『故郷(one's native place)』-3-
そしてその頃、飛と秀一は。
故郷に戻り5日目。秀一が飛の家を出て行った。
実家に戻る決心がようやくついたらしかった。
とは言っても、飛の実家と秀一の両親が開業している診療所はそれほど遠くない。
ずっと部屋でゴロゴロしている飛とは対照的に、秀一は町をフラフラしていた。戻ってきている事が両親の耳に入っていてもおかしくはなかった。
そうは思ったが、飛は何も言わなかった。
「行ってくるよ」
「おう」
その一言だけで送り出した。
その日、そして翌日。秀一はそのまま戻ってこなかった。
飛の祖父・祖母はとてもとてもそれを残念がった。
「秀ちゃん、えらい別品さんになったやないか、なぁ、飛」
何を言い出すこのジジィ。飛は祖父を睨んだ。
「んな事言ったらあいつ、怒るぞ」
「けどそうやないか、なあ婆さん」
「ほんにほんに」
「はぁー……」
「まーたお前、ため息」
「あ?」
「秀ちゃんいなくなってから、お前、ため息ばっかりしとるやないか」
「……関係ないわ」
「ホンマかや」
「てめぇらが下らん事言うからやないか!」
秀一がいなくて寂しい?
阿呆じゃないか、と思った。
ド阿呆やないか。
あいつは俺の、弟分や。
何で弟がいなくて寂しがらなきゃならんのや?
「弟……」
自室に戻った飛は、ふと机を見た。
飛の机はグチャグチャだった。瑛己とは違い、こっちの部屋は机に限らず乱雑に散らかっている。
そのグチャグチャの中に、唯一きちんと立てられていたのは、1つの写真立て。
「……」
飛はそれを珍しく手に取り、目を細めた。
自分と写る、もう1人。
それは秀一。
けれどそれは、今とは違う、別の秀一。
「……」
あいつを今の秀一にしたのは、この俺だ。
馬鹿みたいに笑っている写真の中の自分。
「ド阿呆」
指ではじいた。
そしてそのまま写真立てを放り出し、その身もベットに放り出した。
◇ ◇ ◇
翌日。
昼前、秀一が2日ぶりに飛を尋ねてきた。
「2日間何してたの?」
「寝てた」
「もー。戻ってきてからずっと寝てるじゃん! だらけてると、基地に戻った時に泣くよ?」
「そんなもん、別に」
秀一に連れ出され、1週間ぶりにまともに外を歩いた。
町中を、2人で歩く。秀一はパーカーにハーフパンツ。飛はTシャツにジーパン。
『天晴』の町は広い。そして人の数も多い。
都市とは比べられないが、それでも充分賑わっている。大通りには露店がひしめき、野菜や果物、肉や魚、他にもたくさんの屋台・路面店があった。
『天晴』、別名を〝『蒼』の台所〟と言われている。
とてもいい匂いがしたので、通りで売られていたコロッケを2つ買って食べながら歩いた。美味しかった。外で歩きながら食べるのが、また一際だった。
「母さんがさ、」歩きながら、秀一が何の前触れもなく言った。「泣くんだ」
「僕の髪見て。もういい加減慣れてもいいと思うのに。もう何年経つんだよ」
飛はそれを黙って聞いていた。
肉じゃがコロッケ。どこの肉だと書いてあったか? どこか有名な牛だったはずだ。どうしてもそれが思い出せない。
「父さんも何も言わない……。何か実家は息が詰まる。どうしてもいてくれっていうから、2日過ごしたけど」
「ほうか」
「飛のトコはいいな。じじ様もばば様も優しくて。あったかくて。いいな」
「……」
ニコっと笑った秀一から、飛は目を逸らした。
あの発作が起きて以来、飛の口数は明らかに減った。
内心秀一はそれをとても心配していた。けれど決して表情には出さなかった。
秀一の胸にはこの数日いつも、瑛己の言葉があった。
―――飛から、目をそらしてやるな。
「ねえ飛、あそこ行かない? 小さい頃さ、一緒によく行った川原。よく遊んだじゃん。久しぶりに行ってみようよ」
返事を待たず、秀一は飛の袖を引っ張った。
服が伸びる、引っ張るな。脳裏に浮かんだ言葉は、結局飛の唇からつむがれる事はなかった。
秀一に引かれるまま、飛はその後ろを追いかけた。
『天晴』のはずれにある川原。
水辺は太陽の光に宝石を散りばめたように輝いていた。
サラサラと涼しげな音がする。
「わっ、ねぇ、入ろっか?」
靴を脱ごうとする秀一に、飛は土手に突っ立ったまま「めんどい」と呟いた。
「チェッ。絶対気持ちいいのに」
そう言って秀一は飛を放り出して1人川に入った。
浅い川だ。深い所でも膝までしかないだろう。
足首までつかって、秀一はキャッキャと笑った。
とても嬉しそうなその顔を見ると、自然、飛の口元もほころんでしまう。
