『この手、もがけばもがくほど(conflicted)』-3-
雨が、降ってきた。
「気をつけて帰ってね」
海月は今日最後のお客を送り出す。
「海月ちゃん、愛してるよ~」
「アハハ、ハイハイ。またね」
小走りで去って行くその背中を笑顔で見送り。
入り口にぶら下げてある『営業中』の札を外す。
今日はお客の引きがいつもより早かった。
片付けして、お風呂入って寝よう。そう思ったら急に眠気がわいてきて。海月は大きく欠伸をした。
店に戻ろう。そう思いドアノブに手をかけて。
ふと、何かを感じてそちらを見た。
さっきのお客さんが消えて行ったのとは逆の方。
雨に視界がかすむ。けれども、街灯の下に誰かがポツンと立っていた。
一瞬、ゾッとする想像が浮かんだけれども。すぐに、海月は気がついた。
「秀君!」
相楽 秀一が、そこに立っていた。
海月は慌てて、店先にあった傘を1本掴んだ。
「飛君見つからないの?」
飛を探して彼が店にやってきたのは数時間前。
注意していたけれども、やっぱりこっちには来なかったよ。そう言いかけて。
「海月さん……」
自分を見たその目が、赤い事に気がついた。
「どうしたの!? 秀君……」
そのまま泣き始める秀一に、尋常でない物を感じ。
その肩を抱き、とりあえず急ぎ店へと招き入れた。
海月が何度何があったか聞いても、結局秀一は何も答えなかった。
海月はその姿にため息を吐き、とりあえず今夜はここに泊まって行くように勧めた。
秀一は断ったが、海月は頑として譲らなかった。
「こんな雨の中、そんな様子で、放り出せるわけがないでしょう?」
「ごめんなさい、海月さん……」
食堂の2階にある一室で。
泣き疲れたのか、すぐに秀一は寝息を立てた。
一晩、海月は母親のように彼の傍に付き添った。
そして翌朝。
『海雲亭』に秀一を迎えにきたのは、聖 瑛己であった。
◇ ◇ ◇
一晩中降り続いた雨は、朝には晴れていた。
だがその雨に、土も建物も木々も全部が濡れて。
朝の光にその水滴が、まばゆく光っていた。
基地へと続く一本道の脇にある公園に、瑛己と秀一はいた。
今日の召集にはまだ少し時間がある。それに、磐木に事情を話して少し遅れる事も伝えた。
「……すいません、瑛己さん」
瑛己は手近にあったブランコに乗った。随分久しぶりだと思った。
―――瑛己が海月から連絡を受けたのは今朝。宿舎の受付に電話が掛かってきた。
秀一が今ここにいる事、様子がおかしい事、迎えにきてくれないかと頼まれ。その足で磐木に事情を説明に行き、ここにきた。
迎えにきた瑛己を見て秀一は顔を強張らせたが、少し安堵したような様子でもあった。
何度も海月にお詫びをして、瑛己も頭を下げて出てきた。
その際瑛己は海月にコッソリと、「怒らないであげて」と言われている。
無断外泊の件、磐木にも知れている。後で小言の1つや2つは言われるだろう。
その辺の事は瑛己には感知の所ではないが、ただ1つ言うとすれば、
「海月さんにまで迷惑かけるな」
「……すいません」
秀一はさっきからそれしか言わない。恐らく昨晩からこの調子なんだろう。
項垂れた様子でポツンと立ち尽くす秀一の姿に、瑛己はため息を吐いた。彼がこんな状態になる原因は、ただ1つしか浮かばない。
「何があった」
「……」
「飛と何かあったのか?」
「……」
黙りこんだ秀一に瑛己はもう一度息を吐き、ブランコをこいだ。
「……」
秀一はフラフラと歩き、瑛己の隣のブランコの鎖に手をかけた。
「……瑛己さん、僕、どうしたらいいかな……」
「何が」
と言ってから、自分でも馬鹿な返しだと思った。
