『奪回作戦(dakkaisakusen)』-2-
小暮 崇之。
その男の事を知っているようで、瑛己は知らない。
黒髪。短髪だが、目にかかるくらいの前髪はいつも無造作に垂らされている。
327飛空隊随一の頭脳派にして、博識。
元義 新と同室で、一緒にいる事も多い。明るく気ままな新の横で共に笑い、時に無茶をする彼を静かにたしなめる。
性格は、正確にして律儀。磐木と同等、筋をまっすぐ通す所がある。
磐木、ジンの行き届かない細かい部分をフォローする、いわば影の補佐役。
……瑛己の印象はこんなものである。
赴任して半年あまり経つが、個人的に話した事はない。
瑛己は前を走る小暮の背中を見、少し身に緊張を覚えた。
「これからどうするんですか?」
瑛己、飛の荷物は軽い。最低限の物だけで飛び出した。
小暮は肩から黒い鞄を下げている。外見だけで見ても重そうである。だが速力は飛、瑛己に劣らない。むしろ油断すれば置いていかれるのは2人方だ。
「このまま北へ。『燕蔵(tubakura)』空軍基地へ向かう」
『燕蔵』第17空軍基地。沿岸部に位置する空軍施設の1つだ。
「ちょっとここで待て」
と一端2人に制止を命じ、1人でどこかへ駆けて行く。瑛己と飛は息を吐いた。
「ちと、きついわ」
「……ん」
「お前、休暇中筋トレしてた?」
「……」
掃除してた。そう言おうとしてやめた。代わりに「お前は」
「寝てた」
「……そうか」
もう日の気配は完全に消え、辺りを包むのは完全なる夜の闇。
地の利がない瑛己には、ここがどこだかもわからない。相楽診療所を出て1時間近いの全力疾走は、それなりに身にこたえた。
頭の中で地図をひっくり返す。『天晴』から『燕蔵』……距離はどれくらいだっただろうか?
その時ふと、ガガガという音を立てて1台のジープが走ってきた。
ジープは瑛己たちの横でピタリと止まった。運転席にいたのは、
「乗れ」
「小暮さん……どないしたんですか、これ」
「借りてきた」
「誰に……」
「わからない。そこらにあった。何でもいいから早くしろ」
瑛己と飛は顔を見合わせた。
何でもいいわけがない事態だが、とりあえず2人はそれに乗り込んだ。途端小暮はエンジンを吹かした。
4つのタイヤが滑り出し、地面に淡く煙を立てる。砂利道に多少揺れるが、走る事を思えば雲泥の差だ。
「小暮さん、あの」と、オズオズと飛が聞いた。こんなに歯切れの悪い飛は珍しい。「『燕蔵』へ行ってそれから……どないするんですか?」
瑛己と同様、飛も小暮とそれほど親密というわけではなさそうだった。
小暮はバックミラーで2人と目を合わせた。
そして目を前方に戻すと、彼は淡々と口調で言った。「決まってる」
「飛空艇を奪う」
「―――!??」
「時間との勝負だ。グズグズはしてられん」
「そ、それ大丈夫なんスか!? う、奪うって……!?」
飛がタジタジしている。瑛己は面白い物を見るように飛を見た。
「事後報告でいいだろ」
「いいんスか!?」
「仕方ない。今は緊急事態だ」
「なっ……」
言葉を失う飛に変わり、瑛己がその後を受け取った。
「小暮さん」
「何だ」
「説明してください」
「何を」
「……」
瑛己は言葉を選んだ。「今回の作戦工程と、小暮さんの〝読み〟です」
小暮の目がミラーを通して瑛己のそれと重なった。
しばらくの後。「……そうか、すまん」
「説明してなかったか」
「はい」
「すまん……俺はどうも、考えが先走る」
言って小暮はポリポリと頬を掻いた。
「俺は同じ事を何度も言うのは嫌いだ。1度しか言わない。いいな」
「はい」
車の揺れが一層ひどくなる。天井のないジープは、風がもろに顔を殴っていく。
音が入り乱れる中、大きくない小暮の声を聞き取るにはかなりの集中が必要だった。
瑛己は瞬きを忘れたように耳に全神経を研ぎ澄ませた。
「秀一をさらったのは多分『黒』だ。それはさっきも言ったな。なぜそう思うか。理由は幾つかある。まずは飛が戦り合った連中の風体。そしてその力量。あちらの特殊機関の連中と合致する」
「はい」
「次の点。現在『黒』の空母艦が近海にきている」
「―――!」
「まだ政府は発表していない。俺も偶然数日前に聞いた情報だ。『蒼』の領海内に入ってきている。視察のためという事で政府は許可は出しているが、予定の滞在期間を過ぎている。警告を出している最中だ」
