『氷雪の国へ(Vistatio)』-1-
いつもの事ながら。瑛己は思う。
翌日ぶっ倒れなきゃいけないほど、飲まなきゃいいのにと。
朝。食堂に行って最初に見たのは、テーブルに突っ伏した飛の姿だった。
瑛己はため息を吐いた。とりあえず自動販売機で珈琲を買う。
瑛己もそれほど酒は強くない。わかっているからこそ、後半は弱めの物か水にした。
酒を飲んだら、その量の3倍の水を飲む事を心がけている。
とりあえず珈琲に口をつけてから、仕方なくといった足取りで飛の向かいに座った。
「……二日酔いか」
帰り道吐いてたもんな……と付け加えて、突っ伏したままの飛を見やった。
「気色悪い」
「飲みすぎだ」
「せやかて」
何か言おうとして、咄嗟に飛は手を口元にやった。
ダメだこりゃ。
「今日の隊務、いけるか?」
「……聞くなや」
「そうだな」
万が一にも「二日酔いで休みます」何て言ったら。結果は見えている。磐木が殴りにくるだろう。
瑛己はふっと視線を食堂の方へ向けた。今朝は何にしようか。
瑛己の朝は大体、トーストとサラダに決まっている。
「お前、何食べる?」
「んあ」
「おかゆでも作ってもらうか?」
「……それが嬉しい、お母ちゃん」
誰がお母さんだ。苦笑しながら、瑛己は食堂のカウンターに行こうとした。
しかしその腕を、咄嗟に飛が止めた。
「何だ」と訝しげに眉を寄せた瑛己に。
「あかん」と言って飛は不意に立ち上がると、その腕を引っ張った。
「おい、飛」
また吐きそうなのか? そう思い、瑛己は飛の後についた。
しかし飛が向かったのはトイレとは逆。建物を出て食堂の裏手の方であった。
「何だ、こんな所に」と言いながら、仕方なく背中をさすってやろうかと思った時。
「なぁ」と飛が。
神妙な顔で瑛己を振り返った。
その顔は二日酔いのためか、いつもより青白い。
思いつめたような表情に、瑛己は小首を傾げた。
「何だ」
「……」
「……」
「……」
「……断る」
「……あ? 何が?」
「……俺にそういう趣味はない」
「……」
「……」
「……お前、今、何思った?」
「……愛の告白じゃないのか?」
「ド阿呆」
飛はその顔を、吐きそうなくらいに歪めた。
「俺かてそんな趣味あらへん」
「そうか」
「あのなぁ……俺が言いたいのはなぁ……」そう言って飛はポリポリと頬を掻いた。
「あいつが来る前に聞いておきたい……お前、あれから、あいつに何か言うた?」
「あいつ?」
「せやから、あいつに、あれがあれした事を……言うた??」
「?????」
瑛己は眉を寄せた。ワケがわからない。
「日本語で話せ」
「ピンと来いや、お前も!」
「あれがどーしたこーした言われてわかるか」
「あー、もー! だからー!!」
苛立たしげに頭を掻いて、音量を一層小さくして飛は言った。
「秀に、言うたかって話や」
「……」
数秒、瑛己は飛の顔をじっと見つめ考えた。
そして。
「……ああ」
「わかったか」
「ああ」
「……頼むわ、ホンマに」
ガックリと膝を落す飛の頭を見て、瑛己は苦笑した。
つまりはこういう事である。
―――秀一が女である事を知ってしまったという事を、秀一に告げたのか?
瑛己は腰に手を当て、ため息を吐いた。
「……言うわけないだろ」
「ほうか」
「お前は? 俺が知ってるって話したのか?」
「阿呆。言えるか」
「……そうか」
飛は「よっこいせ」と立ち上がり、だるそうに手近の壁にもたれた。
「……できれば、黙っといたって。そういう事で通してきたから」
女である事を隠し通してここまできた。
だから、今まで通り知らなかったという事で通してほしい。飛はそう言っているのである。
それに対して瑛己は「いいよ」と即答した。
「戻るぞ。席なくなる」
「……お前、いいんかそれで?」
「何が?」
「だから……できるのか? 今まで通り??」
瑛己は不思議そうに飛を見た。
「今まで通りもなにも、あいつはあいつだろ」
「……」
「人が変わったわけでもないし。お前と秀一が中身入れ替わったっていう話ならば、ちょっとできないかもしれんが……」
「いや、そういう展開は今の所ない」
「なら別に」
ケロっとそう言った瑛己に、なぜか飛は焦ったようにさらに問う。
「お、お前、その、だから……何にも思わんのか?」
「何が」
「だから、その」
歯切れが悪い。悪すぎる。
いい加減瑛己も苛々してきた。
「はっきり言え」
「だから、あいつが……そういう事で、意識せんか?」
「変わらないって言ってるだろ」
「せやけど」
―――女として、意識してしまわないのか?