しかしだからこそ、飛の顔にふっと影が差した。
「飛もきなよー、気持ちいいってやっぱ」
手招きする秀一に、飛は。
ポケットに手を突っ込んで1度空を見上げた。
……やがて。
「秀」
「ん? なあに」
「俺、……空軍辞めようかと思う」
そう言った。
一瞬。何を言い出したのか秀一にはわからなかった。
ただ、見上げた飛の顔がいつになく真面目で。
幼馴染のこの男のこんな顔、見た事がなかったから。
秀一はその場に呆然と立ち尽くした。
「ごめん、……よく聞こえなかった」
聞き間違いかもしれない。それに願いを託し、秀一は笑いながら問うた。
しかし返ってきた言葉は。秀一の意に反したもの。
「俺、空軍辞める」
「……」
何言ってんだよ。そう思った。
今すぐ川から出て、飛の元へ駆け寄りたい。
けれども足が凍りついたように動かない。
つい今しがたまで気持ちよかった水が。不意に凍るような冷たさに変わる。
「なにそれ」
やっとやっとでそれだけ搾り出した。
「いやだなぁー、性質の悪い冗談」
アハハと、秀一は笑って。飛から目を逸らして水に手を伸ばした。
「冗談やない」
「辞めてどうすんの?」
まだ秀一はかろうじて笑っている。でも視線を合わす事はできなかった。
「『天晴』戻って……仕事探す。探せばきっと、何かあるやろ」
「……」
「せやから」
「……」
「お前ももう、無理せんでも」
何だよそれ。
秀一の顔からスッと笑顔が消えた。
「無理って?」
「そやから」
「僕は別に、無理なんか」
「せやけど」
今度は飛がその視線を避ける番だった。
「お前かて、本当は―――」
「待ってよ飛」
「……」
「まさかお前、僕のために辞めるとか、そういう意味じゃないよね?」
「……」
秀一は川から上がると、飛の前に立った。
「ねぇ、飛。僕を見てよ」
「……空軍におったらお前も危険な目に遭う」
「そんなのもうとっくにわかってるよ」
「それにお前の両親かて、」
「それは飛には関係ないでしょ」
「……」
「自分が調子悪いの、人に託けて逃げないでよ!」
「……」
言い過ぎた。すぐに秀一は口をつぐんだ。
実家でのギクシャクが、見た目ほど秀一の中に余裕を残していなかった。
「……ごめ、言い過ぎた」
「……」
「でも……」
何て言ったらいいのかわからなくて。秀一は言葉を失った。
―――飛が空軍を辞める?
飛の飛ぶ事への情熱。それを一番知ってるのは秀一だ。
小さい頃からずっと。
空が飛びたい。その一直線の思い。情熱。
それは傍で見ていて羨ましいほどだった。
(捨てるのか、飛?)
確かに……このまま空軍にいたら危険が伴うのは間違いない。
現実、かつて秀一は飛が死ぬ所を夢で見た。
そしてそれだけじゃない……秀一はギリと歯を噛み締めた。
自分でもわからない。
空軍を去って欲しい。空から遠ざかって欲しい。危険な所に行かないで欲しい。
けれどもそう思う以上の。
―――夢を、捨てないで欲しい。
「それでいいの? 飛……」
空を捨てて、それでいいの?
翼を捨てて。本当にそれで。
「後悔しないの?」
「……」
やや沈黙があって。「俺は、」
「お前が傷つくのを、見たくない」
「……」
秀一は言葉を失う。
なんだよそれ。
なんだよ、それ……。
不意に、秀一の脳裏の瑛己の言葉が蘇る。
―――あいつは、お前の事を大事に思ってる。
「飛……」
俯いたまま顔を上げない飛に。
秀一は腕の時計を取って、その前に差し出した。「これ」
「僕だって、生半可な覚悟で空軍に入ったんじゃないよ」
「……」
「この時計を手にするまでに……僕だって必死だったんだ。僕だって、努力して努力して、ここまできたんだ」
「……」
「僕にだって夢はあるよ」
「……夢?」
「ああ。だから」
まだ、諦めないで。
立ち上がって。
この先に困難があるのはわかってる。
でもくじけないで。
逃げないで。
危険な目に遭ってほしくないとは思う、だけど。
現実から目をそむけないで。
「僕が好きなのは、」
いつも空を睨みつけ。
いつも飛びたい飛びたいと騒いで。飛べる事に大喜びして。
どんな強い者にもひるむ事なく、立ち向かってく。
どんな空でもどんな雲でも、貫いて。突き破って進んでいく。
そういう、飛だから。
秀一の目から、涙がこぼれた。
飛はそれを戸惑い見つめた。
「秀……」
飛のその腕が、秀一に向かって。
動きかけた―――その時。
「『湊』第327飛空隊所属、相楽 秀一飛行兵か」
不意に飛の背後から、場違いな低い声が飛んできた。
