『黒の蝶(blood of butterfly)』
空が朱に染まる頃。
窓から差し込む光に、室内の調度品がすべて、金色のような光を放っていた。
壁、床、長机、椅子、天井、吊り下げられたガラスのシャンデリア……ありとあらゆるすべての物が、である。
そういう細工なのだと誰かに聞いたなと、ウツツメは思った。
この部屋―――いやこの建物すべてが、その差し込む光によって色を変えるのだと。
黄昏と曙には部屋は金色に光り、昼の陽光には銀に輝く。
そして曇りの日には青。夜のランプには、ほのかに赤く。
この建物を造った建築家、そしてこの建物の古来の持ち主の力の入れようが伺える。
建築より数百年が経っても未だ、崩れる事なく当時のままの絢爛を保ち続けるこの建物のかつての主は国王。
『黒国』王都、『舞彩(mau_ayane)』。
その中央に聳え立つ巨大な城。それがここ、『漆ヶ城(urusi_ga_jyou)』であった。
その一室に彼らは集まっていた。
―――『黒国』十二公家。
『黒国』から王政がなくなって、早80年。
その原因は先代王に跡継ぎと呼べる実子がいなかったのが原因である。
いや元々王には13人の子がいたが、ことごとく病死か事故死。
直接の血を引く者が、先王の後にいなかったのである。
それによりその没後、様々な話し合いがなされた結果、『黒国』は王の一族である十二の血族を持ってして、政治を成す事にしたのである。
それが十二公家。
王政瓦解後は、その12の一族の話し合いにより政治は周り、『黒』という国は動いていた。
その中でも一番王に近い血を持つのが、第一公家。
名目上は対等であるとされるが、実際は、その当主がこの中で最も権力を持っている。
そして現・第一公家当主、その名はドトウ(dotou)。今年で齢68になる。公家当主の中で最高齢でもある。
しかしその外観からはまだまだ老いは漂わない。日焼けした肌に白髪。切りそろえられたあごひげ。鍛え上げられた体躯。その双脚は重戦車を思い起こさせる。
そしてその眼光は刃物。
睨まれた物はその場で心臓を鷲づかみされるかのような錯覚を覚える。
そして今。
まさにその体験をする局面に立たされているのが、彼女なのである。
第三公家当主にして、この中で一番最年少の少女こそが彼女、ウツツメであった。
「ウツツメよ」
ドトウの声は深く、重く。地鳴りのようにも聞こえる。
「そなた、自らの犯した失墜、理解できておるのか」
「……」
ウツツメはその形のいい唇を噛み占めた。「……申し訳ありません」
「まず第一になぜに出立が遅れた」
「……」
ウツツメは目をそらした。『手雲』の連中だ。出立前に飛空艇に不備を見つけたと言っていた。そのせいで予定の時間を大幅に押し、最終的には捕まった。
あの時すんなり飛べてさえいれば……そう思う。
だがウツツメはそれを言わなかった。
あの連中のせいだと罪を擦り付けてぶちまけてやりたい所だが、彼女は言い訳が大嫌いなのである。
「全責任は私にございます」
欠片も思っていなかったが、ついついそう言ってしまった。こちらの言葉の方が彼女のプライドを傷つけなかった。
「ウツツメ。我の目は節穴と思うか?」
蛇のような目で、ドトウは言った。
「話は聞きおる。……『手雲』の整備主任には責任を取ってもらう」
「……は」
ドトウが言う〝責任〟とは、死罰。
しかしウツツメは気が晴れなかった。あの時は「首をはねてくれる」と叫んでいたが、人の手によりやられると気に入らない。
ましてやこの男ではなお更である。
(老獪め……)
微かに思った。そしてそれが、その眉にピクリと出た。
ドトウは彼女のその顔に微かにニヤリと笑った。
「不服か、ウツツメ」
「いえ」
「主も共に殉ずるか?」
「結構です」
「ならばどう始末とる?」
「……再度、かの地に赴きまして」
「無駄だ。『蒼』より強い抗議がきた」
「……」
「そなた、空母をどこに置いた? 領空侵犯と人身誘拐。その上発砲はこちらから」
「それはッ」
「戯け者ッ!!!」
「―――ッ」
ガタリ
ドトウの罵声に、体が勝手に1歩引いた。それにより、立てたくもないのに椅子が勝手に音を出した。
「宣戦布告とみなし、砲火も厭わぬとの回答がきたぞ」
「……な、ならば、受けてたつべし」
「今はその時ではない」
ピシャリ言われ、ウツツメは手を握り締めた。
首筋を汗が伝った。
「このような仕事も満足にできぬのか、小娘」
「……」
「しばらくこの公家議会への出入りを禁ずる。『鬼灯花』の指揮も、第2公家当主ロズリ、お前が代行せよ」
「御意に」
「―――お待ちください!! 『鬼灯花』は私が育てました騎士団!! そのような男には任せられませんッ!!」
「これ以上我を落胆させるなッ!!」
……笑いすら、起こらない。
ひたすら、痛いほどの沈黙。
心臓も鼓膜も弾け飛びそうだった。
(いやむしろ)
今すぐこの腰の剣で。
目の前の男を、切り殺してしまいたかった。
◇ ◇ ◇
公家議会に入る事ができるのは、各家の当主のみ。
その出入り口で彼女の側近・ゼイは主を微動だにせず待っていた。
その目は相変わらず、開いているのか閉じているのかわからないほど細い。
今日は長い。そう思った。
(短気を起こしていなければいいが)
そう思い、その造りこまれた扉を見た。