「飛がね、言ったんだ……飛べなくなったら、自分には何も残らないって」
「……」
「どうして、こんな事に……」
「……」瑛己はブランコをこぐ手を緩めた。
鎖についていた水滴で手が濡れた。それをピッと指だけで払った。
「あいつの気持ちも、少し、わかる」
「……?」
「俺たちにできる事は、飛ぶ事だけ。それを失ったら、何も残らない」
「そんな事は……」
「ある」
「……」
「飛ぶ事は生きる事。命そのもの」
「……」
「飛は特に、その思いが強かっただろ。……きついだろうな」
「……」
「でも飛は、」と区切って。瑛己はまっすぐ前を見た。「飛ぶ事よりもっと大事な事を……見つけたんだろうな」
「え……」
「お前の命だよ」
「……」
秀一は言葉を失った。「何それ……」
「飛が一番心を痛めたのは、意識が戻らないお前の姿……だった」
「……」
「多忙と過酷な作戦も、負担の1つかもしれないが……お前が倒れなければ、何でもなかったんだろうさ」
「……」
「お前が倒れて初めて、気づいたんだろう、あいつは」
自分の思いがいかに軽率であったか。
そして自分が、何のために飛んできたのか。
飛ぶとは何なのか。
ただ面白い、それだけで飛んできた。そこに生まれる責任とか、結果とか、そういうものは全部無視して。
だけども。
「飛ぶ事は、命そのもの」
命を矢面にして、自分たちは飛んでいる。
命を矢面にしているからこそ、こんなにも自分たちはここで、燃える事ができる。全力を尽くす事ができる。
その一瞬の緊張感がたまらなく心地よく。
だからこその、満足感。
それゆえの、陶酔感。
自分が求めていたものは、そういう物。
だけどそれは一歩間違えれば。
―――死ぬ事。
生きる事と死ぬ事は、延長線上。
「飛びたい戦いたい……その果てに、お前が死にそうになった。面白半分に突っ走ってきたあいつにとってそれは、かなりの痛手だったんだろう」
「……飛は、僕の事なんか」お荷物程度にしか……と言いそうになった秀一を。
瑛己は苦笑して制した。
「飛の心配ぶりは、お前だってわかってるだろ」
「……」
『園原』での彼の異常なまでの気遣い。秀一が気がつかないわけがなかった。
「僕のせい……」
「いや」
瑛己は首を振った。「それだけあいつは、お前を大事に思ってるって事だ」
「……」
「それに気づいたんだろう。そしてその瞬間にできた心の隙間にヒビが入った。そういう事だろう」
「……」
「大事な物ができると、人はもろくなる」
瑛己は空を見上げた。「でも、それは、弱さとは同義じゃない」
「飛は、弱い奴じゃない。弱いから心を病んだわけじゃない。……世にいるすべての者、俺もお前も、いつだってその可能性がある」
ちょっとした、精神のズレ。
ただそれだけ。
心に生まれた葛藤が起こした、少しの隙間。
「元に戻るには、少しの時間と……あいつの意志が、必要だろう」
「……」
「俺たちにできる事は、それを見守ってやる事」
「瑛己さん」
「理解して、傍にいてやる事。……俺はそう考える」
「……」
もう一度、瑛己はブランコを漕ぎ出した。
秀一は地面を見て、やがて自分もブランコに乗った。
「できるかな」
「何が」
「僕に、飛を守るって」
「もうやってるだろ」
「……そうかな」
「そうだろ」
「うん……」
「秀一、」
「え?」
「逃げるな」
「……」
「あいつから、目をそらしてやるな」
「……うん、えへ」
「……なんだ」
「瑛己さんってさ、何だかお兄ちゃんみたい」
「? ……一応年上だからな」
「でも1個だけじゃん」
「1個でも年上は年上だ」