驚き振り返るとそこに、男が数人立っていた。
揃えたように全員が長身の、黒のスーツに黒のサングラス姿。
無意識に飛は秀一を背後に隠した。「何やお前ら」
「相楽飛行兵に用がある。一緒に来てもらおう」
「何者や」
「退け」
「何者やって聞いとるやろが!」
たかき、と秀一が言った。飛は無言でただ小さく頷いた。
「手荒な真似はしたくない」
「秀一に用があるならここで言え」
「わからん奴だ」
黒い男の1人が息を吐いた途端。
別の男が1歩進んだ。
そしてそのまま飛めがけて駆けてくる。
飛は秀一を後ろへ押しやると、構えた。
だが、瞬間にして男の姿が消えた。
ハッと目を見開き、その姿を探そうとした刹那。
腹に激痛が走った。
「ぐはッッッ!!!」
黒の男が正面に。その足が、腹にめり込んでいる。
ちきしょ、入った。脳裏を掠めたその言葉。
息ができないほどの痛みと共に、飛の体は吹っ飛ばされた。地面に叩きつけられる。
飛は呻いた。しかし顔を上げたその先で、黒の男が秀一の腕を掴んでいた。
それを見て、飛は這うようにして立ち上がると。
「オオオオオオォォオォオオオ!!!」
頭から、男に向かって突っ込んだ。
一歩、男が後ろへ退いた。
そこへ、右から拳を突き出した。
ケンカは不得手ではない。
けれども飛の拳はことごとく、男に避けられていく。
「オオオオオオ!!!」
それでも飛は、殴ろうとするのを止めない。
その拳は包帯に巻かれている。
(何でこんな時に)
俺は右手をこんなふうに……飛は後悔した。
―――男は、拳を握り締め戦う日がくる。その日のために、あんな所で潰してる場合じゃなかったのに。
不意に喉から、咳がこみ上げる。くそったれと悪態を吐く。血が混じっていた。
そして手を止めたその刹那、黒い男の蹴りが飛の足元に入った。
倒れこむ。それでも何とか這い上がる。
「飛ッ!!!」
悲鳴のような声が上がる。
「逃げろッ……!!」
血反吐を吐く思いでそう叫び。飛はもう一度その右手を振りかざした。
「ゥオオオオオオオオオオ!!!!」
守らないかんのや。
こいつだけは、俺が守らないかんのや。
そう思い続けた飛の耳に届いた最後の言葉は。
「寝てろ」
もう一度、今度は男の腕が腹にめり込んだ。
そこで暗転。
たかき、たかき、たかき―――自分の名を呼ぶその声を聞きながら。
くそったれ、そう呟くのがやっとで。
◇ ◇ ◇
『天晴』の駅から書いてもらった地図を頼りに、瑛己は歩いていた。
だがどうも、迷ったらしかった。
ここは一体どこだろう? 商店街の間を抜け、いよいよ瑛己は内心少し焦り始めていた。
事前に電話して駅まで来てもらった方がよかっただろうか?
何とかなるだろうと楽観して歩き出したのがいけなかった。
キョロキョロと見回す。誰かに道を尋ねようかと思った。
その時、道を黒い車がスピードを上げて通り過ぎていった。
一瞬の事で車種まではわからなかった。
通りのダンボールが2、3個、その勢いに吹き飛ばされた。店主が悪態を吐いている。
瑛己は車が去った方を振り返った。砂煙が立っている。
「……」
何となく、引っかかった。なぜかと言われればわからない。
ただ、嫌な予感がした。
瑛己はその車の来た方へ、走り出した。
そして。
町のはずれの川辺で、見つけたのである。
「飛―――!!??」
彼は土手に血まみれでぶっ倒れていた。
慌て駆け寄り、息を確かめる。浅いが確かにある。
「飛、どうした。何があった」
耳元で必死に声を掛ける。
すると飛は「うう……」と小さく呻きながら薄目を開けた。
「瑛己……?」
「ああ。どうした。誰にやられた」
「黒い奴ら……」
「黒い奴ら?」
「それよか、あいつは……」
「あいつ?」
問うと、飛は苦しそうな顔で。
「ひで……は……」
「え」
「ひで……が……」
そう言って。飛は気を失った。
「ひで……?」
ふと、目の端にチカリと光る物を見て。瑛己はそちらを振り返った。
時計が落ちてる。手に取る。
それは瑛己がしているのと同じ。空軍支給の物だ。
裏面に名前と生年月日、所属などが書かれている。ドッグタグの役割を担う物だ。
瑛己はその裏面を見た。
そこにはこう書かれていた。
―――相楽 秀子 1202/3/30 『天晴』出身 『湊』第23空軍基地 第327飛空隊『七ツ』所属。
誰が倒れようと、誰が息を呑もうと、せせらぎの音は変わらず。
風はその頬をゆるりと撫でて消えて行く。
音も、色も、気配も。何一つ立てる事なく。