『I miss you』
―――時は少しさかのぼる。
バーテンがコップを磨いている。
開店前の店内は静かだ。
もう数時間もすればもう少し賑やかにはなるが、ここは大衆食堂ではない。静けさを売りにするバーである。
窓一つない店内では、外の様子は知れない。
変化の乏しいこの空間にあってただ一つ。彼はコップを磨きながら、ここにいるもう一人の男の背中の微妙な動きをじっと見つめていた。
「……わかりました、即急に向かいます……」
その言葉を最後に、男は受話器を置いた。
男が1つ息を吐くのを待ってから、バーテンは声をかけた。
「戻るんですか?」
「……ああ」
男―――風迫 ジンは、ほつれた前髪を掻き上げながら振り返った。
「厄介事が?」
「ああ」
「ご苦労様です」
彼は目を伏せ、磨いていたコップをトンと置いた。
その間にもジンは荷物をまとめ始めていた。
「世話になった」
「いえ。『湊』ならまだ今日のうちに着けます」
「いや、向かうのは『天晴』だ」
「『天晴』ですか。ここからだと便が悪いですね。『明義』で乗り換えて、『火塚』から岐北線……今からだと日付またぎますよ」
「仕方がないさ」
言う間にもジンは上着を羽織っている。
そして。
「……ゼンコー(zenko_)、すまんが」
言いにくそうに言うジンの姿に、ゼンコーと呼ばれたバーテンは苦笑を浮かべた。「カシラ」
「私にできる限りで調べてみます」
「……すまん」
「よしてください。らしくない」
「……」
ジンにとってこの男は古い馴染みである。
年はジンより5つほど上。だが敬語を使うのはゼンコーの方である。
「あなたには恩があります」
「……」
「時島様の行方……調べてみます」
「すまん」
もう一度頭を垂れ、それからジンは言った。「厄介な事になるかもしれん」
「身の危険だけは、充分に気をつけてくれ」
ゼンコーは、はいと短く答え微笑んだ。
その笑みを見るとなぜか安堵する。ジンにとってそれは昔から今も変わらない。
「もう随分慣れられたようですね」
最後に、長い髪を結い直す彼を見ながら、手早くゼンコーも荷物をまとめる。
「空軍の事か?」
「ええ」
「……面倒な事ばかりだ」
「でも楽しそうです」
「……」
「これを。道中食べてください。荷物になりますが」
「……すまんな」
渡された包みを受け取り、黒の鞄に詰め込む。
それを肩に引っ掛ける。見た目からもかなり重そうだが、ジンは表情におくびも出さなかった。
「また連絡する。よろしく頼む」
「カシラ」
「何だ」
「私はカシラに感謝しています」
「……」
「カシラのお陰で私は、夢が叶った」
「……」
「『蒼光』の一等地に、こんな店が持てた。そして命長らえる事ができたのはすべて、カシラのお陰」
「……」
「……フズは、穿き違えてる」
「あいつの気持ちもわかるさ」
軽く笑って、ジンは店の出入り口へと歩き出した。ゼンコーも後に続く。
「俺があいつの立場なら、同じように恨むかもしれん」
「……しかし奴の命とて」
「言うな」
「……は」
ジンはドアノブに手をかけた。
ゼンコーは恭しく、その背中を見つめた。
そして開ける間際。「ゼンコー」と、ジンは呟いた。
「お前から空を奪ったのは俺だ」
「……カシラ」
「すまん」
ゼンコーは苦笑した。
この人は変わらない。
昔からずっと、ジンという人物は何も変わらない。
属する所は違えども、彼が飛ぶ空はきっとあの頃のまま。
「カシラ」
答えたその声はとても優しいものだった。
「私は自分から、空を降りたのです」
「……」
「私は幸せです。生き続ければ無限の可能性がある。生きている、ただそれだけが最強の価値を持つ。そう教えてくれたのは、あなたです」
「……」
「あなたに感謝こそすれ恨むなど。私にはあり得ません」
「……そうか」
「お気をつけて」
「ああ」
また会おう。
そう言って、ジンは店を出た。
地下にある店から階段を上がり、地上へ出ると、辺りはもう夕焼けに包まれていた。
首都『蒼光』。
林立する建物の間から紅い光が零れ落ち、街を染めている。
行きかう人の歩調は早く、通る車もどこか忙しい。
『湊』とは漂う雰囲気が違う。あそこと違ってここは、どこか、いつも何かに追い立てられている。
1度鞄を持ち直し、改めジンは通りを歩き出した。
腕の時計を見る。
―――『天晴』で厄介事が起きた。磐木も新を連れて大至急そちらへ向かう。
2週間の休暇の、丁度半分。
結局俺たちに安穏などないのかと、クックと喉の奥で笑った。
そしてその黒い瞳で空を見上げた。
―――その瞬間。
ジンは気がつかなかった。
車道を挟んだその向こうの通りに。1人の女性が足早に通り過ぎた事を。
彼女も気づかなかった。
黒のスーツに身を包み。石畳にヒールを打ち鳴らし。
少し高く結い上げたこげ茶の髪と、愛しいルージュ。
時島 恵、その人が。
―――ジンは視線を戻した。
行こう。
そして再び、歩き出した。
進めば進むほど、その背中が遠ざかっていく事を、彼は知りもせず。
―――頭の片隅でその名を呼んでみる。
答える声は、無論、ない。
第3部 完