下手すれば、邪な目で見ないのか?
誰かに聞かれる恐れもある。はっきり言えないのもわかる。
けれども瑛己は少しウンザリした思いで繰り返した。「何度も言うが、変わらない」
「あいつはあいつだ」
「……」
「何も変わらない。それ以外に何がある?」
「……」
その瞳、ひたすら揺らぐ事なく。
まっすぐ見つめられ、まっすぐ言われ。
その目を探るようにして見ていた飛であったが……やがてふっと、笑い始めた。
「ハハハ」
「……何だ今度は」
「いや……ホンマ、お前はさ」
「……?」
「何つーか、ホンマ、面白い」
「……意味がわからん」
笑ったと思ったら今度はバシバシと背中を叩いてくる。
瑛己はとてつもなく嫌そうな顔をした。
「痛い」
「ハハハ」
「……」
「ハハ……いや、悪い悪い」
「……」
「ほな行くか。食堂の席、なくなってまう」
「……」
わけがわからない。瑛己はそう思って、食堂へ向かった。
そんな彼の横顔を見て、飛はもう一度ポリポリと頬を掻いた。
―――お前の、そういう所が好きなんや。
口に出して言わなかった言葉を、そっと心で呟いた。
不意に飛が背中を殴ってきたので、瑛己はそれと同じくらいの力量で殴り返した。
◇ ◇ ◇
今日は巡察もなく、瑛己たち327飛空隊は基礎体力トレーニングの日となった。
ただし、やはりきつかった。
基地内のランニングなど、瑛己ですらへばりそうになった。
もちろん飛などは言うまでもなく。
ただ今日一番きつそうだったのは、飛よりも誰よりも。
「……飲めないのに飲むからー、そうなるんじゃないっスか」
隊長の磐木であった。彼がこれだけ真っ青になっているのも珍しい。
「うるさい。総監に注いでもらって、飲めないと言っておれんだろうが」
「古いなぁー、飲めないものは飲めないって言えばいいでしょー?」
「……」
こういう時、磐木は新に弱い。
ここぞとばかりに畳み掛ける新に、磐木が珍しくゲンナリした様子で、早々とトレーニングを切り上げ講習に切り替える事になった。
飛はもちろん、瑛己でさえ助かったと思った。
「……そもそも、飲み会くらい休みの前日に入れろって。誰が頼んだんだ?」
「ほら、元々今日は先週の巡察の振り替えで休みの予定だったじゃないですか。それが明日に変更なったから」
飛の体を支えながら、秀一が答える。飛は今にも吐きそうだった。
「昼飯食ったら、第5会議室集合だぞ」
「へい」
ジンがヒラヒラと手を振って消えて行く。喫煙所だろう。
「俺らもちょっち宿舎寄るわ。小暮ー、この前あれがさー」
新と小暮も宿舎へと去って行った。
瑛己、飛、秀一の3人はアスファルトをトボトボと、食堂の方へと向かった。
「食べれそう? 医務室寄る? 薬もらった方がいいんじゃない?」
「……そうする」
「世話がかかるな」
「ホントに」
「……うっせ」
秀一に代わり、今度は瑛己が飛に肩を貸す。
秀一は肩を回して深呼吸をした。「ふぅ……、いい天気」
「でも磐木隊長が二日酔いなんて、意外」
「あの人も人の子やな」
「磐木隊長の分の薬ももらった方がいいかな?」
「そうだな……」
のんびり会話をしていた時。
「あ」と、秀一が声をあげ、その場につまづいた。
派手な音を立て、地面に顔から突っ伏した。
「何しとんねん、お前」
「イテテテ……」
「ドジやなぁ。俺か瑛己がコケるならまだしも。フリーのお前が」
「……だって、段差、気づかなくって」
「空見て歩いてるからだ」
「瑛己さんまでー……イタタ、おでこぶった」
「お前、切れとるぞ、デコ」
「え、本当!?」
少し血がにじんでいる。
それに慌てた秀一を見て。瑛己は無意識に言った。
「顔は大事にしろよ、お―――」
と、言いかけて。ハッと口をつぐもうとした瞬間。
飛に思いっきり、肘鉄を食らった。
「ぐはッ」