「……」
「次の点。その視察のためにと内地に入った部隊がいるが、『蒼』はその足取りを掴めていない。目下捜索中だ。人数も不明。その最後の足取りは、『黒』領事館も置いてある『手雲(tegumo)』」
『手雲』飛行場。ここは『黒国』来賓専用の飛行場となる。ここから首都・『蒼光』までは鉄道で1本だ。
その『手雲』から『天晴』そして『燕蔵』は、『天晴』を中心としたトライアングルを形作る。
「『黒』が秀一をさらったとして、まずは『手雲』に至る。あそこは治外法権だ。うかつに手は出せない。そして『手雲』から次に向かうのは近海に停泊している空母」
「空母に移ってしまってはアウトだと……?」
「ああ、狙うなら、その過程だろう」
それがゆえに、飛空艇が必要になる。
「だから、『燕蔵』で拝借する」
事もなげに言う小暮に、瑛己は胸が冷える思いだった。
飛を見ると、月明かりの下でもハッキリと彼の表情が読み取れた。
―――俺らも大概無茶やとは思うけど、小暮さんほどやないで。
そう言えば同じような事をいつだったかこいつ言ってたな……瑛己は思った。そうだ、1ヶ月前の高藤が開いた座談会。あの時だ。
『日嵩』の作戦際、【無双】及び【天賦】によって撃墜された327飛空隊。瑛己は来によって助けられ、磐木・新・飛は【天賦】に捕虜として捕らえられた。真っ先に落ちた秀一を救ったジンは、追撃の目を逃れて何とか『音羽』海軍基地まで落ち延びた。
小暮はその中でたった1人【無双】の基地に乗り込み、あろう事かそこで飛空艇を奪ったその上、『日嵩』にまで戻り、作戦の虚偽を調べてきている。
「……」
小暮ちゃん、ちゃれんじゃぁ……と呟いた新の声が耳に蘇った。
そんな小暮からすれば、仲間である『燕蔵』の飛空艇を奪うのは容易いのかもしれない。……第一にに現在乗り込んでいるこのジープ。すでにサイは投げられている。
「『燕蔵』までは車で飛ばしても1時間はかかる。寝ててもいい」
「はぁ」
飛が力なくそう言ったが、音にかき消されて運転席までは届かなかった。
「瑛己、大丈夫やろか」
ついでにその音に乗じて、飛は瑛己の耳元で囁いた。
「やるしかないだろ」
そう言う以外に言葉が見つからなかった。
「けど小暮さん、どうして秀一が『黒』に……?」
声を張り上げ、瑛己は最後に問うた。最大の疑問である。
「……」
しかし聞こえたか聞こえてないか、小暮はそれに答えなかった。
「小暮さん」
「ああ。聞こえてる」
やや沈黙があって。小暮は短く「わからん」と答えた。
「ただ、」
「……?」
「……『黒』では今、色々な実験が成されている」
「……」
「お前らも覚えてるだろう? 〝零地区〟での『黒』の実験。入った途端飛空艇に異常をきたし、最終的に奴らは全員を自爆せしめた」
瑛己は眉間にしわを寄せた。
(〝あの命令〟の引き金になった奴か……)
『音羽』海軍の巡視船の行方不明から、捜索に当たった磐木たち3名の墜落。その救助に向かった瑛己たちを出迎えた灰色の艇団。そしてその行く末。
その数日後に現れた『黒』からの使者。
その要求は、【空(ku_u)】の撃墜。
「……」
最終的に有耶無耶となった顛末は、白河の必死の訴えによりどうにか国際問題にまでは至らなかった。
しかし今思っても、あれは一体何だったんだろうかと思う。
「あれだけじゃない。『ナノ装甲』を超える装備の開発、それに対する『流天弾』と呼ばれる銃弾の開発―――言い出せば切りがない」
「何でそこに、秀が……」
「……」
明らかに小暮の口は重くなっている。気づかない瑛己ではなかった。
何かある。
しかし瑛己の肩を掠めるのは、とても冷たい予感。
「奴らが秀一の事をどこで嗅ぎつけたか知らないが」そこで言葉を区切り、小暮は息を吐いた。騒音の中でもそれが聞こえた。「その〝予知〟の力は奴らにとって、魅力のあるものなんだろう」
「調べたいんだろう……人の身で、未来を予知する事ができるのか。それは叶うのか。秀一にその力があるというのなら……その身を引き裂いてでも」
「―――」
「戦争に、」叫びだそうとする飛の声をさえぎるように、小暮は語気を強めた。「有利となるならば。どのような事でも武器にする。あの国はそういう国だ」