「えへへ。そうだよね」
「年長者を敬え」
「あはは、何だかおじいちゃんみたい」
「俺が年寄りなら、お前だってそうだろ」
秀一が笑った。
瑛己はそれを耳にして、少し安心した。
この手、もがけばもがくほど。
痛みを伴い、血を流し、涙する事もあるけれども。
この手、もがき、もがくからこそ。
―――雲をかきわけ、その隙間から。
希望の光は、降り注ぐ。
砂利の一本道を行くと、『湊』の基地は見えてくる。
そしてその入り口に、飛が立っていた。
門に背中をもたれさせ、バツ悪そうに。2人を認めると、一瞬視線を外しながら背中を外した。
「あー」
視線を合わせないまま、気まずそうに飛は声を出した。
「何してんだ」瑛己が察して声を掛けた。
「……おう」
そしてまた包帯まみれになった右手を見、瑛己は大きくため息を吐いた。
「お前、右手。またなのか……」
「コケたんや」
「そうか」
そして瑛己はチラっと秀一を見た。
秀一の顔は、さっきまでと打って変わって緊張に強張っている。
瑛己は飛を睨みつけた。
飛はその視線に気づき、心底困った様子で秀一を向いた。
「秀、昨日はその……悪かった」
「……」
「カッコ悪いトコ見せた。突き飛ばしたやろ。どっか怪我せんかったか?」
「……僕は、大丈夫」
「そか」ボリボリと頭を掻いて。「ホンマ、スマン」
「ううん……」
ブンブンと首を振って、秀一は笑顔を作った。「僕も、放り出して行っちゃってごめん」
「右手大丈夫?」
「ああ……佐脇センセと隊長とジンさんにぶっ飛ばされて、小暮さんに嫌味言われて、新さんに笑われた。それでなくても機体の補充が遅れてんのに、無駄な手間増やすなって」
「あは」
笑う秀一と、頭を掻く飛。
瑛己はその両方を見て。
ふと、履いていた靴を片方脱いだ。
そしてそれで飛の頭を。
「ちょっと待て瑛己。何する気や」
「別に」
「お前それで殴る気やろ? そうやろ」
「この前、いい音がしたから」
「そ、それだけの理由か! ちょっと待て、待て、待て―――」
ボコンッ!!
飛の悲鳴が響いた。
が、スリッパよりもいい音がしなかったので、瑛己はいまいち満足できなかった。
でも秀一が大笑いしたので、まぁいいかと、思いなおした。
◇ ◇ ◇
「今期は基地の補修や『園原』への遠征などにより、休暇らしい休暇を取る事ができなかった。1ヶ月遅れだが、明日より2週間、休暇とする事にする。もう総監には申請を出した。故郷に戻るのもいい。自由とする」
327飛空隊面々に向け、磐木はいつもの強い口調でそう言った。
「また急ですね」
小暮の言葉に、ジンがクッと笑った。「この人はそういう人だ」
「風迫。今何か、皮肉のように聞こえたが」
「気のせいです」
表情を直し、ジンが続ける。「全員大体の予定を立てて後で隊長か俺に報告するように。いいな」
「2週間かー、どうしよっかなー、おい」
新に膝で突付かれた飛は、少し硬い表情で聞いた。
「俺のせいっスか?」
それに磐木は即答した。
「うぬぼれるな」
飛の目をまっすぐ見つめ、磐木は言った。
「夏季休暇は業務規定内だ。取っていないのは我が隊だけだった。昨日事務方から文句を言われた。それだけだ」
「ああ、それでですか。昨日事務の内藤さんにガミガミ言われてたから。何かなと思って見てたんですよ」
「……あの人はどうも苦手だ」
その後日課の筋力トレーニングと講習、飛空艇の点検などを行い、今日は終了となった。
「どうする? 休暇。考えたか?」
夕食は食堂で、そのまま全員で取る事になった。
「新は雪乃ちゃんの所だろ、どうせ」
「へへ、よくご存知で」