無防備に腹に入った。
咳き込む瑛己を、殴った張本人の飛が「どないしたんや」と背中をさする。
「どうしたの? 瑛己さん?」
「風邪やないか!? あ!? 風邪か瑛己!!」
「ゴホ、ぐほ……」
「アカンなぁ、お前、昨日腹出して寝てたやろ? そうやろ。あかん。医務室行って薬や薬。秀も薬や。顔の傷は男の勲章やけどな。薬もらって塗っとけ」
「うん。そうするー」
「ごほごほごほ……」
あとで必ず、と瑛己は思った。飛、こいつ、ぶん殴る。
「本当に大丈夫? 瑛己さん??」
「……何とか」
「秀、近寄るな、風邪がうつるぞ」
「……」
瑛己は拳を固めた。やはり今すぐここでぶっ飛ばそう。
そう思い、振り上げたその刹那。
「聖! 飛! 秀一!」
「あ、小暮さんや」
眼鏡の男が駆けて来る。
その姿を見た瞬間、瑛己の脳裏に嫌な予感が走った。そしてそれはすぐに的中した。
「予定変更! 昼飯済んだら北の第8会議室! 遅れるな!」
「それは、」
北塔の第8会議室。ここで『湊』に入って以来繰り返し行われてきた事と言えば。
「召集だ」
作戦命令―――。
痛む腹をさすり、とりあえず瑛己は、傍らに立つ男の靴を思いっきり踏みつけた。
◇ ◇ ◇
「昨日は本当に楽しかった。ん? 磐木、顔色が悪いぞ。二日酔いか?」
「……いえ、大丈夫です」
「そうか。ああいうのもいいな。また機会があったらいつでも呼んでくれ」
白河は昨日の酒を欠片も見せず、ニコニコと笑って言った。その笑顔はとても楽しそうだった。
きっと、おじさんの事もあるからかなと瑛己は思った。
白河 元康と原田 兵庫。
12年前の事件をきっかけに、2人の仲は引き裂かれた。
―――〝空の果て〟。
晴高と共に空へ上がり、そこで地獄を見た兵庫と。
後から行くと言って、行く事叶わなかった白河。
食い違った2人の道。白河が行けなかった真相は、語られる事なく。
それがようやく白日の下になったのは、『日嵩』によって襲撃されたその後。今から5ヶ月ほど前である。
その真実によってようやく、長い間2人の間にあった溝が埋まり始めたようだった。
昨晩も2人は笑って話していた。
兵庫に「モト」と呼ばれた白河が、少し照れ臭そうに、けれども嬉しそうに笑っていたのが印象的だった。
少しの間昨晩を思ってか、優しく微笑んでいた白河だったが。
ふっとその瞳を閉ざし。
―――次に開けた時は、「さて」
「仕事だ」
『湊』総監・白河 元康、司令官としての顔になっていた。
「軍部の方から直々に、君たちに飛んで欲しいとの要請がきた。今回の仕事は〝確認〟だ。ある人物が目撃された、それが本人であるのかの確認。本人であれば本国までの搬送を命じられた」
居並ぶ『七ツ』面々は、神妙な顔で聞いている。
白河はその目の光を強くして、続けた。
「ある人物とは―――元・『日嵩』空軍基地総監、上島 昌平だ」
「―――!」
全員が驚愕の顔を浮かべる。
「見つかったんですか……!」
言ったのは、磐木だった。
白河は硬い表情を崩さず、無言で頷いた。
「『ビスタチオ』で目撃された」
―――『ビスタチオ』。
〝零海域〟を隔てて北にある大国である。
国土は『蒼国』の10倍以上。下手すれば15倍くらいあるのかもしれない。とにかく広いのである。
ただその国土のほとんどが、1年の半分以上雪と氷に閉ざされた世界。
暮らすには大変な所と言える。
それが、領土のわりに人口の伸び率が振るわない理由の一端である。
「目撃者の話では、」と言葉を区切り、白河は彼らから目をそらした。「上島は……ある集団と一緒にいたらしい」
「ある集団とは」
「……」
一瞬言いよどんだ白河であったが、「『ビスタチオ』付近で目下、最大勢力として空を騒がしている空賊集団だ」
「その名も、【白虎】」
【白虎】。