樹齢何百年という木で造られた扉である。凝った細工、中央にはもちろん蝶が描かれている。
……やがて。
バタンと、その扉を蹴破るようにして1番に出てきたのはウツツメであった。
「ゆくぞ」
ゼイの姿を捉え、それだけ告げてさっさと歩き出す。ゼイはその後に続く。
ゼイの家は代々、ウツツメの家に仕えてきた。ゼイもこの娘が幼少の頃から知っている。
だからこそ、その背中が何を無言で語っているのかも、すぐにわかった。
城内を抜け、北塔まで至る。
そのまま階段を駆けるように下る。
……そして。
そのエントランス部分。ふと、ウツツメは足を止めた。
ゼイもそれに従う。
「ゼイ」
「は」
「……謹慎、だそうだ」
「さようでございますか」
内心ゼイとしては、それだけで済んでよかったと思う所である。
下手をすれば家督・領地召し上げまで考えていた。
その安堵が明らかに顔に出た。ウツツメはそれを見て、キッと彼を睨んだ。
「笑い事ではないわ」
「……申し訳ありません。つい」
「『鬼灯花』を第ニに取られたぞ!!」
第ニ公家当主・ロズリ。
公家の中で2番目の権力者にして、中堅。
年は今年35。独身である。
「あの気持ち悪い男にッ」
「ウツツメ様。落ち着つかれませ」
「落ち着けぬわ馬鹿者ッ!!」
地団太を踏んで、ウツツメは頭をかきむしった。
「あやつの事などッ!! 思い出すだけでも虫唾が走るッ!!」
「……」
「あやつ、私に何と言うたと思う? 議会終了後だ。耳元で……ドトウに取り成しておくから心配しなくていいよ、だそうだ。耳元でッ!! 吐き気がする」
「……よかったではありませんか」
「あんな奴にどうこうされるつもりはないッ!! あの肉塊めが」
正直、ゼイにもウツツメの気持ちがわかる。
第ニ公家当主・ロズリ……国内でも有数の、巨漢の男である。
……早く言えば、太りすぎは否めない。
でっぷりとした体格、軍服の前が閉められているのをゼイは見た事がない。
ましてやその中に着ている白のカッターの襟首も、無理にはめたボタンのせいで襟が常に立っている。
しかし当人としては容姿にはかなり気を使っている様子で、肩で揃えた黒髪は、いつも見事に外側にカールされていた。それはまつげもしかり。
噂に、ロズリはウツツメを密かに狙っていると聞いた事がある。
童女のような外観から若く見られがちだが、ウツツメも今年で25歳。
年頃ではあるが。
「いつかこの剣の錆にしてくれる」
ロズリは完全に対象外だなと、ゼイは思った。
「まぁ、一時の事でございましょう。あちらも『空蝉』を抱えている手前、長期の2部隊指揮は無理でしょう。ウツツメ様謹慎の間の暫定措置かと」
「ならばそんな面倒なことせずともよい」
「しかし、あの部隊を遊ばせておくには、いささか勿体無い話かと」
ゼイの言葉にウツツメは満足そうに笑った。「では、ある」
「何せ、私が育てあげた、国内最強の部隊だ」
「は」
胸を張るウツツメの様子に、ゼイは少し安心した。
今回の作戦失敗……それによってどれほどの罰が下されるのか、ウツツメがどれほどのダメージを受けるのかと、帰国後はその事ばかりが気にかかっていた。
しかし謹慎と、部隊の一時没収で済んだ様子。
恐らくは、ドトウの恫喝の1つや2つは受けただろう。
並みの人間、心臓の小さい物ならば、その眼光と声にその場で卒倒する者もいるくらいである。
だが目の前の女性は、そちらにはそれほど気にしていない様子。そういうのを表情に出さず心にだけしまっておくタイプの人間ではない。
(……やはりこの方は)
只者ではないと、ゼイは内心思う。
(やはり血か……)
ウツツメの母は、先代・第三公家当主。今は家督を譲ったが、かつては〝毒姫〟とまで言われた軍師であった。
それが、5年前。ウツツメが20歳になった時、あっさりと表舞台から去った。
惜しむ声は未だ多い。だが。
(いずれ世間もわかる)
この人が、先代と同等―――否、それ以上の器である事。
「ゆくぞ、ゼイ」
「―――は」
丈の長い軍服を翻し、女は歩き出した。その背に男は従う。
陽光が、最後の灯火を世界に放つ。
その光に、建物は一層金に輝いた。
―――部屋に。最後に残ったのは公家筆頭・ドトウ。
先ほどまで12人が顔を並べていたその部屋に、その男は頬杖をついて座していた。
この部屋は今では〝十二公家議会室〟と呼ばれているが、かつては王と家臣たちが、この場にて政治を差配していた所である。
玉座の間は、封印されている。王亡き今、開けられる事はない。
ドトウはその鋭すぎる眼を閉じ、低く呟いた。「フズ」
「首尾は」
すると扉の付近に立っていた男が胸に手を当てた。「は」
その片輪の眼鏡が、キラリと光を放った。
無造作に垂れた黒の前髪が、どこからともなく吹いた風に揺れた。
「向こうは何と言っておる」
「……まだ快諾とはいきませんが」
「よい。お前が生きてそこにおる。それが答えだ」
否ならば、生きて帰らせるわけがない。
「あやつはそういう男だ」
「は」
「上々。さらに進めよ」
「御意」
それだけ答え、音も立てずにフズはその場から去った。
目を閉じたままそれを感じ、ドトウはニヤリと笑った。
あれは使える。
それから。完全に太陽が沈黙するまで。彼はそこにあり続けた。
※不定期に誤字修正行います。
2012.7.16 誤字修正