「先が見えたら、打てる布石は多くなる」
「……」
「その方法が解明され……もしその力が、数多の軍人にはめ込む事ができようものならば」
「―――」
「いわば、その軍団は〝神〟にも近い」
極論だがなと小暮は笑った。瑛己たちは笑えない。
2人が聞いている事を忘れたように、小暮は呟いた。「人は空を目指した」
「そこに到達した今、次に目指すのは、〝神〟の域かな」
―――〝神〟の域。
もう一度瑛己は、小暮の言葉を頭の中で反復させた。
『黒』は色々な実験をしている。そして秀一の未来を予知する力を、彼を拉致して解明しようとしているのではないか。
すべては軍事目的のため。
「……」
気がつくと、走ってきた時よりもずっと手が汗で濡れていた。
喉が渇いた。瑛己は水を持ってくる事を忘れた事を後悔した。
◇ ◇ ◇
約1時間後。3人を乗せたジープは『燕蔵』に到着した。
『燕蔵』空軍基地は平原の中にあった。『湊』と外観はそう変わりなかった。
車は、木々が生い茂る中に隠しておく。
小暮の合図の下、3人は基地へと走った。
時刻は21時を回っている。とは言ってもまだ基地はライトが煌々と照っている。管制塔からのサーチライトは一晩中続くだろう。
正面出入り口は封鎖されている。
『湊』基地もそうだが、夜間は別の出入り口がある。
身を低くして草を掻き分け、ただひたすら小暮の背中を追いかける。どうやって中へ入るつもりなんだろうか? 関係者用の裏口だろうか? だがそちらには夜間も見張りが立っているはず。
ふと瑛己は飛を見た。
脚力は劣らない。体調が万全の時の飛と同じ動きだ。
けれども彼はここへ来る前、診療所で痛み止めを打ってもらっている。出掛けに相楽医師から何かを渡されたのも見た。薬だろう。
「……」
瑛己は人知れず眉を寄せた。
―――しばらく、基地の外壁に沿って走った。
小暮は何かを探しているようだったが、もちろん瑛己にも飛にもそれが何かはわからなかった。
そして不意に壁に沿って曲がった途端。
小暮はピタリと足を止めた。
あまりにも急の事だったので、飛も瑛己も小暮にぶつかった。
「テテテテ……」
鼻を打ったらしい飛が涙目で瑛己を見る。瑛己も額を押さえていた。
しかし小暮は平然とした様子で、「ここだ」と下を指した。
コンクリートの外壁、よく見ればその下が崩れて穴ができている。
親指でそこを指し、スルリと小暮はその中に潜り込んだ。
瑛己と飛は顔を見合わせどちらが先に行くか無言で争ったが、最終的に瑛己が先に行く事にした。
穴自体は決して大きくない。細身の瑛己でも腹を土にこすり付けなければならなかった。
身をよじるようにして穴の向こうを抜けると、目の前にはまた壁があった。
狭い隙間の中で身を起こし、飛のために場所を開ける。
小暮は少し先、壁が終わる所に立っていた。
「小暮さん」
小声で話しかける。小暮は親指で壁を指し、「倉庫だ。いい所にあるだろう? お陰で見つからない」
「……詳しいんですね、『燕蔵』に」
遅れて飛がやってきた。
一瞬小暮は黙ったが、一つため息を吐いてから言った。「……俺の最初の赴任地だ」
「そうだったんですか……」
「それよりも」
ピシャリと手でそれ以上の言葉を制し、小暮は壁の向こうを指した。「見ろ」
瑛己はそっと身を乗り出し、言われた通り、小暮の体の向こうにある物を見た。
倉庫の向こうはだだっ広く、一瞬何もない空間のように思えた。
だが違う。明かりに照らされるその空間、よくよく見ればそこは滑走路だとわかった。
小暮に言われるままにさらに奥を見れば格納庫のような建物もある。
そしてその前には数台の飛空艇が置いてある。
それ以外、人の気配はない。
飛も瑛己と同じように身を乗り出して見る。
「よし」吐息のように小さな声で小暮が呟いた。「アレをアレする。段取りはいいな。行くぞ」
瑛己は唖然とした。「待ってください」
「あの、何を……?」
段取りがどうのと言われても、何一つわからなかった。
瑛己の様子に、小暮は面倒臭そうに顔を歪めた。
「説明しなきゃわからんか」
「はい」
「……」
小暮は天を仰いだ。
「……あの飛空艇を奪う。段取りは……いい。とりあえず音を立てずについてこい」
言うが早いか、小暮は飛び出した。
慌てて瑛己と飛がそれを追いかける。