瑛己も知っている。【天賦】に並ぶほどの巨大組織だ。
「かつて【白虎】はこの近海で活動していたが、【天賦】影響力拡大により、拠点をあちらに移した。今では『ビスタチオ』軍部が血眼になって奴らの壊滅に力を注いでる」
「そこに……?」
「ああ。数日前、こちらの軍部に送りつけられてきた封書に数枚の写真が入っていたそうだ。中には、【白虎】幹部と一緒に写る、上島らしき男の姿が写っていた」
「……」
「そこで、最近の上島をよく知る君たちの派遣を要請してきた。相手が【白虎】という事も考慮してらしいが」
瑛己たちは顔を見合わせた。
―――上島 昌平。
しかし瑛己たちとて、その人物をよく知っているわけではない。しっかり顔を合わせたのは数回だ。
(けれど)
瑛己の耳にも残ってる。『湊』を襲った彼の、叫び声。
「……」
沈黙した327飛空隊の中で。
一番最初に声を出したのは、飛だった。
「総監」
「何だね、須賀君」
「俺、パスっす」
「―――」
その言葉に一同、彼を見た。
しかし飛は平然とした様子で、「俺は基地に残ります」
「……」
瑛己は眉を寄せた。やはりまだ調子が悪いのか……。
パニック障害の発作。今は確かに治まっている様子だが、いつ何時出るとも知れない。
『ビスタチオ』が目的地なら、航路も長い。不安を感じても仕方がない。
「そうか」
同じ事を思ったらしい白河が、少し残念そうに呟いた。「まだ調子が思わしくないのか」
それに飛は答えなかった。
そして。
「俺もパスします」
「新!?」
その隣にいた元義 新まで手を上げた。これにはさらに全員が(飛までも)驚いた。
「な、何言うてんすか、新さん」
「実は内緒にしてましたが、俺もパニック症を……」
「は? 何??」
「それに俺、持病の腰痛が最近悪化しまして。さらに言うなれば先天的に白内障も患っておりまして」
「……」
「もっと言うなら、盲腸と肺の具合が」
「……」
言い募る新に。
ジンが目を細め、その横っ腹に蹴りを入れた。
「な、何すんですかジンさん! 盲腸だって言ってるじゃないですか!」
「阿呆」
さらに言う新に、ジンは2度目の蹴りを入れる。
そんな同僚の様子を見た小暮が、額を手で押さえた。
「飛、新……お前ら、正直に言え」
「な、何をっすか?」
「すか?」
「お前ら……『ビスタ』に行きたくない理由、他にあるからだろう」
「……」
「……」
「正直に言え。―――寒いから嫌だと」
「う」
「う」
小暮の言葉に2人の顔が途端、文字通り固まった。
「……」
「……」
「……」
沈黙が降りる。
それを破ったのは、沈黙とは正反対の男。須賀 飛だった。
「―――だって!! ハッキリ言いますけど、イヤです!! この時期に『ビスタチオ』なんて!!」
「……」
「そうだ!! 俺は冷え性なんだ!! これから冬到来って時に、何でわざわざ雪の王国なんぞに行かなきゃならんのだ!!」
「そうです新さん!! 俺かて寒いの無理です!! 夏場に行くならまだしも、もう完全にあそこ、冬将軍が大暴れしてるっしょ!! イヤや!! 絶対イヤや!!」
「この時期あそこ行くくらいなら、部屋でコタツ作って寝てた方がマシだ!!」
「あ、それいいっすね~新さん。俺もコタツ入れてください」
「いいぞいいぞ。差し入れはみかんかスルメな」
「ジジ臭ッ! でも醍醐味っすね」
「……」
「……」
冷え性コンビが、意気投合した所で。
磐木がその鉄拳を振りかざし、2人を諸共ぶっ飛ばしたのは言うまでもない。
その力は2日酔いで多少衰えているだろうに、それでも、2人を地面に沈没させるには充分だった。
結局。
それから10秒後、磐木は簡単に了承した。
もちろん全員参加で、である。
それに白河は満足そうに笑い、そして倒れたままの飛と新を見て気の毒そうに苦笑を浮かべたのであった。