
女であるという事実は変えられない。
それで気を使う事は必ずある。意識から閉め出す事は不可能かもしれない。
―――でもそれが。
仲間であるという事実を捻じ曲げる理由にはならない。
何かしらの距離を置く、そんな口実にはならない。
秀一は秀一。変わらない。
瑛己にとって、彼女は命を預ける仲間。その背中を託す仲間。
共に空を共有し、翼を広げ、笑い合う、大切な。
―――友。
ああ、俺が変わらないと思ったのはそれか。
瑛己はそう思った。
ふと振り返るとまだ階段の下に秀一がいて、こちらを見上げていた。
目が合うと嬉しそうに笑ったので。
瑛己も軽く笑って手を振った。