倉庫からその飛空艇まではそれなりに距離があった。
誰かに見られないかとヒヤっとする瞬間ではあったが、偶然なのか幸いなのか、誰にも咎められず。
ザッと地面を滑るようにして、飛空艇の影になだれ込んだ。
そのまま手を休めず、小暮は持ってきた黒い鞄の中をさばき始めた。
今度は何をする気だろうか……? 冷や汗の出る思いで小暮の横顔を見ていた瑛己だったが。
飛の息の音に、そちらを向いた。
「ハァ、ハァ……」
荒い。
全力疾走が続いているせいか? 一瞬そう思いかけて。
瑛己はようやく気がついた。
「……飛、大丈夫か?」
囁く。
飛は彼を見もせず、荒い息のまま目を閉じた。
その様子に瑛己は唾を飲み込む。
―――パニック障害。
飛は2回、発症している。
最初は飛行の最中。そしてその次は飛行する直前。
最初に発症してからもうすぐ1ヶ月。その間彼は1度も空に上がっていない。
「……」
小暮が飛空艇に乗り込みゴソゴソと何かを始めた。飛空艇起動に必要な専用のキーはもちろんない。どうするつもりなんだろうか?
いやそれ以前に。瑛己は飛を見つめる。
あれから瑛己も少しは調べた。彼の症状が一体どういう物なのか。
パニック障害の一番の原因は、不安なのだという。
極度の不安と緊張から、脳が誤作動を起こして動悸や息切れなどの症状が一気に押し寄せるらしい。
ある特定の場所、ある特定のシチュエーション、慣れたはずのいつもの生活のワンシーンなど。思いもかけない所で発作が出る事もあるという。
飛の場合は飛空艇という閉鎖された空間。
そしてパニック障害の症状の中に、「予期不安」という症状がある。
それは、1度パニック発作が出た後で、またああなったらどうしようと思う事によって脳が不安に陥り、誘発、発症するのだという。
飛の場合、2度目はそれなのではないだろうか?
瑛己にはその症状はわからない。なった事がないからだ。
しかし少ない光の中でも、飛の額に脂汗が浮かんでいるのが見えた。
『飛がね、言ったんだ……飛べなくなったら自分には、何も残らないって』
症状の改善には……脳の誤作動を慣らしてやる事も1つなのだと、瑛己が読んだ本には書いてあった。
ここは大丈夫。大丈夫。大丈夫……一度噛み合わせの外れてしまった歯車を、何度も時間をかけて慣らして行く作業。
元に戻るには、半年や1年という周期が必要なのだ……。
その間にも小暮は、自分の鞄から取り出した工具を用いて、飛空艇の起動のための準備を進めている。
「小暮さん」
瑛己は声をかけた。小暮は「もう少しだ」と言うだけだった。
「どうやって……」
覗きこむと、何やら手のひら大のキーボードのような物と、カード、そして棒を鍵穴に差し込んでいた。指は絶えず動いている。
どうするべきか? 飛は飛べるのか? 小暮に告げるべきか? しかし何を? 飛をここに残して行くべきだと?
瑛己は迷った。小暮と飛を見比べる。
そうこうしている間に、「よし」
「入った。聖、乗れ」
「え」
「今刺さっているこれを仮のキーとする。このままでエンジンはかかる。いつも通りに起動しろ。飛ぶから」
「……」
瑛己は唖然とする。
「何をボーっとしてる。さっさと乗れ」
「いえあの……」
「ゴーグルか? そこに引っかかってるのを借りろ。軍手はこれを貸してやるから。大体お前、それくらい持って歩け」
「……」
無理やり引っ張り上げられ、座らされる。
瑛己はもう一度小暮を見た。だが彼は瑛己の視線の意味に気づく事なく、「次行くぞ」
「飛、ついてこい」
隣の飛空艇に彼を促した。
瑛己は眉をひそめて彼を見た。「飛」
「……っす」
乾いた声で彼は呟き、ノロノロとした足取りで小暮について行った。
瑛己の胸を不安が掠めた。じっとその背中を見守る。
ただでさえヒョロっとした細身の肩が、今日はいつも以上に細く見えた。
ドク、ドク、ドク
「これが仮キーだ。エンジンがかかる。いつもと同じだ」
「……す」
それだけ言って、小暮は自分用の飛空艇を調達しに行った。
飛は操縦席を見やる。
『翼竜』。だがこの基地の飛空艇は型落ちだ。最新型ではない。
いや、基地を探せばどこかにはあるのだろう。最新の『零ーK型』はこの数ヶ月で随分普及されてきている。しかし今は、それを選んで探している暇はない。
型落ちだからここに野ざらしにされているのか?