「雪乃さんって、『湊』の町の画材道具屋さんの人でしたよね?」
「そうそう。よく知ってるな秀一」
「2週間もあるならたまには旅行でも連れてってあげれば?」
「んー、店がねー……まぁちょっと臨時休業すりゃいいか?」
「こいつ雪乃ちゃんにベタ惚れで、休みの日には店番手伝ってるんだぞ」
「へぇー。純愛ー」
「うるせーよ。小暮ー、余計な事言うなよな」
新は口を尖らせ、照れ隠しか、小暮のカツカレーのカツを一切れ取って食べた。
「瑛己さんはどうするの?」
小暮と新の醜いカツの奪い合いが起こる中、秀一に聞かれ瑛己は小首を傾げた。
「実家に戻るかな……」
「瑛己さんの実家ってどこだっけ?」
「北の山奥だ」
地名を言ってもわからないだろうから、そう言って流した。
「北なら、岐北線で?」
「終点からバス」
「じゃあ途中まで一緒ですね。僕らも『天晴』だから、岐北線。一緒に行きましょう」
「……秀、お前、実家戻る気なんか?」
「飛も戻るでしょ? この前ばーちゃんから手紙来たって言ってたじゃん。たまには顔見せろって」
「めんどい」
実家か……瑛己は虚空を見つめた。
(ずっと行ってないからな)
「瑛己さんが戻れば、家族の人も喜びますよ」
秀一は笑った。
そうかな、と瑛己は苦笑した。
確かにうちの両親は、自分のこの現状を知っていれば、墓参りに来ない事をなじったりはしないだろう。
◇ ◇ ◇
解散となり、瑛己は一度宿舎に戻ったが着替えて再び部屋を出た。
『海雲亭』に行き、改めて海月に詫びようと思った。
その途中で磐木に会った。
彼は宿舎の出入り口にある自動販売機の前に立っていた。
「お前か」
磐木が持っていたのは濃い目のお茶だった。
瑛己も釣られて珈琲を買った。
「休暇の行き先は決まったのか」
「はい、実家に。両親の墓参りに行ってきます」
「そうか。自宅の方はあるのか?」
「そのまま残してありますんで。埃だらけでしょうけど」
「気をつけてな」
「……隊長は?」
「俺はここに残る。何かあったら連絡しろ」
「はい」
ゴクリと珈琲を飲む。
磐木もお茶を一気飲みした。
ふと瑛己はその横顔を見た。
そして一瞬考えたが。「……あの」
「何だ」
「……」
「何かあったか」
「……山岡 篤に会いました」
ボソリと、告げた。
「何」磐木の表情が、怖くて見えなかった。「いつだ」
「『園原』で、模擬空戦の数日前です。呼び出されて」
「なぜその時言わなかった」
「……すいませんでした」
瑛己は頭を下げた。
磐木は息を吐いたが、それ以上怒る事はせず、「それで」
「何を言われた」
瑛己は説明した。
『白雀』で助けられた事を礼を言うべきかと思って行った事。
山岡には以前も『海雲亭』で会った事があるという事。
そして山岡が、3ヶ月前に起こった『ビスタチオ』での都市壊滅の要因が、空(ku_u)であると言っていた事。
「山岡は、空(ku_u)は誰かの命令で動いているのではないかと……」
「そうか」
ううむと磐木は唸った。「それは俺も思っていた」
もう一つ。時島の事だ。
それを言おうと、口を開きかけた時、
「隊長」
向こうから、ジンが現れた。
「ちょっとよろしいですか?」
「急ぎか?」
「幾分」
「わかった」
磐木は瑛己に「すまん」と言った。
「俺も少し調べてみよう。お前も気になるだろうが、無茶はするな」
「はい」
「また何かあったら言ってくれ」
今日はここまで。
磐木は背中を向けた。
だが不意に瑛己を振り返り、「瑛己」
「話してくれて、ありがとう」
風に消えるほど小さな声でそう言ったように聞こえたのは、気のせいだったかもしれない。