そして飛はどちらであろうと飛行経験がある。
「……」
確かに1つでも落ちれば、スピードも劣化する。動きは甘くなる。ミリ単位の事だとしても。
普段の飛ならそういう事まで気にするだろうが、今の彼にはそこまでの余裕はなかった。
胸を占めるのは、ただ不安。
「……」
手の汗がひどくなる。走ったせいじゃない。
呼吸も荒くなる。
落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。
それでも胸から不安は拭い去れない。
「……チクショ」
唇をかみ締め、己の胸倉を掴んだ。
何をやってるんや、須賀 飛。
顔をぶん殴りたい。その衝動に駆られる。右手をぶっ壊したい。何でもかんでも殴り飛ばしたい。
けれども。右手はもう傷ついている。
そしてそうやって傷つけた結果として。
(大事な時に、戦えんかった)
思い出せばまた、胸が張り裂ける。
この拳握り締め、あの時こそ本気で戦って、守りきらなきゃいけないものがあったのに。
「クソったれ」
前髪を掻き上げる。
『飛君』
不意に、脳裏に秀一の父親の姿が浮かんだ。
『秀子を、よろしく頼みます』
飛の中で秀一の父親の像は、いつも揺るがない人だった。
どんな患者がきても真摯に、まっすぐ受け止めて。
どんな状況にも逃げる事なく対処する。
いつも堂々としていた。
その姿は一種、飛ですら憧れる物があった。
祖父と祖母に育てられた飛にとって、秀一の父親は彼にとっての父親の姿でもあったから。
ひそかに尊敬していたその男が……涙を流し、
『よろしく頼む……頼む……』
自分の手を握り締め頭を下げたのである。
託されたのである。彼の願いと―――その命よりも大事な宝を。
飛は握った拳を見た。睨みつけた。
「俺は、」
心臓がバクバク言ってる。胸が張り裂けそうだ。
手が震えだす。
脳がきしむ。
―――だけど、それ以上に。
『何やお前、ホンマにきたんか』
『えっへっへー。明日から正式に『湊』配属だよ』
『あー、うるさいのが来おったなー』
『見て見てこれ。さっき総監からもったんだぁ。いいなぁこれ、カッコいいなぁー。すっごい嬉しい』
『ブラブラ振り回してなくすなよ』
『やっと僕、飛に追いつけた』
『アホぬかせ。お前なんかまだまだ俺の足元にも及ばんわ』
『うんうん。そうだね』
『空は甘ない。ええか秀、言っとく。ここにきたからにはハンパじゃ済まんぞ。覚悟はええんか?』
『もちろんだよ』
『……お前の顔には緊張感がない』
『えー、うるっさいなぁー。この顔は生まれつきなんだから、仕方ないでしょ?』
『……まぁええわ。お前は俺の弟分やからな。ここに来てまったんなら仕方がない。俺の目が黒いうちは、何があってもすぐ飛んでったる』
『えー?』
『俺がお前を守ったる』
『―――』
『あー、めんど。お前がおる限り、簡単に死ねんやないか。空で死ねたら本望やのに』
『……うん。アハハ、絶対だよ、飛』
『あぁ? 任せとけ』
『うん、うん、うん……えへへ』
『何や、ニヤニヤと。気色悪い』
『え、だって何か、嬉しくて』
『阿呆。早く俺に守ってもらわんでもいいように一人前になれ。ええな』
『うん。わかった』
「俺は」
「こんな所で」
「立ち止まってる暇は」
「ないんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
サーチライトに照らされながら。
滑り出す、3機の飛空艇。
空に上がれば上がるほど、陸とは違う寒さが身を刺す。夜は尚更。
瑛己は襟を立てた。
出掛けに1枚上着を持ってきた自分の選択を、まさか空で評価する事になるとは。
瑛己は失笑しながら、1週間前の自分に感謝した。